二話 竜騎士、診療所に通う
重傷だったヴァルドは順調に回復し、どういうわけか驚くほどルミナへ懐いた。
もっとも、まだ飛行の許可は下りていない。王城までは竜で飛べばそう遠くないが、今のヴァルドに長距離を飛ばせるわけにはいかなかったため、治療期間中は診療所の裏手に設けた広い療養区画で過ごしている。
そのためゼインも頻繁に診療所へ顔を出していたが、肝心のヴァルドはというと、診察のときだけは彼よりルミナの言うことをよく聞いた。
「ヴァルド。右翼を広げてください」
ばさり、と巨大な翼が素直に開く。
「もう少し上へ」
銀灰色の翼が上がる。
「そのままで」
ぴたりと止まった。
少し離れた場所で腕を組んで見ていたゼインが、とうとう口を開く。
「……こいつ、俺より君の言うこと聞いてない?」
「気のせいでは?」
「いや、絶対そうだろ」
ルミナは取り合わず、ヴァルドの翼の付け根へ手を添える。
「ヴァルド、翼を畳んでください」
すると翼は何の抵抗もなくすっと畳まれた。
ゼインが思わず指をさした。
「ほら!」
「診察に協力してくれているだけですよ」
「俺が今朝『翼見せろ』って言ったら無視されたんだけど」
「言い方では?」
「ルミナって意外と容赦ないな」
「医師としての所見です」
「便利だな、その言葉」
いつの間にかこんなやり取りにも慣れていた。
ヴァルドもルミナが来れば自分から頭を下げるし、診察が終わったあともすぐには離れようとしない。
ときには人の胴ほどもある頭を彼女へ押しつけ、当然のように撫でることを要求する。愛情表現としては、なかなか重い。物理的にも。
「ヴァルド。診察は終わりましたよ」
「グル」
「帰る気がありませんね」
「だから言っただろ。完全に気に入られてるって」
「悪いことではないですね」
「俺としてはちょっと複雑なんだけど」
「なぜです?」
「十年一緒にいる俺より素直だから」
その言葉にルミナが少し笑う。
「……少しは私のことを信頼してくれたんでしょうか」
「かなりだと思う」
ゼインの声が穏やかになる。
「命を助けてもらったから」
ルミナの指が、一瞬だけ止まった。
――命を助けてもらったから。
その言葉は、彼女にとって少しだけ特別だった。
十歳のあの日、自分の命を守ってくれた小さな飛竜の姿が、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。
「そうなら、嬉しいですね」
ルミナは穏やかに笑い、再びヴァルドの傷へ手を伸ばした。
◇◇◇
そんな日々を重ねて一ヶ月。とうとう、完治の日が来た。
ルミナは最後の診察を終えると、治療記録を閉じた。
「もう大丈夫です」
ゼインの顔が上がる。
「傷は完全に塞がっています。魔力循環にも異常はありませんし、翼の可動域も元通りです。飛行を再開して構いませんよ」
「本当に?」
とたんに表情が明るくなった。この一月で分かったことだが、ゼインは思ったより顔に出る。
ルミナはそこで釘を刺した。
「ただし、最初の七日間は短距離だけです」
「分かったよ」
「返事が軽いです」
「ちゃんと守るって」
「今のところ信用度は五割ですね」
「低くない?」
横でリネットが吹き出した。
ヴァルドも分かっているのかいないのか、満足そうに低く喉を鳴らす。
その大きな額へ手を添えながら、ルミナはふっと笑った。
「本当に、よかった」
それは医師として患者へ向ける、安心させるための笑みではなかった。
――ただ、命が助かったことが嬉しい。
そんな思いがそのまま表れたような、無防備な笑顔だった。
ゼインは思わず見入った。
普段のルミナは、いつも落ち着いている。瀕死の大型竜を目の前にしたあの日ですら、手を震わせなかった。
その彼女が一頭の竜の回復をこんなにも嬉しそうに喜んでいる。
――こういう顔もするんだな。
なぜか、その笑顔が妙に胸に残った。
しばらくして。
ゼインがヴァルドの背へ跨る。
一月ぶりに銀灰色の大翼が大きく広がった。
強い風が巻き起こり、ルミナの診療衣と、まとめきれなかった赤みのある髪を揺らす。
ヴァルドは一度だけ大きく地面を蹴り、自らの翼で空へ舞い上がった。
「……飛んだ」
隣でリネットが息を漏らす。ルミナは空を見上げたまま、柔らかく笑っていた。
治療が終われば、患者は帰っていく。
それが一番いい。
医師にいつまでも会う必要がないというのは、健康だということなのだから。
ヴァルドが王城へ帰ってから数日後。診療所の扉に取りつけられた小さな鐘が鳴った。
「こんにちは、リネットさん」
受付へ出たリネットが顔を上げる。
「こんにちは。……ゼインさん?」
そこに立っていたのは、青と金の騎士服を着たゼインだった。後ろにヴァルドの姿はない。
「ヴァルドさんは?」
「今日は王城にいる」
そこへルミナも顔を出した。
「こんにちは、ゼインさん。ヴァルドに何かありましたか?」
「いや。元気だよ」
「傷や右翼を庇う様子は?」
「問題ない。」
「食欲も?」
「ありすぎるくらい」
「それなら安心ですね」
ルミナは頷いた。
それから、ごく自然に続ける。
「では、今日はどうされたんですか?」
「近くまで来たから、寄ってみた」
「そうなんですね」
あっさり納得した。ちょうど午前の診療も一段落したところだったので、ルミナは奥を指す。
「お茶でも飲んでいきます?」
「いいの?」
「今から休憩にするところですから」
「じゃあ、もらおうかな」
「リネット、お茶をお願いできますか?」
返事がない。
ルミナが振り返ると、リネットが何とも言えない顔でこちらを見ていた。リネットは続けて、ゼインを見る。ゼインも不思議そうに見返した。
数秒の沈黙のあと、彼が首を傾げる。
「何?」
「いえ。何でもありません」
リネットはくるりと背を向けた。
「お茶、淹れてきます」
その背中を見送りながら、ルミナも首を傾げる。
◇
診療所の奥にある小さな休憩室には、昼の柔らかな光が差し込んでいた。棚には医学書や魔獣の骨格図が並び、壁際には薬草と薬瓶が整然と収められている。
リネットが淹れた紅茶と焼き菓子を前に、ゼインは物珍しそうに室内を見回した。
「こういうところで休憩してるんだな」
「狭いでしょう?」
「いや。思ってたより落ち着く」
「そうですか?」
「うん」
ゼインは魔獣の骨格図に目を向ける。
「ただ、これに見られながら飯はちょっと落ち着かないかも」
「ふふ。そのうち慣れますよ」
動かないものを怖がる必要はない。
むしろ患者の方がよほどよく動く。ときには飛ぶ。噛む。火も吐く。それに比べて骨格図は大変静かだ。
ルミナに続いてゼインも紅茶を一口飲んだあと、ふと思い出したように言った。
「そういえば、エドガー先生が君の治療記録をかなり熱心に読んでたよ」
ルミナの手が止まった。
「……ヴェルナー先生が?」
エドガー・ヴェルナー。王城付きの魔獣医として竜騎士団の竜たちを診てきた人物で、大型竜医療の第一人者だ。直接会ったことはないがルミナももちろん彼の名を知っている。
「うん。ヴァルドが戻った日に診てもらったんだ。傷も翼も一通り確認して、そのあと君が渡してくれた記録をずっと見てた」
「何か仰っていましたか?」
先ほどまでより、ほんの少し問いが早い。ゼインはその変化に気づき、口元を緩めた
「気になる?」
「当然です」
即答だった。
「ヴェルナー先生は、大型竜を診る魔獣医なら知らない者はいないほどの方です。今でも難しい症例に当たったときは先生の過去の記録を参考にすることがあります」
「そんなに有名なんだ」
「竜を診ていただいてるのに、ご存じなかったんですか?」
「腕がいいのは知ってるよ。でも俺たちにとっては昔から王城にいる先生だから。外でどれくらい有名かっていう感覚がないんだよ」
「……なるほど」
確かに、身近にいるからこそ分からないこともあるのだろう。
ルミナはすぐに本題へ戻った。
「それで、何と仰っていました?」
「『よくこの状態から翼を残したな』って」
ルミナが目を見開く。
「……本当ですか?」
「ああ。最初の傷の状態なら、飛行能力に後遺症が残ってもおかしくなかったらしい。それから、止血の判断が早かったのと、最初の縫合がよかったって」
「……そうですか」
小さく息を吐く。どこか、ほっとしたような表情だった。
「嬉しそうだな」
「それは、まあ」
ルミナは少しだけ視線を逸らす。
「尊敬している先生に治療を評価していただけたなら、嬉しいですよ」
普段はあまり感情を大きく表へ出さない彼女にしては、珍しく素直な反応だった。
ゼインは少し笑う。
「ただ、薬の量について一か所だけ確認したいところがあるとも言ってた」
途端に、ルミナの顔が魔獣医のものへ戻る。
「どの薬ですか?投与した時間は?」
「いや、そこまでは――」
「大型用魔力調整剤でしょうか。それとも二日目の抗炎症薬……」
「待って。俺に聞かれても分からない」
「そうですね」
即座に引き下がる。聞く相手を間違えた。
「今度、本人に聞いてみれば?。エドガー先生、君に会ってみたいって言ってたよ」
「私に?」
「『一度話してみたい』って」
今度は先ほどよりも少し長く沈黙した。それから、ほんのわずかに嬉しそうに微笑む。
「それは、光栄ですね」
ゼインはその顔を見ながら思う。
普段は落ち着いていて感情を大きく表には出さない。それなのに、こういうときは思っていたより素直に顔へ出るらしい。
そしてなぜか、そんな瞬間を見つけると少し得をしたような気分になる。
「そういえば、ヴァルドとは長いんですよね」
「ああ。もう十年くらいになるかな」
「最初からあんなに懐いていたんですか?」
「まさか」
ゼインは焼き菓子を一つ取りながら笑った。
「最初はめちゃくちゃ嫌われてた」
「ヴァルドに?」
「あいつ、俺が候補生だった頃はかなり気難しかったんだよ。誰が近づいても睨むし、触ろうとすれば唸るし。教官にも『あれは諦めろ』って言われてた」
「それでも、諦めなかったんですね」
「まあな」
「ゼインさんらしいですね」
「どういう意味?」
「止められると、余計に行きたくなる方でしょう?」
ゼインは少し考えたあと、苦笑した。
「……否定しにくいな」
ルミナが小さく笑う。
「それで、どうしたんですか?」
「何もしなかった」
「何も?」
「あいつが嫌がるから、少し離れたところに座ってただけ。そばでパン食べたり本読んだりしてた」
「……意外です」
「何が?」
「もっと強引に距離を縮めたのかと思っていました」
「君、俺を何だと思ってるの?」
「大胆で、決断が速くて、ときどき無茶をする竜騎士です」
「だいたい合ってるな」
ゼインは肩を竦めた。
「十日くらい毎日それを続けてたら、その次の日だったかな。向こうから寄ってきたんだ」
「ヴァルドから?」
「ああ」
「それで、触らせてくれたんですか?」
「いや」
ゼインは平然と答える。
「頭突きされた」
ルミナが黙った。
「……頭突き?」
「思いきりふっ飛ばされた」
「それは……」
「教官には『認められたな』って言われた」
少しの沈黙のあと。
ルミナが、ふふっと吹き出した。
「すみません……」
「いや、そこは笑うところだから」
「でも、頭突きで認められたって……」
珍しく肩を揺らしながら笑っている。
ゼインは何も言わず、その顔を見ていた。
ヴァルドの完治を喜んでいたときの笑顔とは少し違う。あのときは心の底から安堵したような顔だった。
今はただ、可笑しくて笑っている。
そんな違いまでなぜか目についた。
――やっぱり、こうして笑ってる方がいいな。
ふと、そんなことを思った。
「それで、その日から触らせてくれるようになった。背中に乗せてくれたのはもう少し後だけど」
「その時からずっと一緒なんですね」
「ああ。……だから」
ゼインの表情が少しだけ静かになる。
「本当に、ありがとう」
いつもの気さくな調子ではない。
「ヴァルドを助けてくれて」
ルミナは一瞬だけ目を瞬いたが、すぐに穏やかな表情へ戻った。
「私は医師ですから。助けられる命を助けただけです」
「うん。それでも、俺にとっては大きなことだった」
まっすぐそう言われ、ルミナはしばらくゼインを見つめた。
それから少しだけ考えて口を開く。
「……では、ヴァルドが元気になった姿を、たまには見せに来てください」
今度はゼインが目を瞬いた。
「いいの?」
「もちろんです。通院する必要はありませんけど、患者だった子のその後が気にならないわけではありませんから」
「そっか」
ゼインの口元に、自然と笑みが浮かぶ。
「じゃあ、今度はヴァルドも連れてくる」
「はい」
ちょうどそのとき、受付の方からリネットの声が飛んできた。
「先生、午後の患者さんです!」
ルミナが壁の時計へ目をやる。
「もうそんな時間ですか」
「じゃあ、俺もそろそろ帰るよ」
「そうですね。これ以上はお構いもできませんので」
「十分してもらったって」
二人で診療室へ戻ると、ちょうどリネットが次の患者を診察台へ乗せているところだった。
真っ赤な鱗を持つ、小型の火蜥蜴。
まだ幼体らしい。ただ、見知らぬ場所へ連れてこられたことがよほど怖いようで、診察台へ乗せられた途端小さな口から炎を噴いた。
「シャアッ!」
「うわ」
ゼインが思わず半歩下がる。
リネットは慣れた様子で火除けの布を広げた。
「今日はかなり警戒していますね」
「警戒というより、混乱しているんだと思います」
ルミナの声が変わった。
休憩中の柔らかさが消え、すっと医師の顔になる。
すぐには近づかず、まず少し離れた場所から火蜥蜴を観察する。呼吸。尾の動き。前脚の位置。視線の向き。
「左の前脚を庇っていますね」
「分かるの?」
思わずゼインが尋ねる。
ルミナは火蜥蜴から目を離さない。
「体重を右側へ逃がしています。それに、炎を吐く直前だけ左脚を少し浮かせているでしょう?」
言われて初めて、ゼインにもその違いが分かった。
「……本当だ」
「ゼインさん、帰るときはそっと帰ってくださいね。知らない人が近くで大きく動くと、余計に怖がります」
「分かった」
妙に素直な返事に、リネットが小さく笑う。
火蜥蜴が再び炎を吐いた。それでもルミナは動じない。
「大丈夫ですよ。痛いところを診るだけです」
急がない。すぐに手は出さず相手が落ち着くのをただ待つ。
やがて火蜥蜴の尾からほんの少しだけ力が抜けた。その変化を見逃さず、ルミナはゆっくりと手を近づける。
「そう。いい子ですね」
赤紫色の瞳は、目の前の患者だけを見ていた。
ゼインは、もう帰るつもりだった。
静かに挨拶をしてそのまま診療所を出ればいい。なのに気づけば、壁際に立ったままルミナの診察を眺めていた。
ヴァルドのときだけではない。大型竜だから特別に真剣だったわけでもない。
手のひらに乗るほどの小さな魔獣一匹にも、同じだけ注意を払い、同じように怖がらせまいとしている。
「リネット、固定はしなくて大丈夫です」
「はい」
「骨折はしていないと思います。念のため、魔力の流れも確認しましょう」
「測定器出しますね」
二人は淀みなく動く。ルミナの手に迷いはない。けれど決して乱暴でもない。
目の前の命を助けるために必要なことを、一つずつ確実に積み重ねていく。
「……ゼインさん?」
診察を終えたルミナが振り返った。
「まだいらしたんですね」
「ああ」
「帰られたのかと思っていました」
「俺も帰るつもりだったんだけど」
不思議そうに見られ、ゼインは少し考える。
けれどうまい理由が思いつかなかった。なら、別に取り繕う必要はない。
「君が仕事してるところ、見てた」
ルミナが瞬きをする。
「見てて面白いですか?」
「面白いっていうか……」
ゼインは少しだけ笑った。
「興味深い」
「変わった方ですね」
「よく言われる」
「そうでしょうね」
「そこは否定してくれてもよくない?」
「事実ですから」
平然と返され、ゼインは笑った。
「じゃあ、今度こそ帰るよ」
「はい。お気をつけて」
「またな、ルミナ、リネットさん」
扉の鐘が鳴りゼインが診療所を出ていく。
静かになった室内でリネットは閉じた扉とルミナをしばらく眺めていたが、やがて薬箱を抱えそのまま奥へ戻っていった。
一方、王城へ向かいながら、ゼインは今日のことを思い返していた。
エドガーの話と、ヴァルドとの昔話をした。茶を飲み、ルミナが笑うのを見た。ルミナが仕事をするところを見た。
特別なことは何もしていない。
それなのに、不思議と楽しかった。
ヴァルドの治療はもう終わっている。本来なら自分があの診療所へ通う理由もない。
けれど、元気になったヴァルドをたまには見せに来ていいとルミナは言った。
それなら。
「……次はヴァルドも連れてくるか」
ぽつりと呟く。
そうすれば、またあの診療所へ行ける。
その理由を深く考えることもなく、ゼインは少しだけ足取りを軽くして王城への道を戻っていった。




