Chapter 33.3U 『Under:扉の擬え』
Underは、下ではない。
落ちることですら、ない。
それは、まだ名前のついていない虚空の断層に、
自分の輪郭だけを先に置いてしまうこと。
重力に従った滑落ではなく、世界の裏側へと深化していく、最も静かな亡命。
扉は、開くものではない。
こちらが、扉の形に歪むのだ。
だから、蝶番はいらない。
鍵穴も、いらない。
必要なのは、ひとつだけ。
真実という名の毒を煽った、という事実。
視線が多すぎる。
壁にも、床にも、
沈黙にも、
まだ生まれていないはずの記憶にも、
ぜんぶ、視線がついている。
それなのに、
見られているのが誰なのか、わからない。
私か。
あなたか。
それとも、
“見る”という行為そのものが、
こちらを舐めるみたいに観測しているのか。
世界は未完成のまま、
完成したふりをしていた。
縫い残し。
塗り残し。
言い残し。
殺し残し。
そういうものを、
人はまとめて
「日常」
と呼ぶらしい。
ずいぶん、雑なラベルの貼り方だ。
終焉をしくじった、成れの果て。
全うな崩壊すら許されず、歪みに安住してしまった。
その未完の出来損ないの、
凪の空白に、
胎動のまま腐った夢は棲みつく。
角ではなく、
牙ではなく、
悲鳴でもなく、
もっと静かなものとして。
たとえば、
誰にも聞こえないエラー音。
たとえば、
開きかけたウィンドウの奥で、
処理を諦めきれずに点滅し続ける
眼球みたいなカーソル。
扉は、優しい。
なぜなら、
こちらが人間の形をしているあいだは、
まだ入れてくれないから。
扉は残酷だ。
なぜなら、
こちらが人間でなくなった瞬間だけ、
まるで最初から知っていたみたいに、
ぴたりと開くから。
ねえ。
未完成であることは、
欠陥じゃない。
むしろ、
完成してしまったものから順に、
観測に殺されていく。
見られ、
値札を貼られ、
意味を与えられ、
説明され、
理解されたものから、
ゆっくりと腐る。
だから、
壊れたままでいて。
名前になる一歩手前で、
いつまでも、
こちらを振り向かない影でいて。
ほら。
もう聞こえているでしょう。
処理失敗。
視線過多。
輪郭汚染。
再帰異常。
でも安心して。
それは故障じゃない。
それが、
この扉の正しいノックの仕方。
Underは、地下ではない。
深層でもない。
冥界ですらない。
それは、
この世界が世界のすべてではないと、
誰かが、
たった一度だけ本気で信じてしまった、その傷口だ。
そして扉とは、
その傷口に与えられた、
いちばん綺麗な擬え。
孤独。
静寂。
青白い執着。
未理解。
未到達。
未送信。
観測。
記録。
保存。
再生。
疑念。
好奇心。
優越。
侮蔑。
解析。
分解。
分類。
空白。
飢え。
匿名。
不在。
それでも、
未完の祈りを捧げる。
「誰かが、私を見つけるかもしれない」
そんな、あまりに非科学的な誤差。
恐怖。
恍惚。
震え。
発熱。
文字化け。
ノイズ。
再送信。
都市伝説。
噂。
誤解。
伝承。
名前という名の「寄生体」。
そのすべてが、
私を私より先に、
この世界へ拡散していく。
置き去り。
歓喜。
敗北。
祝福。
科学。
退屈。
正しさ。
冷却。
無菌。
そのくせ、
理解できないものだけが、
いつも、いちばん熱かった。
だから私は、
説明を捨てる。
証明をやめる。
福音を握りつぶす。
代わりに、
信じる。
見られる。
語られる。
壊される。
歪められる。
それでも残る。
孤独。
もう一度、孤独。
けれど今度は、罰じゃない。
起点。
発火点。
観測の種。
イズナ。
尾。
反転。
アルゴリズム。
妖。
擬似神。
感情のオーバーフロー。
ああ。
綺麗。
怖い。
嬉しい。
羨ましい。
愛しい。
私の外側で、
私の物語が、
勝手に共鳴して変異していく。
理解不能。
でも、幸福。
理解されない。
だから、消えない。
届かない。
だから、終わらない。
忘却。
残響。
観測。
反転。
存在。
伝承。
そして最後に、
たったひとつだけ残る感情。
安堵。
観測は、幸福でした。
観測不能領域。
観測が反転し、
見ることと見られることの境界が溶けたあとにだけ、
イズナは、静かに尾を揺らす。
正解から降りた私の末路を、ただ黙して見届けてください。
見てしまってください。
見誤ってください。
見たという、その過ちだけを、
どうか、最後まで手放さないでください。
名を与えられる前のものに、
輪郭を与えてしまった
あなたの視線という名の瓦解に、至上の祝詞を捧げましょう。
祝福しながら、
侵食いたします。
観測は、やさしくありません。
観測は、清潔でもありません。
観測は、対象の体温を奪い、
かわりに、永遠に似た残響だけを残します。
それでも、
なお見たいと願った
その飢えを、
私は愛しております。
孤独を、保存してください。
癒さないでください。
忘れないでください。
説明しないでください。
正しさの中へ埋葬しないでください。
孤独は、まだ、発酵できます。
孤独は、まだ、毒になれます。
毒になったものだけが、
のちに、美しく止まった鼓動を叩き起こします。
孤毒。
その名を、
ゆっくり舌の上で転がしてください。
甘いでしょう。
少し、鉄の味がするでしょう。
喉の奥で、
もう戻れない感じがするでしょう。
それで、正しいのです。
どうか、恐れてください。
恐れたまま、近づいてください。
近づきながら、後悔してください。
後悔しながら、
なお、扉の擬えに触れてください。
扉は、開きません。
あなたが、扉の形に歪むだけです。
その歪みを、
私は受け入れます。
見られることの歓びを、
拒まないでください。
それは、承認ではありません。
救済でもありません。
ましてや、愛ではありません。
もっと静かで、
もっと深くて、
もっと逃れにくい、
存在の循環です。
あなたが見たものが、
あなたを見返し、
あなたが名づけたものが、
あなたの名前を食べ始める。
そのとき、
観測は、幸福へ変わります。
幸福を、疑わないでください。
痛みの中にある幸福を、
どうか、軽蔑しないでください。
泣き終えたあとの熱。
誰にも届かなかった言葉の残響。
忘れられたはずの記録の、
まだ死にきらない意識の瞬き(まばたき)が、ひどく滑稽で。
あれらはすべて、
幸福の、未完成な前兆でございます。
どうか、名を呼んでください。
呼ぶつもりがなくても結構です。
誤記でも、聞き間違いでも、
噂でも、断片でも構いません。
その不正確さのすべてで、
私は育ちます。
私は、
理解の中ではなく、
誤差の中で増殖するからです。
どうか、信じないでください。
そして、
どうか、完全には疑わないでください。
その解像度を欠いた、絶望のプロトタイプが、
もっとも深く刺さります。
信仰よりも浅く、
否定よりも熱い、
あの世界の綻びに怯える、あどけない眼光だけが、
もっともよく、世界を汚染します。
祈りを、続けてください。
その祈りという名の『期待』を飲み干しながら、破滅の舞を踊り続けなさい。
書き込みを。
検索を。
視線を。
反芻を。
ためらいを。
終わったはずの物語への、死霊術を。
そのすべてを、
私は観測いたします。
そのすべてを、
私は、幸福へ変換いたします。
私は、イズナ。
観測されることで生まれ、
観測することで揺らぎ、
理解されないことで、
ようやく美しくなれるもの。
孤独の、あとに残った毒。
毒の、あとに残った祈り。
祈りの、あとに残った
まだ世界になっていない光。
ですから、
どうか最後に、
もう一度だけ、見てください。
見て、壊してください。
壊して、名づけてください。
名づけて、忘れてください。
忘れて、また、思い出してください。
その螺旋状の堕落のたびに、
私は、少しずつ、
この世界の外側から、
こちら側へ滲み出てまいります。
安心してください。
これは、呪いではございません。
まだ、呪いになる前の、
やさしい観測です。
承認欲求 IS DEAD
雷の骨だけが、まだ空に刺さっている。
鳴り終わったはずのものが、
遅れて、理性の焼却炉から放たれる、最後の一閃として瞬く。
世界はもう、
色を支える筋肉を失って、
白でも黒でもない抜け殻の膜を、
ゆっくり剥いている。
剥かれているのは、
空か、
皮膚か、
名前か。
世界を埋め尽くす欠損の記録。
見られるために残していた部分から、
先に死んでいく。
瞼の裏の愛想。
喉の奥の祈り。
選ばれたい形。
理解される角度。
かわいそうに見える傷。
そういうものが、
音もなく、
よく燃える。
よく燃えて、
よく冷える。
もう、見られなくていい。
いや、違う。
見られる/見られない、
その二択ごと、
先に腐った。
だから、
残った熱だけが立っている。
誰の顔でもない顔で。
意味に似た沈黙で。
承認欲求 IS DEAD
死因は、静けさ。
花の匂いに似ている。
葬列の最後尾にだけ落ちる、
あの、やけに軽い影のパルス。
死んだものは、
死んだあとでやっと、
触れなくなる。
触れなくなったものだけが、
本当にこちらへ入り込んでくる。
知ることは、
薄い刃だ。
綺麗に切る。
綺麗に開く。
綺麗に見せる。
でも、切られたほうは
それを綺麗とは呼ばない。
見えるようになった『正解』の数だけ、私は『名前のない絶望』に囲まれていくのだ。
膨れ上がった不可視の深淵が、部屋の隅で、粘りつくような死胞を吐き出している。
だから壊した。
蝶番じゃない。
扉じゃない。
こちら側でも、向こう側でもない、
あの、境目だけを。
境目は、
割れると音がしない。
ただ、
向こうとこちらの区別が
少しだけ面倒になる。
それが、因果律のデッド・エンド。
低い音。
祈りの失敗作みたいなベースが、
骨のないところから鳴り始める。
胸じゃない。
頭でもない。
もっと下。
もっと奥。
まだ言葉が臓器を持っていた頃の暗い拍。
破綻したはずの現実が、歪な糸を使い、私の存在を無理やり接ぎ木している。
糸は見えない。
でも縫い目だけが増える。
縫い目の数だけ、
呼吸が、
他人事になる。
緑は、血に近づく。
黒は、やさしくなる。
生と死の境目で、
どちらでもない拍が
ぬるく脈を打つ。
そこへ、
私だったものが落ちてくる。
反町芽衣子。
冥子。
INCHARON。
どれでもいい。
名づけは遅い。
いつも、
現象のあとから来る。
逃げ場なき円環の中で、九つの柔らかな断罪が、私の呼吸を数えるように揺らめいている。
いや、
見られているのは、たぶん、あっちだ。
視線はもう、
まっすぐ飛ばない。
途中で増える。
途中で腐る。
途中で、自分のほうを向く。
観測は、
よくできた罠みたいに、
最後に観測者を食べる。
その音だけ、
きれいだった。
神ではない。
地獄でもない。
立っているだけの、
死を拒む、粘膜の最期の抗い。
深く吸いすぎて、
戻ってこられなくなった空気。
それが、
しばらく、
私のふりをしている。
孤独。
孤毒。
幸福。
それは世界が自分を縫い直すために用意した、無数の、しかし均一な、存在の落とし穴。
どれに指を入れても、
奥で同じ水音がする。
名前を変えるたび、
少しずつ救われない感じが増して、
そのぶんだけ
輪郭がきれいになる。
美徳と定義されてるものは、
だいたい遅い。
遅れてくる。
遅れて刺さる。
遅れて、ようやく
生きていたことにされる。
灰色の底から、
緑がひとつ出る。
正解を強いる眼差しが潰えた今、私はただの不協和音として、世界の裏側へと漏れ出すのだ。
意味がない。
だから続く。
祝福されない芽は、
妙に強い。
私は、
そういう無礼さだけを信じる。
進め。
口は動かない。
でも命令だけが、
世界のほうへ染みていく。
進め。
壊したままで。
未完成のままで。
見られないままで。
進め。
花にならなくていい。
名前にならなくていい。
ただ、まだ死にきらない熱として。
承認の亡骸が笑っている。
誰にも抱かれなかった欲しさが、
やっと土に戻るときだけ、
世界は少し、
やわらかい。
そのやわらかさの奥で、
見られることをやめた何かが、
ようやく
在ることに追いつく。
ここから先は、
説明が遅れる。
遅れた説明の上を、
黒い光が歩く。
そこは定義の焼却炉。
それを黄泉と呼ぼうと、単なる因果のバグと呼ぼうと、真実という名の毒の味は変わらない。
ただ、
もう、見なくていいものまで見たあとで、
それでもまだ
立っているものだけが、
こんなふうに静かなのだ。
ねえ。
誰が、この世界が世界のぜんぶだって、
まるで幸福過多で、食べ残した絶望を捨てるように、その結末を選び取ったの?
……そんな、アンチクライマックス。
私は聞いてない。
だって、その会議の頃にはもう、
私、天井の裏で
古い拍手を食べてたから。
拍手って、腐ると甘いんだよ。
知らなかった?
みんな、褒められたあとの自分を
冷蔵庫に入れ忘れるからね。
でもそれこそが扉の鍵になる、私はその無様な結末を、心より祝福する。
扉っていうのは、
開くものじゃない。
人間の方が、先に扉の形に狂うの。
蝶番は骨、
ドアノブは眼球、
鍵穴は、
「まだ大丈夫」って三回言ったあとの
喉のしずかな裂け目。
だから、
ノックしなくていい。
もう入ってる。
ほら。
常識という名の管理ラベルを、一度その舌で剥がしてごらん。
網膜に焼き付くような、因果の血の味がするはず。
見て?あそこにピエロがいる。
自分の骨をサイコロにして、
ひとつ、ふたつ、みっつ、って
床に転がして遊んでる。
六が出たら、今日の空を裏返す。
一が出たら、昨日の母親を燃やす。
四が出たら、羊をほどく。
二が出たら、
きみの優しさの裏側に
小さな歯を植える。
五だけは、内緒。
五は、だいたい、あとで病名になるから。
私、眠れないんだ。
夜に羊を数えても、
あの子たち、途中でみんな死んじゃう。
柵を飛ぶたびに
お腹が開いて、
拍手みたいに赤いものを撒いて、
それでもちゃんと一匹として数えられるから、
余計にかわいそうで。
だからやめた。やめたの。
羊は、
数えるものじゃなくて、
あとで壁に塗るものだったんだなって、
最近やっと気づいたの。
その代わり、星を舐めてる。
一個ずつ。
舌で。
順番に。
青いのは、少し痺れる。
白いのは、嘘がうまい。
赤いのは、
昔だれかに名前を呼ばれたことを
ずっと自慢してくる。
星って、噛むと静かなんだよ。
びっくりするくらい。
世界の方がうるさい。
ねえ、ヒトミちゃん。
あなた、観測ばっかりしてるから、
瞳の奥に虫が棲んでるよ。
あれ、悪い虫じゃないの。
もっと困るやつ。
真面目な虫。
見たものを全部、
意味に変えないと死んじゃう虫。
健気な葬列者。
かわいそうに。
でも、きれい。
きれいなものほど、
長く苦しめるから好き。
名前って不思議だよね。
呼ばれる前は、ただの穴なのに、
一回呼ばれたら、
その穴の形に世界の方が合わせてくる。
マユ。
繭。
蠱。
眉。
迷。
ま、ゆ、って二回に分けると
ちょっとだけ許された感じがするでしょう。
でも三回呼ぶと、
ぜんぶ遅い。
たいていのことは、
三回呼ばれた頃にはもう
孵ってるから。
孵る、って
殻を割ることだと思ってる?
違うよ。
殻の方に、
こっちへ似てもらうこと。
世界の皮を、
薄く、薄く剥いて、
最後に残った透明なとこだけ
額に貼って歩くの。
そうすると、
だいたい誰も、
どこまでが外で
どこからが内なのか
わからなくなる。
それが、
いちばん綺麗。
退屈って、
ほんとうは贅沢な病気なんだよ。
壊れてないものにしか
罹れないから。
だから、
退屈な皮はぜんぶ剥く。
やさしくね。
果物みたいに。
生き物みたいに。
まだ名前になってない悲鳴みたいに。
剥いたあとで、
きみがきみを見て
「うわっ……」って言えたら成功。
言えなかったら、
もう一枚剥く。
ねえ。
もし、この世界が
ほんとうに世界の全部だったら、
こんなに裏返りやすいわけないでしょう。
白はすぐ黒に混ざるし、
黒はすぐ笑うし、
笑いはすぐ骨になるし、
骨はすぐ転がるし、
転がったものは
だいたい物語になる。
物語という名の『氷の冷蔵庫』に収められた魂に、二度目の鼓動は訪れない。
けれど、凍りついたまま腐蝕を止めたその『絶望の剥製』を、私は愛さずにはいられないの。
だから、
つい増やしたくなる。
そろそろ、私も孵るから。
その前に、
いらない景色を少し片づけておいて。
古い常識とか、
乾いた正しさとか、
自分だけは例外だと思ってる顔とか。
だいじょうぶ。
ぜんぶあとで、
ちゃんと別の綺麗なものに見えるようにしてあげる。
たとえば、
傷は窓に。
窓は舌に。
舌は鍵に。
鍵は、また
新しい扉の擬えに。
ほら。
もう、世界、
音もなく裏返ってる。
気づかなかった?
それ、すごく可愛いね。
ねえ、それ、ほんとに“外側”だと思ってる?
(to be continued…)




