また、あの頃のように
仕事を辞めるための良い理由はないだろうか。ここ一ヶ月ほど叶向はそんなことばかり考えながら過ごしていた。
「如月、仕様書を先方に確認してもらうからまとめてフォルダに入れといてくれ」
「はい」
静かな声に叶向は視線を向ける。少し離れた場所に座る如月は、元気のない様子で言われた作業をこなしていた。とても寂しそうな表情で。
そんな顔をさせているのは自分だということはわかっている。叶向はため息を吐いた。
「ん、どうかしました? どこか作業詰まってる?」
隣に座る坂田がため息に気づいて聞いてくる。彼は無駄口を叩かず、ひたすら黙々と仕事を進めるタイプなので隣の席でも気が楽だ。決して叶向のプライベートに踏み込もうとはしない。
「いえ、大丈夫です。ちょっと集中力が切れちゃっただけなので」
「あー、今の時期は気候も良い感じで眠いですよね。飯の後は特に」
言いながら彼は後ろを振り返る。少し開けられた窓からは心地良い乾いた風が緩やかに入ってきていた。その風は高校時代、あの住宅街に吹いていた風と同じ。
――あの時、抱きしめたりしなければ良かったのかもしれない。
思いながら再び視線を如月に向ける。あの時、彼女が言うように別れたということにしておけばそれで終わったのかもしれない。少なくとも、彼女と付き合う前の自分に戻れたかもしれない。ただ求め続けるだけの自分に。
しかし追いかけてきてくれた彼女にすがってしまった。求めてしまった。
彼女は何も知らない。だから平然と叶向を受け入れたし、そして裏切ったのだ。彼女自身にそのつもりがなかったとしても。
――まだ、店に来てるのかな。
先月から如月が秋山の店に来ている。それを知ったのは数週間ぶりに秋山の店へ行ったときだった。閉店間際の時間帯、彼女の店から如月が出てくるのを見た。酔った様子もなく、ただ力なく項垂れながら帰って行く彼女の後ろ姿を。
秋山に聞くと、如月は毎日のように来ては閉店時間まで居座って帰って行くと言う。話をするために水無月のことを待っている、と。
そのせいで如月が寝不足になっているのだろうことは明白だった。日に日に疲れていくように見える彼女の目の下にはクマが浮かんでいる。
――何を話したいんだろう。わたしは別に何も話したくなんてないのに。
そう思ってあれから店には行っていない。いきなりあんなことをしたのだ。いくら如月でも困惑したはず。そして、どう思っただろうか。今度こそ嫌われたかもしれない。一瞬、そう思ったが彼女の顔を見てそうではないかもしれないとも思う。
叶向のことを嫌いになったのなら無視すれば良いだけのこと。わざわざ秋山の店で叶向を待つ必要もない。
――違うのかな。
そのとき、デスクに置いていたスマホにメッセージの通知が届いた。秋山からだ。彼女からメッセージが届くのは珍しい。いつも叶向が送るばかりで彼女からは返信だって来ないこともあるのに。
不思議に思いながらメッセージを開く。
『今日、店に来なかったらわたしの家の玄関、鍵変えるから』
一瞬どういうことだろうと考える。そして納得した。きっと彼女も如月のことを気にしているのだろう。毎日のように来るのだ。気にならないはずもない。しかし、と叶向は苦笑する。
玄関の鍵を変える。つまり、もう叶向を家には入れないという意味なのだろう。
「ひどいな……」
口の中で呟く。別に鍵を変えられても行かなければいいだけのことだ。しかし、叶向にはそれができない。秋山がいなければきっと今の自分はもっとダメになってしまう。それを彼女もよく分かっているからこその脅し文句。
叶向は深くため息を吐いた。そして再び視線を如月に向ける。彼女は疲れた顔で黙々と作業を続けていた。
仕事を終えた叶向は逃げるように退勤した。ここ最近はずっとそうだ。そして秋山の家に上がり込んで夜を明かす。
この職場に来てからというもの、自分の家に帰るよりも秋山の家に帰ることの方が多い気がする。それでも彼女が何も言わなかったのは叶向が自分から行動するのを待っていたからかもしれない。しかし叶向は動かなかった。ずっと逃げていた。だから今日のメッセージは、おそらく秋山からの最後通告。
叶向はため息を吐きながら、出てきたばかりの社屋を振り返る。如月は残業のようだった。松本が心配そうに彼女のことを見ていたので、彼も如月の様子がおかしいことには気づいているのだろう。
叶向は秋山の店へと重たい足を進めながら考える。
きっと松本は如月のことが好きで、如月も彼のことが嫌いではないはず。
「わたしがちゃんと嫌われたら、それでおしまい」
呟きながら横断歩道を渡る。そうだ。それで如月との関係は終わるはず。きっと、叶向自身の気持ちも。
そう思えば思うほど心がズキズキと痛んでくる。叶向は歩きながら軽く胸元に手を当てた。
――そうしたら楽になれるかな。
この痛みも消えてくれるだろうか。もし消えてくれるのなら、少しだけ勇気を出してみよう。
叶向は胸元に当てた手を握りしめ、秋山の店のドアを開けた。まだ店は開店前。秋山はカウンターの向こうで開店準備をしているところだった。彼女は叶向を見ると呆れたような表情を浮かべる。
「営業時間中に来ない? 普通」
「時間指定はなかった」
その答えに彼女はため息を吐いたが、それ以上は何も言わない。叶向は無言でカウンター席に座り、スマホを確認する。開店時間の十九時まではあと一時間ほどある。
「……先に何か食べとく?」
ある程度の準備を終えたのか、秋山が言った。叶向は思わず笑ってしまう。
「バーなのにアルコールじゃなくて料理勧めるんだ?」
「だってあんた、どうせあの子と会ったら食事どころじゃなくなるでしょ。アルコールは論外。まともに会話できなくなるから」
彼女は何でもお見通しのようだ。叶向は視線を俯かせながら「なんで会わせたいの?」と聞いた。しかし答えはない。視線を上げると秋山はコンロの前に立っていた。
「……如月と何か話した?」
「何も」
「じゃ、毎日来る客に情が湧いた?」
「そんなわけないじゃん」
「……だよね」
フライパンで何か炒めているらしい。良い匂いがしてきた。秋山はしばらく無言で料理を続けていたが、やがて「迷惑なんだよね」と言った。そして料理を皿に盛りつけて叶向の前に置く。それはチャーハンだった。具材は卵以外何も入っていない。それでも温かくて良い香りは食欲をそそる。
叶向は差し出されたスプーンを受け取りながら「如月、何も頼まないとか?」と苦笑しながら聞いた。
「いや、あんたと違ってちゃんと頼むし、ちゃんと払ってくれる。良い客だよ」
でも、と彼女はチャーハンを口に運ぶ叶向を見つめながら続ける。
「さすがにあんな辛気くさい顔で閉店まで居座られちゃ迷惑。だからとっとと話して振られるなり嫌われるなりして終わらせてくれない?」
その言葉に叶向は再び苦笑した。
「相変わらず美守はキツいね」
「あんたが甘いだけでしょ。いい年して、なにダラダラ逃げ続けてんだか」
その通りだ。叶向は返す言葉もなく再びチャーハンを口に運ぶ。それは温かくて少し甘く、優しい味がした。
店は開店してすぐに満席となっていた。秋山はそれを見越してか、叶向の隣の席を予約席として確保していた。
叶向はソフトドリンクを飲みながら時間を確認する。時刻は二十時を過ぎたところ。まだ如月は来ない。表示された時刻の数字が変わっていくたびに心が少しずつ重くなる。
――やっぱり帰ろうかな。
一応、店には来たのだ。秋山にはそれで言い訳も立つはず。
叶向が何度目ともわからないため息を吐いたとき、カランとドアベルが鳴った。そして「いらっしゃい」と愛想のない秋山の声。反射的にドアの方へ視線を向ける。そして一瞬、息が止まった。
「水無月……」
呆然とした顔で呟き、入り口に立ち尽くしているのは如月だった。疲れた顔は照明のせいか職場にいたときよりも顔色が悪く見える。
水無月は口から息を吐いて視線を泳がせる。どんな表情を向ければいいのかわからない。
「ここ、どうぞ」
ふいに秋山の声がしてカウンターに視線を戻す。彼女は無表情に叶向の隣に炭酸のソフトドリンクを置いた。
「どうも……」
如月は緊張したような硬い声で言うと、ぎこちなく叶向の隣の席に座る。そしてドリンクを一口飲んだ。
気まずい空気が二人の間を支配していく。店のBGMがなければ窒息してしまいそうなほど息苦しい。チラリと視線を向けると秋山はカウンターの端で煙草を吹かしていた。
「……水無月」
ふいに呼ばれて叶向は如月に視線を向ける。彼女はグラスを両手で握るようにしながら「えっと、それはお酒?」と小さな声で言った。その視線は叶向の前に置かれたグラスに向けられている。
「……ううん。オレンジジュース」
「そっか」
そして再び沈黙。微かに如月が息を吐く音が聞こえた。こんな会話をしたいわけではないのだろう。しかし、彼女はそれきり黙り込んでしまった。グラスを握る手には力が入っているのか、指が少し白くなっている。叶向はそんな彼女を横目で見ながらグッと顎を引くと「話があるって、美守から聞いた」と口を開いた。
「……うん、そう」
「なに?」
聞いてみるも彼女はグラスに視線を向けたまま答えない。
この沈黙が嫌だ。彼女からどんな言葉を聞かされるのか知りたくもない。かといって何か別の話題を探せるほど余裕もない。
頭の中はもう真っ白だ。
叶向は手元に視線を向けて「こないだのことなら忘れてよ」と思いつくがままに言葉を吐き出した。
「嫌だったでしょ。いきなりあんなことされてさ。謝るよ。如月には付き合ってる人だっているんだし――」
「違う」
強い口調だった。叶向は思わず言葉を止めて如月を見る。彼女はグラスから視線を上げると叶向へ顔を向けた。
「もし松本のこと言ってるなら違うから。わたしは誰とも付き合ってない」
彼女はそう言うと「わたしは、誰とも付き合えないよ」と悲しそうに続けた。その意味がよくわからず、叶向は眉を寄せる。
「そんなことない。だって如月は――」
「そんなことあるんだよ。たしかに今まで何度か付き合ってみたりしたことはあるけど」
――ほら、やっぱり。
叶向は心の中で思う。彼女はやはり自分とは違うのだ。普通に恋愛をして、普通に幸せな人生を送ることができる。だから自分とはもう関わらない方が良い。そう思ったが、如月は「水無月が悪いんだからね」と少し笑みを浮かべた。
「え、わたし?」
「そう。水無月、言ってたでしょ? 好きじゃなくても付き合ってみたら好きになるかもしれないって」
「……それで、付き合ったの?」
「うん。まあ、全然そんな気持ちにはならなかったけど。高校時代から、わたしは変わらないみたい。ダメだね。もう大人なのにさ」
彼女はそう言って悲しそうに笑った。その見覚えのある笑みはたしかに高校時代の彼女と変わらない。
叶向は「でも」と自分の手元に視線を向ける。頭の中に浮かんできたのは高校時代の嫌な記憶。想い出したくもない光景。
「……如月、高校のとき男子と付き合ってたよね?」
「あれは、水無月が――」
言って彼女は口をつぐんだ。叶向は軽く笑う。
「やっぱりわたしのことが嫌になったんだ?」
「違う。そうじゃなくて……」
彼女はそう言うと「水無月が、わたしといると悲しそうな顔をしてたから」と消え入りそうな声で続けた。
「わたしといると辛いのかと思ったから……」
叶向は如月へ視線を向け、そして「ふうん。そう」と息を吐き出した。
彼女の言う通りだ。あの頃、如月といるとたまらなく悲しくなった。辛くなった。しかし、それでも彼女にそばにいてほしかったのに。
「……なんで水無月、わたしのこと嫌いになったの?」
――違う。嫌いになんてなってない。
「なんでこないだ、キスしたの?」
彼女は続ける。感情のこもらない声で。怒っているのかどうかもわからない。
「わたし、わかんないよ。水無月のこと、全然。今も昔も」
――わたしだってわからない。自分のことも、如月のことも。
「ねえ、水無月」
静かな声には力がなく、微かに涙混じりだった。叶向はゆっくりと視線を彼女に向ける。彼女は青白い顔に涙を浮かべていた。
「わたしのこと今も嫌い?」
「……わたしのこと嫌いなのは、如月の方でしょ」
「嫌いじゃない」
彼女は強い口調で即答した。そして「嫌いじゃないよ。ずっと。今も、昔も」と柔らかく微笑んだ。
「水無月は?」
「……嫌いじゃない。如月のこと、嫌いになったことなんてない」
「良かった」
心から安堵したように彼女は泣きながら笑った。今日は化粧もほとんどしていないのか、青白い顔で笑う彼女は儚く、とても綺麗だ。叶向は思わず彼女の頬に手を伸ばしかけ、しかしすぐにその手を下ろす。
彼女はそんな叶向をじっと見つめて「こないだ、なんでキスしたの?」と柔らかな口調でさっきと同じ質問を繰り返した。叶向は彼女を見つめ返す。
「ムカついたから」
叶向の答えに如月は驚いたように目を見開いた。そしてフッと笑う。
「何に?」
「如月が、わたし以外の相手に頭撫でさせてるのが」
素直に答えると彼女は今度は声を上げて笑った。
「ヤキモチだ」
「違う」
即座に否定すると彼女は笑みを顔に残したまま「……うん、わかってる」と力なく頷いた。
「違うよね。だって水無月には秋山さんがいる」
「美守?」
叶向は眉を寄せた。
「付き合ってるんでしょ?」
「……美守がそう言った?」
「言ってない。けど――」
叶向は秋山に視線を向けた。彼女はいつもと変わらぬ様子で客の話相手をしている。
「美守とは付き合ってないよ。そういう関係じゃない。美守は、違う」
「でも――」
如月は何か言いかけたが、すぐに力が抜けたように「そっか」と息を吐きながら頷いた。そして目尻に残った涙を拭いながら「だったらさ」と明るい声で続ける。
「わたしたち、また戻れないかな? 昔みたいに」
「友達に? それならムリだって前にも――」
「付き合おうよ、わたしと」
その言葉に叶向は彼女を凝視する。如月は明るい笑みを浮かべたまま「また、あの頃みたいにさ」と何でもないことのように言った。
「――本気で言ってんの?」
「言ってる」
笑顔で言う彼女の言葉は、しかし決して冗談を言っているようには聞こえない。叶向は彼女を見つめながら「好きなの? わたしのこと」と訊ねる。しかし彼女は首を横に振った。
「わたしもだよ。それでも付き合うの?」
如月は頷いた。
「なんで?」
「わかりたいから」
「なにを?」
「水無月のこと」
なんて一方的で、なんて勝手な言い分だろう。まるでこちらのことを考えていない。それでも彼女の言葉に嬉しくなってしまう自分が嫌だ。また彼女にすがってしまいそうな自分が怖い。しかし同時に期待も沸き上がった。
ずっと欲しかったものが今度こそ手に入るのではないか、と。
「――いいよ」
気づけば、叶向はそう答えていた。




