第334話:眩暈
「あれが、フランツ・カフカ美術館だ」
白鳥が飛び泳ぐヴルタヴァ河沿いに立つ、レンガ造りの瀟洒な建物が目に入ってきた。
「……なんか、思ったより普通なんですね」
あの不気味で不条理な作品世界から、なんとなく奇妙な建物を想像していた。
「入ってみれば分かるさ。いかに彼が真っ当に狂っていたかがな」
シモン刑事は微かに笑い、わたし達を入口へと誘う。
わたしと、ソジュンが美術館の扉の前に立った時。
シモン刑事は、こう言った。
「ここからは、一人で観た方がいい。この中が感じたことが、おそらくあの少女を理解する助けになるだろうから」
――え!?
それって、どういう意味?
わたしとソジュンが口を開く前に、シモン刑事は、十萌さんを連れて、スタスタと庭の方へと歩いて行ってしまった。
残されたわたしはソジュンは、顔を見合わせる。
でも結局は、シモン刑事のアドバイスに従い、別々に行動することにした。
そんな簡単なことで、ユンの気持ちを少しでも理解できるとしたら、やらない理由などない気がしたからだ。
わたしは、美術館の重い扉を押した。
薄暗いエントランス。
壁に投影される文字が、ゆっくりと溶けるように動いている。
カフカの代表作「変身」の一節が、私の足音に合わせて伸びたり縮んだりする。
「朝、目覚めると、自分が巨大な毒虫になっていた」
最初の部屋に入ると、鏡が並んでいた。
いや、鏡ではない。鏡のふりをして、私を映さない何か。
そこに映るのは、わたしの顔のはずなのに、輪郭が少しずつぼやけていく。
目が二つあるはずのところが、ただの空白のように見える瞬間がある。
私は指で自分の頰を触ってみた。
冷たい。
でも、触れた感触が、自分のものかどうかわからない。階段を降りる。
下へ、下へ――。
カフカの声が録音で流れてくる。
「私は自分自身を理解していない。自分自身を理解しようとするたびに、別の私が現れる」
その言葉が、私の胸の奥に直接落ちてくる。
まるで鉛の玉のように、重く、冷たく。
出口の前に、ただ一枚の扉。
扉には鍵穴がない。
代わりに、小さな文字が刻まれている。
「ここを通る者は、自分を失う」
わたしは眩暈を覚えた。
――ダメだ。
この思考の迷宮から抜け出さなければいけない。
わたしは声を出そうとした。
ひゅっと空気を吐く音だけがした。
そのとき。
手に、仄かに温かな感触が伝った。
ソジュンの手だった。
その手は微かに震えている。
顔を見ると、彼の顔もまた青ざめて見えた。
たぶん、わたしも彼も同じことを考えていた。
わたしたちは、今ここで、疑似体験をしたのだ。
二つの人格を持つユンが常に晒されている、「自分が自分でなくなるという恐怖」を。




