選択
もう一度付き合おう。そう水無月に言ったのはその場の勢いもあったのだと思う。彼女が自分のことを嫌ってはいなかった。それが嬉しかったから。
そして欲が出てしまった。また彼女と付き合えば前に進めるのではないか、と。
一花はキーを叩いていた手を止めて水無月へ視線を向ける。彼女はそれまでと変わった様子もなく、すんとした表情でパソコンのモニタに向かっている。
あれから一ヶ月。彼女との関係は変わったようでいて変わっていない。連絡先を交換し、一花がメッセージを送れば彼女も返信をくれる。ただそれだけだ。水無月の方からメッセージが来たことは一度もない。もちろん一緒に出掛けたこともない。そんな話にすらならない。通話をするようなこともなく、メッセージの内容も仕事のことがメインだった。
――どうしたらいいんだろう。
彼女との距離感がわからない。昔のような関係には今のところ到底戻れてはいない。むしろ彼女との関係は以前よりも薄れているような気さえする。
一花はデスクに置いていたスマホを手にすると、少し考えてからメッセージを打った。
『次の土曜日、どこか行かない?』
送信して水無月を見ると、彼女はすぐに気づいたようでスマホを手に取った。それと同時に送信したメッセージの隣には既読の文字が表示される。そしてすぐに返信。
『仕事に集中して』
少し待ってみたが他に返信はこない。自然と一花の気持ちは沈んでしまう。
あれから職場の外で会うときはいつも秋山の店だった。会話をしていても彼女の視線は秋山を追っていた。二人で過ごしているはずなのに水無月の意識は一花には向いていない。その時間が楽しいはずもなく、胸に広がっていくのは虚しさだけだ。
――やっぱり秋山さんのことが好きなのかな。
そういう関係ではないと水無月は言った。秋山も同じ事を言っていた。しかし秋山はこうも言ったのだ。身体の関係はある、と。
――だったら付き合ってるってことじゃん。
もしくは付き合っていたのかもしれない。あの二人の間には特別なものがある。それは自分には手に入れることができなかったもの。そんな二人の関係が羨ましくもあり、妬ましくもある。
自分は水無月と付き合ってどうしたいのだろう。返信がこないスマホの画面を見つめながら考える。
昔みたいな関係には戻れない。それはもうわかっている。この一ヶ月で水無月にそのつもりがないこともわかった。それでも別れずにこうして付き合ってくれているのは彼女が優しいからだ。その優しさに甘えて自分は何をしようというのだろう。こんな口約束だけの関係に、何の意味があるのだろう。
一花はスマホの画面に指を乗せてメッセージを打つ。
『ごめんなさい』
その先に続く言葉が思いつかず、しばらく考えた末にそれだけを送信する。きっと返信が来てもさっきと同じように怒られるだけだ。大人しく仕事に専念しよう。そう思ってスマホを閉じようとした瞬間、画面に新しくメッセージが表示された。
『どこ行きたいの?』
一花は驚きながら再び水無月へ視線を向けた。しかし彼女はこちらを見ていない。表情だって変化はない。黙々と仕事に打ち込んでいるように見える。それでも嬉しくなってすぐに返信を打つ。
『モールに行きたい』
『アウトレットのとこ?』
『そう。映画館もあるから何か観たいな』
『いいよ』
「やった……!」
思わず呟いた声に、近くの席の同僚が怪訝な顔を向けてきた。一花は笑って誤魔化しながら返信する。
『デートだね! 楽しみにしてる!』
『いいからちゃんと仕事して』
すぐに返ってきたメッセージに笑みを浮かべながら一花はスマホをデスクに置いた。水無月は相変わらずこちらを見てはくれない。しかし、ほんの少しだけその表情が和らいでいるような気がする。その変化が嬉しくて、つられるように一花の顔も和らいでしまう。
「おい、如月」
ふいに呼ばれて顔を上げると、そこにはいつの間に来たのか松本が立っていた。
「なに」
「気持ち悪い顔してんぞ」
「いや、いきなり失礼じゃない?」
「通りがかりに締まりのないニヤけ顔が見えたもんで、つい」
彼はそう言うと不思議そうに首を傾げた。
「ちょっと前まではめちゃくちゃ具合悪そうな顔してたのに、最近はなんか浮かれてね?」
「そ、そう?」
「あー、さては男か」
一花は笑って「ないない」と片手をヒラヒラさせる。それを見てなぜか彼は安堵したような表情を浮かべた。
「だよなぁ。如月、全然そういう雰囲気ないもんな」
「なんかモヤッとする言い方だけど」
「まあまあ。それよりさ、聞いたか? 水無月さんの話」
急に水無月の名前が出てきて一瞬、心臓が跳ねる。
「え、水無月……さん? なにかあった?」
「んー。よくわかんないけど彼女、契約期間を短縮できないかって課長に相談してるらしいんだよ」
声を潜めて松本が言う。それを聞いて再び一花の心臓がドクンッと強く脈打った。
「――なに、それ」
一花は呆然と彼を見つめ、そして「いつ聞いた話?」と掠れた声で訊ねる。
「先週。課長が悩んでたよ。代わりを探すか引き留めるか、どうするかって」
「……へえ」
少し浮かれていた気持ちが一気に冷めていくのがわかった。
水無月は仕事を辞める気だ。それを秋山から聞いたのは一花が水無月と付き合う前だった。一花と働くのが気まずいから辞めたがっている。そう思っていた。しかし、今はもう以前ほどの気まずさはないはずだ。
――なんで、まだ辞めるなんて。
「何か嫌なことでもあったかな。如月、おまえ何かしたんじゃないの?」
いつものように一花をからかおうとしてくる松本の声。しかしとてもそれに応える気にはなれず、一花は無言で顔を俯かせる。その反応に戸惑ったのか、彼は「いや冗談だよ。マジになるなって」と慌てたような声で言った。
「何か家庭の事情とかだろ。水無月さん、仕事もできるし責任感あるタイプだしさ。誰かのことが嫌だから仕事辞めますなんて言う人じゃないだろ。絶対」
「……そうだね」
――そうとは言い切れない。
一花は思う。一花との関係は確かに気まずいものではなくなったかもしれない。しかし、きっとこの関係は水無月が望んでいたものではない。それは最初からわかっていたことだ。彼女は一花と深く関わる気なんてなかったのだから。
一花は水無月へ視線を向けた。仕事中の彼女はいつでも無表情で、そこにどんな感情があるのかよくわからない。
「ま、そういう話はあるけど本決まりじゃないからさ。あんま気にすんなよ」
松本はそう言うと自分のデスクに戻っていった。
「……無理でしょ、そんなの」
ぼんやりと水無月を見つめながら呟く。
土曜日のデートを楽しみにしていた数分前の自分があまりにも滑稽で嫌になる。水無月の優しさに甘えて彼女の気持ちを考えようともしていなかった自分に腹が立つ。
――わたし、バカじゃん。
そのとき、ふいに彼女が一花の方へ顔を向けた。しかし彼女は怪訝そうな表情を浮かべただけですぐに目を逸らしてしまった。
一花は視線をスマホへ移動させる。もし今、彼女からメッセージが届いたら聞いてみよう。どうして仕事を辞めようとしているのか。しかしスマホの画面はいつまでも真っ暗なままだった。
もやもやとした気持ちを抱え、しかしその気持ちを水無月に投げることもできないまま迎えた土曜日。一花は待ち合わせ場所であるモールの一角にぼんやりと立っていた。
ちょうど秋物のセール期間だったようで周囲を行き交う人の数は多い。楽しそうな様子の人々を眺めてからスマホを確認すると時刻は午前十一時半。待ち合わせの時間は十一時だ。連絡もない。
一花はため息を吐きながら近くのベンチに腰を下ろすと水無月にメッセージを送った。
『大丈夫? 何かあった?』
すっぽかされたのかもしれない。そう思うと同時に彼女がそんなことをするわけがないとも思う。だったら何か事故に遭ったのかもしれない。根拠のない不安が別の不安を呼び寄せる。
「……水無月」
送信したメッセージに既読はつかない。一花は画面をスクロールさせて水無月とのやりとりを最初から眺めた。
連絡先を交換してから短い文だけが続く水無月からの返信。それはどれも素っ気ない。そのどれもが上辺だけの言葉。そんな気がする。そこに彼女の気持ちが感じられない。
――やっぱりもう、ダメなのかな。
水無月はもう自分に興味はないのかもしれない。一花と松本との関係を勘違いしてヤキモチを焼いてくれた。一瞬でもそう思ったが、それも違ったのかもしれない。
一花はそっと唇に指をあてる。あのときのキスも一花がうるさく騒いだから黙らせようとしただけなのかもしれない。あのときも彼女は怒ったような悲しい顔をしていたから。
「――全然成長してない。わたし」
ポツリと呟いてスマホの画面を閉じる。
――あんたがしてることは叶向を傷つけてるだけだよ。
ふいに蘇ってきたのは秋山の言葉。
高校の頃、どうして自分といると水無月があんな悲しそうな顔をするのかわからなかった。どうして悲しそうな顔をしているのに怒ったような態度を取るのかわからなかった。だから少しだけ距離を置いてみた。その選択が間違っていたとわかったときには彼女はもう手の届かない遠い場所に行ってしまった後。
そのことを後悔して生きてきたというのに、どうやら大人になった今も誤った選択をしようとしているらしい。いや、すでにしているのか。それがまた水無月を傷つけているのかもしれない。
「まだ間に合うかな……」
スマホを握りしめて立ち上がる。
まだ間に合うのなら別の選択をしたい。自分がそばにいても彼女が彼女らしく笑ってくれるような、そんな選択があるのならばそれを探したい。
そのとき「如月!」と声が響いた。反射的に振り返る。すると私服姿の水無月がこちらに向かって走ってくるところだった。
「ごめ……、寝坊しちゃって」
彼女は一花の前まで来ると息を切らせてそう言った。一花は呆然としながら「メッセージ、送ったんだけど」と呟く。
「ああ、うん。慌てて出てきたからスマホも忘れちゃって」
彼女は言いながら申し訳なさそうな表情で頭を下げた。
「ほんっとごめん」
謝る彼女の髪の毛は一房だけフワフワと立って揺れている。一花はフッと微笑みながらその髪に手を伸ばした。
「寝癖、そのままでバスに乗ってきたの?」
「え、寝癖ついてる? 美守、何も言ってくれなかったのに」
その瞬間、一花は手を止めた。ほんの少しだけ暖かくなっていた胸の奥から急に温度が消えたような気がする。
「秋山さん、か」
一花は彼女の柔らかな寝癖をそっと撫でて手を下ろした。
「うん。車で送ってもらってさ。バスより速いと思って」
「そう……」
一花は顔に笑みを張り付かせながら「とりあえず、ランチにしようか」と背を向けて歩き出した。
「お腹減っちゃった」
「……そうだね。わたしが奢るよ」
「彼女として?」
斜め後ろを歩く水無月を振り返って一花は訊ねる。しかし彼女は困ったような顔で「お詫びとして」と言った。
「……そう」
期待した答えが返ってくるわけがないことはわかっている。それが無性に悲しくて腹が立って、しかしそれを彼女にぶつけることが間違っていることもわかっている。一花は無言のまま歩き続けた。
「――如月」
そう呼んだ水無月の声は彼女らしくもない、不安そうなもの。
「なに?」
「ごめん。遅刻して」
「別に怒ってないよ」
「じゃあ、こっち見てよ」
その言葉に一花は立ち止まって振り返る。水無月は声の通り不安そうな表情で一花のことを見ていた。
「やっぱ怒ってるじゃん」
「怒ってないってば。ただ何を奢ってもらおうかなって考えてるだけで」
「その笑った顔、如月が怒ったときの顔だよ」
「なにそれ。なんでわたし怒ってるのに笑うの。怖いじゃん」
「だって如月、腹が立っても我慢するでしょ。そうやって笑ってさ」
水無月は少し悲しそうな笑みを浮かべて首を傾げた。そして「ごめんね」と再び謝る。
一花は笑みを消して顔を俯かせた。下ろした手は無意識のうちに握りしめていたらしい。爪が皮膚に食い込んでズキズキと痛む。
胸がこんなにも苦しいのは水無月に対して腹が立っているからか。それとも水無月にこんな顔をさせた自分が許せないからか。
「……別に遅刻なんてどうでもいいよ」
俯いたまま声を絞り出す。
「じゃ、なんで怒ってるの」
――なんでだろう。
必死で一花は考える。どうして自分が怒っているのかわからない。
水無月が仕事を辞めようとしているから?
水無月との関係が上手くいかないから?
水無月に求めているものを手に入れることができないから?
きっとそのどれに対しても腹が立っている。
――でも、違う。
一花は目頭が熱くなるのを感じながら口から息を吐くと、片手で額を押さえた。
「……如月?」
数メートル離れたところに立つ水無月の靴が一歩こちらに近づいてくるのが見える。同時に一花は一歩後ずさった。
「嫌だから」
「え……?」
溢れ出てくる言葉はどれも彼女を傷つけるものだとわかっている。それでも我慢することができない。一花は深く息を吐き出して「水無月が、秋山さんのこと見てるのが嫌」と震える声で言った。
「え、なに。なんで美守が……。美守は、だって付き合ってるとかそういうのじゃないのに」
「身体の関係はあるって言ってたよ? 秋山さん」
一花は手を下ろすと顔を上げて笑みを浮かべた。
「水無月、好きでもない相手とそういうこともしちゃうんだ?」
瞬間、彼女の顔が引き攣ったのがわかった。
「今日も泊まったの? あの人の家に」
「それは……」
「なんで? ねえ、水無月。いま水無月と付き合ってるのはわたしなんだよ?」
目から溢れてきた涙のように、一度吐き出してしまった言葉は止まってはくれない。一花は次第に俯いていく水無月を見ながら続ける。
「わたしといるのが嫌ならさ、最初にそう言って欲しかったよ。わたしよりも秋山さんのことが好きなら、付き合おうってわたしが言ったときにそう言って欲しかった……。昔みたいな関係に戻るつもりがないなら最初にそう言って欲しかったのに」
「如月、違うよ。わたしは――」
水無月が手を伸ばして一花の腕を掴む。一花は「秋山さんがいなかったらさ」と呟きながら、腕を掴む彼女の手に空いている方の手を重ねた。
「わたしと水無月が、そんな特別な関係になれたりしたのかな」
「え……?」
目を見開いて水無月が一花を凝視する。一花は涙を拭うと「ごめん。なんでもない」と彼女の手を力なく振り解いた。
「今日は帰るね。なんか今日のわたしダメだ。忘れてよ、全部。そう……。もう、全部なかったことにしよう? 付き合うとか、そういうのも全部なし。ごめんね、勝手で」
言って一花は彼女に背を向けて足を踏み出す。
「……如月は、わたしに何を求めてたの?」
周囲は騒がしい。それなのに不思議なほど水無月の声だけがはっきりと耳に届く。
一花は立ち止まって振り返った。彼女は無表情に一花のことを見つめている。一花も彼女を見つめ返して口を開く。
「わたしはずっと、好きが欲しかった」
水無月の表情は変わらない。一花は息を吐きながら「あの頃は、水無月も一緒なんじゃないかって思ってたんだけどな」と笑って続けた。そして再び歩き出す。背後から水無月が追いかけてくる気配はない。
これで彼女との関係は完全に終わってしまうのだろう。しかし不思議と悲しくはない。きっとこれで水無月が自分のせいで傷つくことはない。それはお互いにとって良いことだ。そして自分は昔の世界に戻っただけ。色も音も凹凸すらない平らな世界に。
もう、足掻くことにも疲れてしまった。もういいじゃないか。このまま何もない世界で人生を終える。それでいい。
――違う。
モールの喧噪の中、そう呟いた水無月の声が聞こえた気がした。




