欲しかったものは
「如月ってさ、進路はもう決めてる?」
昼休憩。いつもの階段で叶向は如月を見上げていた。彼女が作ってくれた弁当を食べ終えた後。お腹もいっぱいで少しだけ眠い。
ウトウトしながら聞いた質問に如月は答えることもなく、どこか居心地が悪そうに視線を彷徨わせていた。
「なに、どうしたの」
訊ねると彼女は「どうしたのって、この体勢がどうしたのって感じなんだけど」と困ったような顔で叶向を見下ろしてくる。
「なんで水無月、わたしの足を枕にしてるの?」
「え、まさか膝枕を知らない?」
わざと驚いたように聞くと彼女は「知ってるけどそうじゃなくて」と困ったように眉を下げた。
「ここ、学校だよ?」
「学校じゃなかったらいいの?」
「だからそうじゃなくてさ……」
叶向は薄く笑みを浮かべた。困った顔をした彼女が言いたいことはわかっている。
如月は人の目を気にしている。叶向と一緒にいるところを誰かに見られることを避けている。理由はよくわからない。今の叶向にはどうでもいいことだ。
「別にいいじゃん。付き合ってるんだから」
言って叶向はゴロンと身体の向きを如月の方へ変えると、その細い身体にギュッとしがみついた。如月の温もりと香りが叶向を包み込んでくれるようで心地良い。
「……最近、変だよ。水無月」
「そう?」
「そう。夏くらいから変」
ふわりと叶向の髪が如月の手に掬われて流れていく。叶向は「そうかもね」と彼女にさらに強くしがみついた。少しでも彼女の柔らかさを感じたくて。もっと彼女を感じたくて。
「水無月、ちょっと苦しい」
思わず力が入りすぎてしまったらしい。
「あ、ごめん」
叶向は我に返って彼女から手を放した。そして再び仰向けになる。叶向を見下ろす彼女は困った顔のままだ。叶向はそんな彼女をじっと見つめてから「それで」と笑みを浮かべた。
「決めた? 進路」
「んー、まあ……。地元の大学に進学かな」
「へえ。どこ?」
「行けそうなところ」
彼女らしい答えに叶向は声を上げて笑う。その反応が不服だったのだろう。如月は「だったら」と少し頬を膨らませた。
「水無月はどうなの? あ、実はすでに推薦決まってたりとか?」
「全然何も決まってない」
「……人のこと笑えないじゃん」
「だね」
将来やりたいことがあるわけでもない。大学に行きたいわけでもない。しかし、親がうるさいから進学はしなくてはいけない。結局は叶向も如月と同じだ。行けるところならばどこでもいい。だったら――。
「一緒のところにしようかな」
「え……?」
「大学。如月と同じところにしようかな」
そうすれば如月と一緒にいられる。如月だって新しい環境になれば人目を気にせず一緒にいてくれるはず。そう思った。しかし、彼女は「ダメだよ」と微笑んで叶向の額に手を当てた。
「水無月は成績良いんだからさ。ちゃんと自分に合った良い大学行かないと」
少し冷たい手が叶向の前髪を掻き上げる。彼女の言葉が氷のように心へ落ちてくる。その言葉は期待していたものではない。彼女の見せる表情も、すべてが期待とは違う。
「……そっか」
――なんで如月は追いかけてきたんだろう。
「そろそろ休憩終わっちゃうね」
声と共に額から彼女の手が離れていく。それを叶向は思わず掴んでいた。如月は驚いたように「え、水無月?」と動きを止めた。
「如月はさ、嫌? わたしが同じ大学に行くの」
すると彼女は困ったように笑みを浮かべる。
「そんなわけないじゃん」
「じゃあ、受ける大学教えてよ」
深いため息と共に彼女の足がもぞりと動く。そして再び額に手が乗せられた。
「まだ決めてないってば」
「決まったら教えてくれる?」
食い下がって聞くと彼女は「なるほど」と納得したように微笑んだ。
「さては水無月、遠距離恋愛ができないタイプだな?」
「え、なにそれ」
「なにって、わたしと離れるのが嫌なんでしょ? そういうことじゃん」
ふわりと彼女の手が水無月の頬を撫でる。まるで小さな子供をあやすかのように。叶向は思わず彼女から顔を背けた。
彼女の言う通りだ。如月と離れるのが嫌だ。しかし、きっと彼女が思っているような理由ではない。そんな綺麗な理由などではない。
「なんかさ、水無月ってめんどくさいよね。寂しいならそう言えばいいのに」
何も知らない彼女はそう言ってフフッと笑った。
「……別に、そういうのじゃない」
「素直じゃないなぁ」
柔らかな声に、叶向は顔を背けたまま視線だけを彼女に向けた。そして眉を寄せる。
「如月、なんでそんな嬉しそうなの?」
「えー、だってなんか嬉しいじゃん。友達が自分と離れたくないって思ってくれてるってさ」
「友達、ね」
「あ、違った。彼女か」
少し照れ臭そうに笑う如月を見て、ふいにいたずら心が湧く。叶向は再び如月を真っ直ぐに見上げた。
「もう予鈴鳴るよ。ほら、早く起きて」
しかし叶向が動かないでいると如月は困ったように首を傾げた。そのとき、静かな空間にチャイムの音が鳴り響き始めた。
「鳴っちゃったじゃん。早く戻らないと。次の授業って移動教室じゃなかったっけ?」
「いいじゃん。このままサボっちゃおうよ」
「ダメだよ。内申に響くかもしれないし」
「ふうん」
如月は「ふうんじゃなくて早く起きてよー。遅刻するってば」と、なんとか叶向を起こそうとする。それでも叶向が動かないでいると痺れを切らしたのか「いい加減にしないと怒るよ?」と眉を寄せた。
こんな表情を見たのは初めてだ。彼女が自分にだけ見せてくれる表情に、ほんの少しだけ嬉しくなる。しかし、どうやらこのままだと怒られてしまうらしい。叶向は少し考えてから「じゃあさ」と口を開いた。
「キスしてくれたら起きるよ」
叶向の言葉に如月は一瞬、動きを止めた。そして「ん、なに?」と首を傾げる。
「だから、如月からキスしてくれたら起きる」
「え、なんで……」
明らかに戸惑った様子で如月は視線を泳がせる。そんな彼女を尚も真っ直ぐに見上げながら叶向は「理由なんている?」と聞いた。
「わたしは如月の彼女なんでしょ? だったらしてよ」
「いや、でもなんでいきなり……」
「如月からされたことないなぁと思って」
叶向は言って薄く笑みを浮かべる。
「ま、嫌ならいいけど。このまま如月の膝を枕に気が済むまで昼寝する」
「えー……」
如月は心から困っている様子だ。おそらく叶向が本気なのかどうかわからないのだろう。叶向は片手を上げて彼女の頬に触れる。思っていたよりも温かな肌は、一瞬にして仄かに朱く染まった。
「――本気で言ってんの?」
「言ってる」
本気で如月のことを試そうとしている。如月が叶向のことをどう思っているのか知りたいと思っている。そして、どこまで彼女が受け入れてくれるのかを知ろうとしている。
「まあ、いいけどさ」
言って彼女は一度何かを確認するように視線を階段の下へと向けてから、おもむろに背中を丸めて顔を近づけてくる。
彼女の頬に触れたままの叶向の手にサラリと細い髪がかかった。それに気づいたのか、彼女は動きを止めると頬に落ちてきた髪を耳にかけた。そして再び顔を近づけてくる。
少しずつ彼女の息遣いが近づいてくるのを感じながら叶向は瞼を閉じることもせず、じっと如月のことを見つめ続けていた。如月もまた、叶向のことを見下ろしている。やがてあと少しで唇が触れ合うというところで彼女は再び動きを止めた。
「……やめる?」
目前に迫った瞳を見つめながら叶向は訊ねる。すると潤んだ瞳が微かに揺れた。
「水無月、なんでそんな顔してんの?」
彼女の囁くような声が耳をくすぐる。よく意味がわからず叶向はただ彼女を見つめた。
「水無月さ、やっぱり変だよ」
「知ってる」
「わたしがキスしたら、元の水無月に戻ってくれる?」
「……かもね」
「じゃあ、する」
掠れた声が聞こえた次の瞬間、唇に触れたのは少し震えた柔らかな感触だった。力が入っているのか、彼女の唇は硬く閉じられたままだ。
――足りない。
ふいに沸き上がった気持ちに引っ張られるように、叶向は彼女の閉じられた唇をぺろりと舐めた。瞬間、如月は驚いたように目を見開いて顔を引く。そんな彼女を追いかけるように叶向はもう片方の手も彼女の頬に添えると、ほんの少し開いた彼女の唇に自分の唇を押し当てた。
強く、そして今まで以上に深く。もっと彼女を感じられるように。彼女が嫌がるのではないか。そんなことを思いながら。
しかし彼女は嫌がらなかった。それどころか、まるですべてを受け入れるように叶向の顔を両手で包み込んで求めに応えてくれる。
「――ん、水無月」
どれくらいそうしていただろう。数秒か、あるいは数十秒か。ほんの一瞬、唇が離れた瞬間に如月が声を漏らした。
「なに」
「チャイム、鳴ってる」
耳を澄ませば確かにチャイムが鳴り響いていた。如月は頬を朱く染めたまま身体を起こした。彼女の頬に触れていた手が宙を触る。叶向はその手を下ろしながら「もう終わり?」と聞いた。
「ちゃんとキスしたでしょ。だから終わり」
「……つまんない」
「もー、なに言ってんの。ほら、早く起きて。遅刻だけど走れば多分ギリ見逃してもらえるから」
「はいはい」
叶向は身体を起こしながら微笑んだ。彼女は弁当袋を手にして立ち上がると叶向に手を差し伸べてくる。
「いや、いいよ。先に行ってて」
「え、なんで。水無月も早く行かないと」
「嫌でしょ? わたしといるところ、誰かに見られるの」
すると如月は悲しそうに眉を寄せた。
「別にそんなことは……」
「あと、元のわたしに戻るためには時間がいるから五限はサボる」
「え……?」
「大丈夫だって。わたし、成績良いからさ。友達に連絡して体調不良だって伝えてもらうから如月は気にしないで」
「でも――」
それでも手を差し伸べようとする如月に叶向は「早く行かないと怒られるどこじゃすまないかもよ」とニヤリと笑った。
「え? なんで?」
「次、物理でしょ。今日は確か小テストあったはず」
「うっそ」
「ほんと」
「早く言ってよ! 水無月、六限はちゃんと出るんだよ?」
「はいはい」
叶向は笑って手を振る。如月はそんな叶向を疑わしそうに見てきたが「絶対だからね」と言い残して階段を駆け下りて行った。
遠くなっていく如月の足音を聞きながら叶向は深くため息を吐く。そして座ったまま両手で顔を覆った。
唇にはまだ彼女の温もりが残っている。息遣いが残っている。彼女の香り、彼女の肌や唇の感触、何もかもが叶向の中に如月という存在を強くさせていく。
今のでわかってしまった。如月は拒まない。叶向が何を求めてもきっと彼女は困ることはあっても拒むことはしない。そこに彼女の気持ちがあろうとなかろうと、叶向を受け入れてくれるのだ。
――ダメだ。
「……間違ってる」
口から漏れた言葉に叶向の心は締めつけられるように痛んだ。
間違っている。叶向は如月に恋愛感情はない。彼女に自分のことを好きになってもらいたいなんて思ったこともない。それなのに触れたいと思う。彼女を自分のものにしたいと思ってしまう。
――これはきっと依存だ。
そう思う。如月は叶向と似ている。そう思ってしまったから彼女に依存する気持ちが生まれただけ。それに気づいたときに離れればよかったのに、そうすることができなかった。
――わたしがキスしたら、元の水無月に戻ってくれる?
彼女の言葉が耳の奥で何度も響いている。
「ムリだよ」
呟いた声は自分でも驚くほど震えていた。
元の自分に戻るなんて無理だ。近くに如月がいる限り、もう彼女に出会う前の自分には戻れない。むしろどんどん深みにはまり、欲は大きくなる一方だ。
それが如月を傷つけるだけだということも分かっている。だって如月が望んだのは元の水無月だ。それは彼女と出会ったばかりの、ただ彼女のことを面白がっていた頃の水無月。
如月にとって水無月は友達に過ぎない。少し変わった、ただの友達。
欲しかったものは未だ手に入らないままなのに、こんな気持ちだけを抱いてしまう自分が嫌だ。
――気持ち悪いよ、叶向。
いつだったか秋山に言われた言葉が唐突に蘇ってくる。叶向は顔を覆ったまま「ほんとだよ」と笑った。
「欲しかったのは、これじゃない」
静かな空間にスマホのバイブ音が響いた。叶向は深くため息を吐きながら顔を覆っていた両手を下ろすと、冷たい壁に寄りかかってポケットからスマホを取り出した。そこに表示された如月の名前を見て嬉しくなると同時に心が苦しくなる。
『テストじゃなかったじゃん!』
そして可愛らしく怒った何かのキャラクタースタンプ。
叶向は「素直すぎるよ、如月は」と微笑みながら彼女の言葉が並ぶスマホの画面を見つめ続けた。その視界が微かに歪んで、初めて涙が溢れていることに気づく。
「ほんと、わたしは変だね。如月」
涙が溢れた瞳を閉じ、叶向はスマホを握りしめて呟いた。この気持ちをどうしたらいいのかも分からないまま。




