一話 銀灰の竜、墜ちる
「先生気をつけてください。その子、噛みますので」
診察台の上で小さな飛竜が低く唸った。
灰褐色の鱗に覆われた身体は、大きめの猟犬ほど。背に生えた翼のうち右側だけが不自然に下がっている。
飼い主の青年が不安そうに身を乗り出した。
「昨日からずっとこんな調子で。普段は大人しい奴なんですけど、翼に触ろうとすると怒って牙を剥くんです」
「そうですか」
魔獣専門医ルミナ・フェルメールはそう答えると、診察台の前へ静かにしゃがみ込んだ。
深い赤みを帯びたブラウンの髪は仕事の邪魔にならないよう、低い位置で丸くまとめている。濃灰色の診療衣の袖を少し捲り、赤紫色の瞳で飛竜の様子をじっと観察した。
見るのは牙ではない。
呼吸の速さ、瞳孔の開き、尾の動き。そして何より、誰かの手が右翼へ近づくたび身体全体がわずかに縮こまること。
怒っている生き物と、怖がっている生き物は、似ているようで少し違う。その違いを見誤ると普通に噛まれる。
だから見極めは大事だった。非常に。
「怒っているんじゃありません」
「え?」
「怖がっています」
青年が目を瞬いた。
「翼に触れられると痛い、と覚えたんでしょう。だから、また痛いことをされる前に『近づかないで』と威嚇しているんです」
「……そんなことまで分かるんですか?」
「少なくとも、本気で私を噛もうとしている顔ではありませんね」
そう言ってルミナは飛竜の正面を避けるように位置をずらし、ゆっくりと手を差し出した。
その手の甲には、白く細かな傷痕がいくつも残っている。魔獣専門医になってから増えたものもあれば、学生の頃についたものもある。その大半について、ルミナは特に気にしていなかった。
噛まれたくはないが、噛まれるときは噛まれる。
魔獣を診る仕事とは、そういうものだった。
「大丈夫ですよ。少しだけ、翼を見せてくださいね」
もちろん、言葉の意味そのものが通じているわけではない。
けれど多くの魔獣は人間の声色や仕草から感情を読み取る。少なくとも、目の前の相手が自分へ敵意を向けているかどうかくらいは分かるのだ。
飛竜はしばらく喉の奥で唸っていたが、やがて恐る恐る鼻先を伸ばし、ルミナの指先の匂いを嗅いだ。
「そう。いい子ですね」
声をかけながら、ほんの少しずつ距離を縮めていく。
逃げようとしないことを確認してから顎の下へ指を滑らせると、強張っていた身体からわずかに力が抜けた。
「リネット」
「はい」
助手のリネット・ハーシェルがすぐに動く。ハーフアップにまとめられた明るい亜麻色の髪がふわりと揺れた。
「鎮静香、弱い方を二滴」
「分かりました」
リネットは薬を染み込ませた布を、飛竜から少し離れた場所へ置く。ほのかな香りが室内へ広がるにつれ、飛竜の呼吸も徐々に落ち着いていった。
魔獣医学は、難しい。
同じ翼を持つ生き物でも、竜と飛竜では骨格が違う。臓器の位置も違う。普通の動物に効く薬が魔獣にはまるで効かなかったり、ひどい場合には体内の魔力と反応して毒に変わったりする。
そんなものを最初に発見した人は、さぞ嫌な思いをしたことだろう。
そのおかげで後世の医師は「これは使ってはいけない」と知ることができるのだから、医学というものは先人の失敗にも大いに支えられている。
王国内で正式に魔獣専門医を名乗れる者はわずか数十人。その中でも大型竜まで本格的に診られる医師となれば、両手で数えられる程度しかいない。
若い女性医師のルミナはその数少ないうちの一人だった。
飛竜の翼を慎重に診察したあと、ルミナはいつも通り淡々と告げた。
「筋を痛めていますね。薬を塗って安静にしていれば、二週間ほどで元通りになりますよ」
「本当ですか!」
青年の顔がぱっと明るくなる。
「ただし、その間は絶対に飛ばさないでください」
すると診察台の飛竜が、不満そうに喉を鳴らした。
ルミナはそちらへ視線を向ける。
「あなたもですよ」
くるる、と返事のような声がした。
リネットが思わず吹き出す。
「本人はかなり不服そうですね」
「二週間飛べないのと、一生飛べなくなるのなら、二週間の方がいいでしょう」
「くるるる」
「文句を言っても駄目です」
青年まで笑い、診察室の空気がふっと和らぐ。
ルミナは処方薬について説明しながら、もう一度だけ飛竜の右翼を見た。
大丈夫。
これは治る。
そう確信できる患者を送り出せることは、医師にとっても誇らしい瞬間だった。
◇
その日の午後。
診療が一段落して、ようやくリネットが「お茶にしませんか」と言い出した、その直後だった。
――ドンッ!
轟音が響いた。
建物そのものが震え、棚に並んだ薬瓶がかたかたと音を立てる。
「きゃっ……!」
リネットが棚を押さえ、ルミナは反射的に窓を見た。
「何……?」
遠くで、何か大きなものが地面へ落ちた。
次いで馬の嘶き、人々の叫び声。
そして――。
『――――ッ!!』
続いて聞こえたのは、腹の底にまで響くような竜の咆哮だった。
ルミナの表情が変わる。
「……大型竜?」
ほどなくして扉が勢いよく開いた。
「こちらに魔獣専門医がいると聞きました!」
飛び込んできたのは青と金の隊服を纏った若い騎士だった。
「私です」
「大型竜を診れる方は?!」
「私が診れます」
即答したルミナを見て、騎士――トーマは一瞬だけ目を見開いた。でもそれは一瞬のこと、
「来てください!」
トーマの顔からすぐに驚きが消える。
「仲間の竜が……死にかけています!」
今度は、ルミナからも一切の余計な思考が消えた。
◇◇◇
西の草原では第一竜騎隊が魔物の討伐任務に当たっていた。
魔獣と魔物。似た言葉ではあるが、その意味はまったく異なる。
魔獣とは、魔力を宿す生物の総称だ。竜や飛竜、幻獣。気性の荒い種もいるが、どれも生き物としての習性と意思を持つ。人と共に暮らすものもいれば、契約を結び、相棒となるものもいる。
一方の魔物は、瘴気や魔力異常などの影響で理性を失い、異常な攻撃性を示す存在を指した。人も獣も魔獣も見境なく襲うため、竜騎士団が討伐対象とするのは主にこちらだ。
その日街道沿いに現れた魔物は特に凶暴で、群れで襲ってきていた。
見習い竜騎士の愛竜が後脚を負傷し、高度を上げられなくなったところへ、そのうちの一頭――ひときわ大きな魔物が襲いかかった。
その間へ迷わず飛び込んだのが、青みを帯びた濃い銀灰色の大型竜ヴァルド。竜騎士団随一の実力を持つ若き竜騎士、ゼイン・アルヴァレスの相棒だった。
魔物の鋭い爪が振り下ろされる。
ヴァルドの右翼から脇腹までを、一息に切り裂いた。
巨大な鱗が弾け、空へ鮮血が散った。
それでもヴァルドは墜落だけは免れたが、それは着地と呼べるものではなかった。銀灰色の巨体が草地へ倒れ込み、そのまま地面を滑る。
轟音とともに土煙が上がった。
「ヴァルド!」
ゼインは振り落とされる寸前で身を捻り、自ら地面へ飛び降りる。勢いのまま数歩よろめきながらも、すぐさまヴァルドのもとへ駆け寄った。
荒い呼吸。
力なく地面へ落ちた右翼。
肩口から脇腹にかけて刻まれた、あまりにも大きな裂傷。
鱗の下から、血が止めどなく流れ続けている。
「くそ……!」
銀灰色の巨体の傍らで、ゼインは自分の両手が血に染まることも構わず必死に傷口を押さえていた。だが人間の両手で塞げるような傷ではない。
「王城まで運ぶ!」
焦る声で顔を上げたゼインに、別の竜騎士が即座に首を振る。
「無理です。この状態で飛ばせば、王城へ着く前に失血します。着いたとしても、エドガー先生は北方遠征です」
よりによって、王城付きの魔獣医エドガー・ヴェルナーは不在だった。まして、大型竜を診れる医師は国内でも数名ほどしかいない。
「じゃあどうすれば」
焦りが広がる中、トーマが不意に顔を上げる。
「待ってください。この近くに、魔獣専門の診療所があったはずです」
「大型竜を診られるのか?」
「確か……最近、大型竜の診療資格を取った医師がいると聞きました」
ゼインは即座に言った。
「頼む。連れてきてくれ!」
「はい!」
トーマが自身の竜と飛び立ち、十数分後にはルミナが草原へ到着した。
普通なら竜の大きさを前にしただけで足が竦む者もいる。しかし彼女はヴァルドの巨体を目の前にしても少しも怯まなかった。
血まみれの竜の傍らにいた男が顔を上げる。
アッシュグレーの髪に灰色の瞳。その青と金の隊服も手も血と泥に汚れている。
ゼインは一瞬、ルミナを見つめた。
「あなたが?」
「はい。ルミナ・フェルメールです」
「大型竜を診られる?」
「診られます」
迷いなく応えた。
その時点で、ルミナの視線はもうゼインから離れている。
見ているのは、血に濡れた竜だけだ。
「待て。急に近づかない方がいい。痛みで暴れるかもしれない」
ゼインが声をかけるが、足を止めなかった。
「暴れません」
「……分かるのか?」
「少なくとも今は、私に危害を加えようとしているようには見えません」
ルミナは巨大な竜の瞳を見つめながらゆっくりと腰を落とす。
苦痛。警戒。疲労。
それでもまだ、理性はある。
何よりこの竜は傷ついてなお、傍らの男を気にしていた。
相棒なのだろう。
それなら。
「痛いんですね」
呼びかける声は静かだった。
「大丈夫です。診せてください」
一刻を争う状態だった。だからこそ、急には触らない。まず銀灰色の竜自身に、自分を受け入れさせる。
ヴァルドが苦しげな息を吐きながらルミナを見る。
やがて、その瞳からほんのわずかに警戒が薄れた。
その瞬間を見て取って、ルミナは首筋へ手を添えた。
熱い。
傷も深く、出血も多い。
けれど肺までは達していない。
まだ、間に合う。
「助かるのか」
背後からゼインの声がした。
低く抑えられているが、わずかに震えている。
ルミナは振り返り初めて真正面から彼の顔を見た。
この男は怖がっている。竜が暴れるのが怖いのではない。相棒を失うことが、怖いのだ。
だからこそ、無責任に「大丈夫です」とは言えなかった。
「まだ死んでいません」
ゼインの灰色の瞳が揺れた。
「……助けられるのか」
ルミナは救急用の止血剤を手に取った。
「助けられるか、ではありません」
そして、迷いなく告げる。
「助けるために、私がいるんです」
一瞬ゼインは何も言わなかった。
ただ、ルミナを見る。目の前の若い医師が虚勢を張っているのか、それとも本当にそう信じているのかを確かめるように。
やがて彼は短く頷いた。
「……分かった。俺は何ができる?」
その返答にルミナもわずかに印象を改めた。
飼い主や騎手が取り乱すと、患者も大抵取り乱す。
だがこの人は動揺していても必要なことを聞ける。少なくとも、治療の邪魔になる人ではなさそうだ。
「竜の頭側にいてください。押さえつけなくて大丈夫です。あなたの声が聞こえていた方が、安心すると思います」
「ああ」
ゼインはすぐにヴァルドの首元へ手を添えた。
「ヴァルド、大丈夫だ。ここにいる」
先ほどまでの険しい声とは違う。驚くほど穏やかで、優しい声だった。
ルミナはほんの一瞬だけその横顔を見たが、すぐに意識を患者へ戻した。
そこから先は、時間との勝負だ。
傷は想像以上に深かった。
翼の付け根を走る太い血管のすぐそばまで、魔獣の爪が達している。
あと少し深ければ。あるいは、傷の位置が数寸ずれていれば。
ここへ来るまで命が保っていたかどうかも分からない。
考えるのはやめた。
まずは止血。傷を洗浄し、裂けた組織の状態を確かめる。
翼の付け根には太い血管と魔力の通り道が集中している。傷を塞ぐことだけを優先すれば、今度は魔力循環を阻害し、たとえ命が助かっても二度と飛べなくなる可能性があった。
「リネット、止血剤を。そちらの騎士の方は灯りをもう少しこちらへ」
「はい!」
「ゼインさん、竜に声をかけ続けてください。意識をこちらへ向けさせないで」
「分かった」
迷っている時間はない。けれど、急ぐことと雑に扱うことは違う。
命を繋ぎ、その先にある翼まで残す。
ルミナは目の前の傷だけに意識を集中させる。
その治療は、数時間にも及んだ。
最後の処置を終えルミナはようやく息を吐く。
失った血は多く、予断を許す状態ではない。それでも呼吸は安定し、弱っていた魔力の流れも少しずつ戻り始めている。
ヴァルドは、生き延びた。




