第333話:青き水面は今もなお
フランツ・カフカ美術館へは、護衛を兼ねて、シモン刑事が付き添ってくれることとなった。
病室のユンのことはやっぱり気になるけど、久我教授とカタリーナが付き添ってくれているなら大丈夫だろう。
「この街で生まれ育ったからな。もう庭みたいなもんさ」
そう言って、路地裏へとひょいひょいと入っていく。
――昔みた西洋の絵本の中にいるみたいだ……。
優雅な曲線を描く、色とりどりの家が、まるでバロック建築のショーウィンドウのように立ち並ぶ。
よく見ると、屋根の端に小さな天使やライオンなんかが彫られていて、建築家のいたずら心が感じられる。
「あれが、キンスキー宮殿だよ」
シモン刑事が指差した先には、淡い桃色とクリーム色の壁面に、これでもかっというくらいの装飾で飾られた館があった。
「屋根に、めっちゃ人がいる…」
ソジュンも思わず呟く。
数えると、赤色に屋根の端に立つ八体もの黒い彫像が、わたしたちを見下ろしている。
「そのうちの四体は、”火・水・空気・土”の古来の四元素を象徴する彫像なんだ。残り四体は、ギリシャの神々だよ」
―ギリシャの神々……。
わたしは思わず、古代ギリシャからの記憶を持つという、第二の人格のことを思い出してしまう。
ギリシャ神話なんて、「聖闘士聖矢」か「ヒストリエ」くらいでしかイメージがない。
何て言ったって、2500年以上前、つまりキリストの生誕よりずっと前ということなんだから。
そのころからの記憶を持っている何て言われても……正直信じがたい。
でももしかしたら、ヨーロッパには、このように生活の中にさりげなく痕跡があったりするんだろうか。
そんなことを考えながらシモン刑事についていくと、やがて大きな河が見えてきた。
「あれが、Vltava河だ」
唇を二度も噛みそうな発音を反芻していると、十萌さんが小声で教えてくれる。
「Vltavaはオリジナルのチェコ語の呼び方よ。でも日本人にとっては、ドイツ語のMoldauの方がなじみ深いかもね」
「え、あの音楽の時間に習った?」
わたしの脳内に、懐かしい旋律が歌詞とともに蘇る。
なつかしき河よ モルダウの
清き流れは わが心
うつくしき河よ モルダウの
青き水面は 今もなお
――たしかそんな感じの歌詞だったはずだ。
まさか自分がその”青き水面”を、この目で見ることになるとは思いもしなかった。
「19世紀当時、作曲者のスメタナは、聴覚を失う中で、この曲に祖国への想いを託したそうよ」
「当時は、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下だったからな。ドイツ語を強要されてたせいで、モルダウという名前が普及してしまったんだ。それでも俺たちにとっては、この河の名は、永遠にヴルタヴァなのさ」
シモン刑事が念押しする。
その口調から、自国への誇りが伝わってくる。
わたしは、ヨーロッパの人が持つ、複雑な帰属意識に興味を持ち始めた。
自国への誇りを持ちつつも、古代ギリシャの彫像が、かつての国の象徴たるキンスキー宮殿に堂々と飾られている。
では、ユンの身体を持ちながらも、ギリシャの記憶を持つ第二人格は、一体、何人なんだろうか。
ヴルタヴァは、そんな問いなど気にも留めず、悠々と流れ続けていた。




