第377話:ボスポラス海峡
「40年間か。長かったな」
トルコへと向かうプライベートジェットの操縦席で、ジャックが漏らす。
米軍のエースパイロットまで務め上げ、空とともに半生を過ごしたジャックが、操縦桿を手放す日まであと数日。
十萌さんが、笑いながら言う。
「感傷にはまだ早いわ。トルコからベトナムまでは、きっちりと送り届けてもらいますからね」
――なんだか、妙な展開になってきた。
給油のためとはいえ、もともとベトナムに行くはずが、なぜかトルコに向かっている。
まぁ、いっか。
わたしは心の中で呟く。
実をいえば、トルコはずっと憧れていた場所でもあった。
篠原千絵の『夢の雫、黄金の鳥籠』、そして『天は赤い河のほとり』の二作品は、まさにこのトルコが舞台だったからだ。
今すぐにでも一巻から読み直したくなる衝動を、ぐっと抑える。
合計48巻にも及ぶ大作を読み始めたら、きっと眠れなくなってしまうだろう。
代わりに、十萌さんお勧めの『文明の衝突』のページを開く。
まるで教科書のような語り口のこの本は、飛行機の心地よい振動と相まって、睡魔を誘う。
十分もしないうちに、わたしは眠りの世界に落ちていた。
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2030年2月13日 トルコ・イスタンブール
昨晩、一睡もしていなかったせいだろう。
ハバナからトルコまでの12時間を超えるフライトの大半は、ベッドの上で過ごしていた気がする。
起きては『文明の衝突』を読み、また少し寝て、目を擦りながらも再びページを開く。
読み始めの数十ページは、苦行に近かった。
それでも、読み進めるうちに、どんどんのめりこんでいった。
『文明の衝突』には、数多くの文明が描かれていた。
西欧文明、イスラム文明、ラテンアメリカ文明、ヒンドゥー文明、アフリカ文明、中華文明、正教文明、それに日本文明も。
それぞれの文化的差異が増幅していき、やがて衝突へと向かっていくメカニズムが、これでもかというくらい克明に描き出されている。
――十萌さんが言っていたのは、これのことか。
確かに、この本の中でのトルコは、”引き裂かれた国”として描写されている。
「特にイスタンブールは、ヒッタイトに始まって、ギリシャ・ローマ、東方キリスト教、そしてイスラム教と、様々な文化が入り交じってきたからね」
そう言うと十萌さんは、飛行機の窓を覆っていたブラインドをゆっくりと引き上げた。
眼前に、光の洪水が飛び込んできた。
ピンク色の残照を残して、街を夕闇が包み込み、海峡が分かつ二つの大陸を赤い橋が繋ぎとめている。
「あれが、ボスポラス海峡よ」
「両岸の距離って、思ったよりも近いんですね」
ヨーロッパとアジアを分かつ海峡と聞いていたので、対岸が見えないくらい離れているのかと思っていた。
「ええ。最も接近している場所は、1キロにも満たないの。フェリーに乗れば、ものの数分よ」
だけど……と十萌さんは続ける。
「西洋と東洋の文化の溝は、この海峡よりも遥かに深いわ」




