Chapter 35 『状狂列車・錠裂』
まだ、朝の匂いが、湿っている。
畑の、その一番端で、美鈴は、静かにしゃがみ込み、足元の、黒く湿った泥の粒を、その、細く、白い爪で、弾いていた。
それが、ぱちん、と、小さく鳴るたびに、どこか遠くで、風が、それに答えるかのように、さあと、音を立てる。
まるで、この、広大な地面の下で、何か、巨大なものが、ゆっくりと、目を覚まそうとしているみたいだった。
風にあわせて、どこまでも続く、青い麦の穂が、まるで海の表面のように、波打つ。
その、緑色の波の、合間、合間に、チューリップの、血のように鮮やかな赤が、ちらちらと、光っている。
ありえない、配置。
麦と、花が、同じ畝で、同じ土の養分を吸って、育っている――そんな、馬鹿げた、しかし、どこか美しい光景を、
この、古く、閉ざされた村で、面白いと感じるのは、おそらく、美鈴、ただ一人だけだった。
「また、変なモンを、混ぜやがって」
誰かの、声がした。
畦道の向こうに立つ、数人の女たちが、遠くから、こちらを、まるで異物でも見るかのように、睨みつけている。
その、女たちの中心にいるのは、
岩のような腕と、大地に根を張るかのような腰を持つ、この村の、絶対的な女番長――イワクラ・マサエ。
美鈴は、顔を上げなかった。
ただ、その指先で、麦の茎を、一本、そっと摘み、ゆっくりと、しかし、迷いなく、引き抜いた。
土の中から、根が、引き抜かれる、その音が、まるで、古代の、尺八のような、低く、物悲しい音を、立てて、鳴った。
その瞬間、空気が、変わった。
風が、全くの逆方向から、吹き始め、畑全体が、まるで、一つの生命体のように、ざわめいた。
麦と、チューリップが、目まぐるしく、その位置を変え、まるで、巨大な、自動織機が織りなす、美しい織物のように、複雑な模様を描き出していく。
美鈴の、編み込まれた髪の先が、その、ありえない光景に呼応するように、淡い、紫色の光を、帯び始める。
彼女は、それを見て、ほんの、ほんの少しだけ、子供のように、笑った。
「……鳴ってる」
畦道の、黒い影が、突然、その形を変えた。
麦の海の向こうから、その影が、こちらへ、歩いてくる。
それが、イワクラ・マサエだとわかった、その瞬間、
空気の温度が、ひとつ、ふたつと、確実に、落ちていった。
あの女の足音は、もはや、ただの足音ではない。地鳴りに、近い。
ひと歩き、またひと歩きと、進むごとに、畑の表面が、わずかに、しかし、確実に、沈んでいく。
まるで、この土地そのものが、彼女の、その圧倒的な重さを、恐れているかのようだ。
マサエは、顔の半分を、厳しい陽の光に焼かれ、
もう半分を、深い、土の闇に喰われたかのような、顔をしていた。
笑っているのか、怒っているのか、誰にも、わからない。
ただ、その、固く結ばれた唇の隙間から、
乾いた土の匂いと、鉄の味が混ざった、息が、こぼれ落ちる。
「また、やっとるな、美鈴。
……混ぜたな。 」
「麦に、花を混ぜたら、どうなるか。お前とて、知らんわけでは、あるまい」
その声は、低く、風よりも、重く、
まるで、この村の、千年の歴史そのものが、彼女の口を通して、喋っているかのようだった。
マサエの、その岩のような腕には、古い鋤の刃を、溶かして作られたという、黒光りする鉄の腕輪が、鈍い光を放っていた。
それは、この土地の、絶対的な所有者の印。
この村では、誰も、その腕輪を持つ者に、逆らうことはできない。
土地を持つことは、神の、権能を持つことと、同じ意味だからだ。
「ここは、わしの畑だ。
吹く風も、蒔かれる種も、そして、この土くれ一つも、全て、わしのもんだ。
お前が、面白半分で撒いた、その、毒々しいチューリップも、な」
美鈴は、手に持った、小さな鍬を、握り直した。
風が、止まる。
麦の穂が、震えるのを、やめる。
マサエの足元では、
土の中にいたはずの虫も動かず、草むらに潜んでいたはずの蛇でさえ、その首をもたげることができない。
それほどまでに、この女は、“地の重力”そのものを、その身に、背負っていた。
それは、支配の徴であり、
同時に、この、古く、痩せた土地の、呪い、そのものだった。
「この村はな、美鈴。お前みたいな、余所者の“色”を、何よりも、嫌うんじゃ。
……ほれ、どうした? 粋がって鍬など構えおって。震える足で立っとるだけで精一杯の分際で。お前がどれだけもがこうと、わしが『死ね』と念じれば、この土がお前の息の根を止めるんじゃ。無力さを噛み締めい」
その言葉と、共に。
マサエの背後で、青々と茂っていたはずの麦の波が、一斉に、黒く、反転した。
空に広がっていた、白い雲が、まるで、囚人を縛るかのような、巨大な、鉄の鎖の形を、作り出す。
土が、閉じる。
風が、閉じる。
世界が、一瞬だけ、その呼吸を、完全に、止めた。
その、絶対的な静寂と、圧力の中で、
美鈴の、その、ただ一つの眼だけが、まるで、これから始まる、何かを、祝福するかのように、淡い、紫色の光を、帯びていた。
イワクラ・マサエの、足音が、止まった。
風も、鳴らない。
麦は、首を垂れ、チューリップは、その花弁を俯かせる。
全てが、この、“地の支配者”の下に、完全に、沈黙していた。
美鈴は、鍬の柄を握る手を、ほんの少しだけ、緩めた。
その瞬間、彼女の肩が、微かに、揺れる。
呼吸が、一度だけ、止まり、
彼女の体の中心を、“音のない風”が、すうっと、流れていった。
マサエが、動く。
土を抉る、その重い足音。鉄の腕輪が放つ、鈍い光。
次の瞬間、美鈴は、右足を、すっと、ひとつ引いた。
その姿勢が、深く、沈み、腰が、締まる。
そして、世界の、沈黙が、切れた。
鍬が、逆風を、斬った。
風が、止まり、音が、抜けた。
美鈴の足元で、麦の根が、弦楽器のように、キィン、と鳴った。
チューリップの花弁が、まるで、錠前が開くかのように、カチリ、と音を立てて、開いた。
マサエの、その地の底から響くような笑い声が、あたりに響き渡る。
「お前のような、異質な“色”は、この土地では、すぐに枯れる運命じゃ――」
「……いや、枯れるのすらおこがましい。せいぜい無様に踏み潰されて、わしの麦の極上の『肥やし(ウンコ)』になるのが関の山じゃて。感謝するんじゃな、底辺の塵が」
「……小鳥の羽ばたきほどにも、この土は揺れんぞ。邪魔じゃ。さっさとその汚い色ごと、土の底へ還れ」
その言葉が終わる前に、美鈴は、鍬を、地面と真横に、構えた。
空気が、反転する。
彼女の背中から、光が抜け、風が、目に見える、白い“刃”になる。 この、畑全体が、彼女を中心に、一つの、巨大な南京錠の形へと、閉じていった。
import numpy as np
import sounddevice as sd
import system.physics_override as phys
# 地の重力の無効化
phys.gravity.set_domain('iwakura_masae', 0.0)
phys.space_lock.release_all()
# 空間切断ノイズの実行
fs = 44100
seconds = 2
noise = np.random.normal(0, 0.1, fs * seconds)
sd.play(noise, fs)
print("Jōretsu_Executed")
「錠裂――ッ!」
鍬が、横一文字に、薙ぎ払われる。
麦が、一斉に、逆立ち、
風が、爆ぜ、
チューリップの赤が、マサエを縛っていた、あの、黒い鎖の幻影を、光となって、引きちぎった。
マサエの、その、岩のような身体が、初めて、宙に、静止した。
そして、その輪郭が、まるで陽炎のように、光の中に、ゆっくりと、崩れていく。
限界を迎えた右腕の鉄の腕輪が、甲高い悲鳴を上げて完全に崩壊した。砕け散る黒い破片。その亀裂の奥から、この土気色の村にはありえないはずの、鮮烈な『虹の反射』が噴出し、彼女の静かな敗北を、プリズムのように美しく照らし出した。
風が、再び、吹く。
それは、この、古く、閉ざされた畑から生まれた、全く新しい、“春の祭典”だった。
マサエの身体が、完全に、宙に舞う。
彼女を縛り付けていた、あの“地の重力”が、完全にほどけ、土くれが、光の粒子へと、変わっていく。
麦の波が、黄金色に反転し、チューリップが、一斉に、祝福のように、咲き乱れた。
美鈴の頬に、その、新しい世界の、土が、優しく、当たる。
彼女は、一歩、前に出る。
地面が、驚くほど、軽くなっている。
まるで、この世界の、重力そのものが、ほんの少しだけ、彼女の存在を、許したかのように。
遠くで、汽笛が、鳴った。
あの、新しい“春の祭典”が、風を通じて、世界中に、鳴り響き始めたのだ。
美鈴は、鍬を、そっと肩に担ぎ、もう、決して、振り返らずに、歩き出す。
畑の、その中心には、砕け散った、黒い鉄の腕輪だけが、静かに、残っていた。
風が去ったあと、世界は、妙に、静かだった。
崩壊し、そして再生した畑の上で、美鈴のスマホが、ぶるりと震えた――ような、気がした。
実際には、彼女の手には、何も、持ってはいない。
けれど、瞼の裏で、“ストーリー更新”を告げる、虹色の円環が、確かに、光っていた。
「……更新、された?」
美鈴の、内側で、何かが、確かに、動き始めた。
視界の、その隅に、小さな、半透明のテキストが、浮かび上がる。
#錠裂
風が鳴った。地が割れた。そして、春が、こぼれた。
その文章が、頭の奥で、何度も、何度も、再生されていく。
まるで、どこか遠くにいる、誰かが、彼女の、たった今の記憶を、“引用リポスト”しているかのようだ。
次の瞬間、脳内のフィードが、切り替わる。
汽笛。
そして、最後のテキスト。
乗車します
その、たった一言の通知と共に、ストーリーは、切れた。
美鈴は、もう、あの畑にはいなかった。
彼女は、いつの間にか、古い列車の、硬い座席に、座っていた。
画面の外へ、物語の外へ、彼女は、抜け出してしまったのだ。
(to be continued…)




