お泊まり
秋も深まり、クラスの様子はすっかり受験モードだ。一花もまた例外ではなく、予備校に通い始めた。
三年になってからの成績は悪くはない。それもすべては水無月のおかげだ。しかし水無月だって同じ受験生。いつまでも甘えるわけにはいかない。そう思って通い始めたのだが、そのせいで水無月と過ごす時間は自然と少なくなっていった。
「……全部、この無駄に多い予備校の課題が悪い」
昼休憩、パンを頬張りながら一花は問題集を広げてため息を吐く。すぐ隣では友人が「じゃあ行かなきゃいいじゃん。予備校なんて」とのんびりスマホを見ながら言ってきた。
「予備校に行かないと大学に受かる気がしない」
「じゃあ行かなきゃいいじゃん。大学なんて」
「……その発想はなかった」
一花の言葉に友人は顔を上げると苦笑した。
「冗談だから。マジな顔で答えるのやめて」
そして「それにしても、なんで最近は一緒に食べないの?」と彼女は首を傾げた。一花は思わず「へ?」と変な声を出してしまう。
「お昼。夏休み明けてからはずっと一緒に食べてたでしょ?」
「え、待って。何の話?」
心臓が煩く鳴るのを誤魔化すように一花はヘラッと笑みを浮かべる。友人はニヤニヤと笑いながら「隠すな、隠すな。わかってるんだから」と続けた。
「彼氏できたんでしょ? 毎日お弁当作って来ちゃってさ。乙女丸出しだったじゃん。相手は誰よ? なんで教えてくれないわけ?」
「いやいや、違うって。そんなんじゃないから」
「そんなんじゃない奴はお弁当二つも作ってきません」
「違うって。お弁当は友達に食べてもらってて」
しかし友人は「友達って、それはちょっとウソが下手すぎない?」とさらに疑いの目を向けてくる。
「いや、でも本当に」
「じゃあ、その友達って誰よ」
「えーっと」
どう答えたものか考えていると、突然背後から「わたしだけど?」と涼しげな声が聞こえた。瞬間、友人が目を丸くして言葉を失う。振り返った先では水無月が澄ました表情で「如月、明日も予備校なんだっけ?」と友人を無視して話しかけてきた。
「え、あ、うん。そうだけど」
「じゃ、終わったら家に来なよ」
「へ?」
「勉強教えてあげる」
「いや、そんな悪いよ。金曜って予備校終わるの、九時過ぎるよ?」
「いいよ。明日は家に誰もいないからさ。ついでに間違ってるよ、ここ」
水無月はそう言って一花が自信を持って解答したところを指差し、席に戻っていった。
「なんで一瞬で間違いを……」
一花がガックリ項垂れていると「え、なに今の」と友人が呆然とした様子で呟いた。
「一花、水無月さんと仲良かったの?」
「あー、うん。まあ」
「え? いつから?」
「いつからって……」
一花は少し考えてから「春くらいから?」と首を傾げる。友人は目を丸くして「全然知らなかったんだけど」と水無月へ視線を向けた。
「教室で話してるところだって見たことないよ?」
「そりゃ、グループも違うから」
「そうかもしれないけど、それにしてもだよ。えー……?」
友人は心から驚いた様子だ。しかし驚いたのは一花も同じ。水無月が教室で話しかけてきたのは最初に挨拶を交わしたとき以来なのだ。
別に決めていたわけではない。ただ、どちらともなく教室で話をすることを避けていた。それはきっと二人の関係を誰にも知られないようにするため。そう思っていた。しかし、最近の水無月は違っていた。
昼休憩、一緒に昼食を食べた日には一花の膝枕で昼寝をすることが習慣のようになっているし、一花が予備校のない下校時には一緒に帰ったりするようになった。時には人前で手を繋いだりすることさえあった。
水無月が今までよりも近くに感じられるようになって嬉しい反面、彼女の表情が気になった。
一花は振り返って水無月へ視線を向ける。彼女が友人に向けている表情はいつもと変わらない。愛想が良く、それでいてどこか距離があるような表情。しかし一花といるときによく見せる表情は悲しそうで苦しそうなのだ。
笑っていても話していても、どこかそんな雰囲気を声や表情で感じてしまう。一花と一緒にいることが嫌なのだろうか。そう思ったりもしたが、最近はむしろ彼女の方から一花のそばにいてくれるようになった気がする。今だってそうだ。
「ねえ、よく水無月さんの家に行ったりするの?」
ふいに友人が聞いてきて一花は視線を戻す。
「ううん、初めて。図書館で勉強教えてもらったりはしてたんだけど」
「へえ。最近は図書館も混んでるからってことかな。面倒見いいんだね、水無月さん」
「……そうだね」
そのときスマホにメッセージが届いた。水無月からだ。
『せっかくなら泊まっていけば?』
振り向いた先で水無月が一瞬だけ一花を見た。やはり、そこには一花にはよくわからない感情が見えた気がした。
金曜日。時刻は二十二時三十分を回ったところ。綺麗に整頓された水無月の部屋で一花は温かなココアを飲んでいた。テーブルを挟んだ向かい側には水無月が同じようにマグカップを片手にココアを飲んでいる。テーブルの上には彼女が頼んでくれたピザが二切れだけ残っていた。
――落ち着かない。
一花がここに来てから一時間くらい経っただろうか。その間、ほとんど水無月との会話はなかった。
ふいに笑い声が響いて視線をテレビに向ける。この時間にテレビを観るのは久しぶりだ。しかし、今はとてもバラエティ番組を楽しむような余裕はない。水無月とこんなに会話が続かないのは初めてで、とても居心地が悪かった。
「……ピザ、ちょっと残っちゃったね」
テレビを見つめているとポツリと水無月が言った。一花は笑って「あとちょっとだけど」と視線を彼女に向ける。
「食べちゃう?」
「太るよ」
「え、今さら過ぎない?」
一花が言うと水無月は笑った。そのいつもと変わらぬ笑みに安堵しながら「じゃあ、お互いに道連れってことで一切れずつ」と一花はピザに手を伸ばす。
「……ほんとに食べるの? 冷めてるし美味しくないと思うんだけど」
「いいから。食べ物を粗末にしちゃダメなんだよ」
「はいはい」
水無月は笑いながら残った一切れを手に取って食べ始めた。冷めてしまったピザは、それはそれで意外と美味しい。そう思ったのだが、どうやら水無月にとってはそうでもなかったらしい。モソモソと無表情に食べながら彼女は「食べたらお風呂入ってきなよ」と言った。
「え、でもまだ勉強してないよ?」
「頭をスッキリさせてからの方が効果的でしょ」
彼女は最後の一口を食べると「着替えは持ってきてるんだよね?」と続けた。
「持ってきたけど、でもお風呂入ったらむしろ眠くならない? お腹もいっぱいなのに」
「それならそれで休めばいいじゃん」
当然のように彼女は言う。
「えー、勉強教えてくれるって言ったのに」
「それは明日にしよう。予備校は夕方からなんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「それとも、もう如月は勉強以外でわたしと二人っきりになるのは嫌なわけ?」
――また、あの顔だ。
水無月の顔を見つめながら思う。また彼女は悲しそうな顔をしている。そして怒ったように口調を強めて視線を逸らす。まるで小さな子が拗ねたような、そんな態度。
一花は「わかった」とゆっくり立ち上がった。瞬間、水無月が泣きそうな顔を浮かべたのがわかった。一花は無言で部屋の隅まで移動すると置いていたバッグに手を伸ばす。
「――帰る?」
背中に聞こえた水無月の声は彼女らしくもない気弱なものだった。一花は笑みを浮かべて振り返る。
「お風呂、先に借りるね」
それを聞いた彼女は悲しそうな表情のまま、息を吐くようにして笑った。
水無月が何を考えているのかわからない。それは初めて話をしたときからずっとだ。いや、むしろ最近は以前よりもわからなくなっている気がする。彼女の表情は以前よりも豊かなのに、どうしてそんな表情をしているのか、いくら考えてもわからない。
「ねえ、水無月」
一花はベッドの上で、なぜか自分の膝の上に頭を乗せて寝転んでいる水無月を見下ろしながら声をかける。
「なに?」
風呂上がりの彼女の髪はまだ少し濡れているのか、触れるとしっとり冷たかった。
「なんでまた膝枕?」
「嫌?」
「嫌っていうかさ……」
一花は視線をテーブルへ向ける。そこには水無月が風呂から上がるのを待つ間に解いていた問題集がそのまま広げられている。
「いいじゃん。勉強なんて」
「良くないよ。いや、そりゃ水無月は別にやらなくてもいいのかもだけど」
「今夜くらい、ゆっくり過ごそ?」
視線を戻すと彼女は一花を見上げながら安心したように微笑んでいた。一花は困惑しながらため息を吐く。
「水無月」
「ん?」
「さては最初から勉強する気なかったでしょ」
「そんなことないよ。ちゃんとやるって。明日の朝からね」
「絶対?」
「スパルタで教えてあげよう」
ククッと彼女は笑う。それは彼女が一花をからかうときによく見せる表情で、一花も安心して笑ってしまう。
「わかった。じゃあ、今日はもう勉強しない」
「お? 寝る?」
一花は枕元に置かれた時計に視線を向ける。そろそろ深夜を回りそうだ。
「そうだね。寝ちゃおっか」
しかし水無月は起き上がらない。不思議に思っていると彼女は何かを求めるようにじっと一花のことを見ていた。この表情には覚えがある。
一花は苦笑しながら「ここでもするの?」と訊ねた。それでも水無月は動かず何も言わない。仕方なく一花は彼女に軽くキスをする。ふわりと香ってきたシャンプーの匂いが今の自分と同じで少し不思議な感じだ。
「ためらわなくなったよね、最近」
一花が身体を起こすと水無月はそう言ってニヤリと笑った。
「そりゃ、膝枕のたびにおねだりされたら慣れるって」
「慣れかぁ。ドキドキしない? わたしとのキスは」
起き上がりながら彼女はそんなことを聞いてくる。一花は少し考えてから「しない」と答えた。
「だよね。如月は」
彼女はそう言いながら布団の中に潜り込む。その言い回しに一花は首を傾げた。
「……水無月は違うの?」
水無月は布団から顔だけを出して一花を見つめた。そして微笑みながら「とりあえず中へどうぞ」と掛け布団を少し上げた。
「同じベッドで寝るんだ?」
「付き合ってるし?」
「狭くない?」
「如月は小さいから大丈夫」
なんとなく釈然としないが断る理由もない。一花は大人しく彼女の隣に潜り込む。布団は水無月の体温のおかげか、すでに暖かかった。
「電気、消すね」
そう言うと水無月はリモコンで部屋の電気を消す。室内に聞こえるのは水無月の静かな呼吸の音と布団が擦れる音。仰向けのまま見上げる天井は真っ暗だ。
「……それで?」
一花が声をかけると「何が?」と水無月の不思議そうな声が返ってきた。
「さっきの返事」
「覚えてたか」
フフッと笑ったような息遣い。一花は身体を水無月の方へと向けた。目が慣れてきたのか、水無月の顔がぼんやりと見える。いつの間にか彼女もこちらを向いていたらしい。彼女はじっと一花のことを見つめると「ドキドキはしないよ」と言った。
「そっか」
それを聞いて少しがっかりしたのはなぜだろう。考えていると突然、唇に柔らかなものが触れた。そして彼女の息が口元から漏れる。
「……水無月、何してるの?」
「キス」
「なんで?」
「したいから」
再び口を塞がれる。呼吸をし忘れて苦しくなり、一花は顎を引いて彼女から離れた。
「嫌だったらやめる」
顔はぼんやりと見えるが表情まではよくわからない。しかし彼女がまたあの悲しそうな、苦しそうな表情をしているのだろうことは想像がついた。一花は呼吸を整えるとそっと自分からもキスをする。
「嫌じゃないよ。水無月とのキスは嫌じゃない」
「好きでもないんでしょ?」
「水無月もでしょ」
しかし答えはなく、代わりに強く唇が押し当てられた。
「――わたしは好きだよ。如月とのキス」
少しだけ口を離して彼女は囁いた。一花は驚いて目を見開く。
「ドキドキはしないんでしょ?」
「しない。でも――」
彼女はそう言うと再びキスをしてくる。
「もっとしてもいい?」
「……いいよ」
――それで水無月があんな表情をしなくて済むようになるのなら、いくらでも。
水無月が自分を求めてくれる。そう思うと悪い気はしない。むしろ嬉しくなる。四月、放課後の教室で彼女に話しかけられたときに沸き上がった感情が強くなっていくような気がする。
「ん、水無月……」
ほんの少し唇が離れた隙に一花は声を出す。
「もうやめる?」
少し呼吸の荒い水無月の声に、一花は「そうじゃなくて」と微笑む。
「ちょっとドキドキしてきたかも」
すると水無月の吐息が頬を掠めた。
「違うよ。それは、ただ息が苦しいだけだよ」
そう言って彼女が再び唇で口を塞ぐ。
そうかもしれない。しかし、そうではないかもしれない。これはもしかすると自分がずっと欲しかった気持ちなのかもしれない。
確かめたい。どうすればこの気持ちをもっと強く感じることができるだろう。もっと強く、はっきりとこの気持ちを……。
そのとき、ふいにTシャツの中に水無月の手が滑り込んできた。そして一花の背中を撫でる。
驚いた一花は思わず彼女の肩を強く押して身体を離した。すぐ目の前には目を丸くした水無月の顔がぼんやりと見える。
「水無月? いま――」
「ごめん」
一花の声を遮って彼女は呆然とした口調で謝った。
「ごめん。ほんとごめん。わたし何を……」
何度も何度も彼女は謝る。何かやってはいけないことをしてしまったかのように、混乱した様子で何度も彼女は謝った。
「いや、そんな謝らないでよ。ちょっとびっくりしただけで怒ってなんかないし」
「……ごめん」
「いいよ。ほら、大丈夫だから」
言って一花は軽く彼女の頬にキスをする。水無月はそれでも謝りながら身体を丸めて一花の胸に顔を埋めてきた。
「ごめん、如月。わたし、なんか変なんだ。如月といると変になる。違うのに。これは、違う」
「……そうだね。水無月は変だよ。とくに今の水無月は小さな子供みたいな感じ。甘えんぼだ」
彼女を抱きかかえるようにしながら一花はポンポンと背中を叩いてやる。
「ごめん」
胸元で彼女のくぐもった声がする。一花は「大丈夫だってば。その証拠にもっかいキスしとく?」と笑いながら答えた。
「……しない」
「そっか。残念」
ポンポンと背中を叩くたび、彼女の身体から少しずつ力が抜けていくのがわかった。
「ねえ、水無月」
返事はない。眠ってしまったのかもしれない。それでも一花は続ける。
「なんで今日、誘ってくれたの?」
やはり返事はない。背中を叩いていた手を止めると彼女の体温がじんわりと手から伝わってくる。暖かくて、優しい温もり。
「――ったから」
微かに聞こえた声はくぐもっていてよくわからない。
「ん、なに?」
身体を丸めて胸元の彼女を覗き込むようにしながら聞き返す。それが気配でわかったのか、彼女はさらに深く一花の胸元に顔を埋めた。
「――如月と、一緒に過ごしたかったから」
それを聞いて一花は「そっか」と息を吐いて笑った。
「最近、わたしのせいであんまり一緒にいなかったもんね。甘えんぼプラスさみしんぼだったか」
そして体勢を少し変えて彼女を包み込むように腕を伸ばした。
「じゃ、一緒に過ごそ。今夜はずっとこうしててあげる」
「……ありがとう」
そんな素直な言葉を最後に、水無月は眠りに落ちたようだ。腕の中で聞こえてくるのは微かな寝息。身体に伝わってくる水無月の体温が温かくて心地良い。
こんなに近くにいても彼女の気持ちはわからない。しかし彼女が何かに苦しんでいることは確かだ。
――どうしたらいいのかな。
彼女は何に苦しんでいるのだろう。一花と一緒にいるときに見せるあの表情は、その何かのせいなのだろうか。
――わたしといると変になる、か。
うとうとしながら水無月の言葉を思い出す。彼女の苦しみの原因が自分にあるのだとしたら……。
目を閉じて考えているうち、いつの間にか一花もまた眠りの中へと落ちていった。




