Chapter 35.4 『状狂列車 ― エンカウンター・クレイドル ―』
――戦いが、始まる、その前の夜。
土間の、その一番隅で、湯気が、一本の、細い糸のように、まっすぐに、立ち上っていた。
おばあちゃんは、小さな火鉢の前で、皺の刻まれた指を、ゆっくりと、擦り合わせている。
その、丸くなった背中は、まるで、この土地に、何百年も根を張ってきた、古い、古い樹のようだった。
「また、花と麦を、一緒に植えたんだってね」
美鈴は、黙って、頷いた。
おばあちゃんは、笑った。
それは、笑うというより、乾ききった大地が、ひび割れていくような、そんな音を、立てた。
「お前の畑は、変だって、みんな、言うよ。
でもねえ、美鈴。変な畑ほど、風が、よう吹くもんだよ」
「……風?」
「うん。風はな、神様からの、手紙だ。
でも、その文字を、読める人間は、少ない。
お前は、昔から、それを、よう聴いとった」
美鈴は、その言葉を聞いて、
ふと、あの畑で、確かに聴いた“音”を、思い出した。
麦の穂と、チューリップの花弁が、擦れ合う、あの、不思議な、音楽。
あれが、風が運んできた、手紙だったのだと、初めて、知った。
「ばあちゃん。
私、東京に、行く」
火鉢の中で、炭が、ぱちり、と、一つだけ、音を立てて、弾けた。
おばあちゃんは、少しの間を置いて、
ただ、「そうかい」とだけ、言った。
そして、ゆっくりと立ち上がり、
戸棚の、その一番奥から、一つの、古い、古い南京錠を、取り出した。
赤錆びて、もう、その錠を開けるための鍵は、どこにも、失われてしまっている。
「これはな、お前のじいちゃんが、昔、畑に埋めとったやつだよ。
風の音を、この中に、閉じ込めようとしてな。
けど、結局、閉じんかった」
おばあちゃんは、その、冷たく、重い鉄の塊を、美鈴の、小さな手に、渡した。
「今度こそ、あんたが、開けて、おいで」
ガタン――。
列車の車輪が、レールを噛む音が、どこかで「GOTTA TURN」と、鳴った、気がした。
車内は、静かだった。
窓の外を、先ほどまでいたはずの、麦とチューリップの残像が、交互に、まるでフィルムのように、流れていく。
あの畑が、記憶の、そのさらに裏側へと、吸い込まれていくようだった。
乗客の、誰も、その音の意味に、気づいてはいない。
でも、美鈴だけは、その意味を、知っていた。
“動け(GOTTA TURN)”。
その言葉の、次に来るのは、
いつだって“裂けろ(GOT TORN)”だ。
彼女の瞳の中で、車内の、白い蛍光灯が、一瞬だけ、虹色に、滲む。
心臓の鼓動と同期した、スマホのストーリー更新通知の幻影。
その、リポストの記号が、小さな南京錠の形に変わり、そして、カチリ、と音を立てて、開いた。
「……しょうがねえよな」
美鈴は、そう呟いて、
窓に映る、自分の顔に、指先で、そっと、リポストマークを、なぞった。
次の瞬間、車体が、大きく揺れ、
前方に、夜明けの、暗いトンネルが、まるで、虹色の口を開けて、彼女を、待っていた。
トンネルを、抜ける。
光が、暴力のように、車内に、押し寄せてきた。
そして、最初に見えたのは、
ビルではなかった。それは、風の柱だった。
ガラスのように、どこまでも透明な、巨大な竜巻が、何本も、何本も、この街の、骨組みを、支えている。
その、風の中を、ネオンサインが、魚のように泳ぎ、巨大な広告が、絵の具のように、溶けていた。
電線は、歌い、
信号は、踊る。
アスファルトの、その亀裂という亀裂から、
チューリップが生え、そして、すぐに、風に、散っていく。
その花弁が、空中で、交差し、
虹色の、椅子の形を、一瞬だけ、描いて、消えた。
美鈴は、窓に、額を押し付けた。
そこに映る、自分の顔が、さっきまでの、村にいた自分より、ほんの少しだけ、“都市的”に、見えた。
頬には、まだ、あの畑の、土の跡が、残っている。
でも、その瞳には、リポストの、七色の虹が、確かに、映っていた。
列車の車輪は、まだ「GOTTA TURN」と、鳴り続けていた。
その、一音ごとに、現実が、書き換えられていく。
窓の外、
巨大な、広告塔に、映し出されている、炎の女――
ヤナール。
彼女の、あの“義理”の炎が、この、狂った街の、次なる“春の祭典”の、始まりを、告げようとしていた。
(to be continued…)




