第336話:ヴィート大聖堂
「中は、とにかく異様だったんです」
病院に向かう道すがら、わたしは言葉を絞り出した。
正直、カフカ美術館の中での体験を、言葉で表現するのは難しい。
あの場を支配する空気のようなものが、自分の中に浸食してくるような、とにかく初めての、そしておぞましい体験だったからだ。
ソジュンの様子を見ても、その感想は一緒のようだ。
彼もまた、適切な表現を探そうと、宙を見つめている。
「あれを見る前と後とじゃ、プラハの街の景色が、がらっと変わって見えるよな」
シモン刑事の言葉が言う。
――ほんとだ。
行きに見たときと比べて、どこか世界が根元から変容して見えている気がする。
「ちょうど見えてきたわね」
そう言って、十萌さんが指さした方向には、先頭が天を指す荘厳な大聖堂が屹立していた。
「あれが、カフカの『審判』に出てくる”ヴィート大聖堂”よ」
わたしは、車中で読んだ『審判』という作品を思い出す。
平凡な銀行員のKが、ある朝何の前触れもなく逮捕され、罪状も明かされぬまま法廷が始まる――という不条理極まりないストーリーだった。
物語のクライマックスで、Kはこの大聖堂の「掟の門」の前に立たされる。
実はその「掟の門」こそが、Kにとっての救いの道があったにもかかわらず、彼はそれを選ぶことができず、結局石切り場でナイフで心臓を刺されて死んでしまう。
「いや、マジで意味が分からないし、一ミリも納得いかないんだけど……」
ソジュンの感想も同様だった。
ただ一つ確かなのはただ一つ確かなのは、あの小説のせいで、大聖堂の華やかな薔薇窓も、優雅な石の透かし細工も、全く美しいと思えなくなってしまったのだ。
むしろ、屋根から突き出るように睨みをきかせている無数の不気味な怪物・ガーゴイル像にばかり目が行ってしまう。
「『審判』を通して、結局、カフカは何を伝えたかったんでしょうか?」
「あの作品が発表されたのは、作者の死後なの。だから本当の意図は分かりようもないわ。ただ、私にとってカフカは、人間や、その社会の持つ本質的な二面性を書き続けた作家だと思っているの」
――確かに、あの美術館の中でわたしは、自分自身の”負の面”に無理やり向き合わされたように思う。そして、それが、”正の面”が浸食されていく恐怖を味わった。
でもそれは、どちらもわたし自身が持つ一側面なのだ。
綺麗な薔薇窓も、醜いガーゴイルも、いずれもヴィート大聖堂の一つの側面であるように。
「ああ。だから、わたしたちをここに連れてきたんですね」




