伊藤君の家事放棄
東京の最も南のエリアに大田区がある
大田区の中で最も大きな街が蒲田だ
新編武蔵風土記によると、かつて蒲田は梅の木村と呼ばれ、梅の名所だった
江戸時代には歌川広重が蒲田の梅を描いていて、蒲田梅屋敷と呼ばれたらしい
現在でも蒲田の属する大田区の「区の花」は梅である。
JR蒲田駅より東急池上線の蓮沼駅の方が近い場所にそのアパートは建っていた
年季の入った木造モルタルの2階建て
ひび割れ模様の広がった外壁
歩くとギシギシときしんだ音がする渡り廊下
風呂なし共同トイレで部屋は6畳一間 そのアパートの名前は「泉荘」
泉荘で共同生活をしていた伊藤君の話をしよう
伊藤君は泉荘の実質のオーナー(借主)だ
泉荘には彼の人望で多くの寂しい同郷の人間が集まって来ていた
伊藤君は僕らが育った長崎の島にある高校の校舎が建っている場所のすぐ近くの漁港に住んでいた
昔は満潮時、高校から制服を頭に縛り付け泳いで帰宅する人もいたらしい
伊藤君の実家は海産物の製造卸を生業としていた
歳の離れたお兄さんとお姉さんがいるためか
伊藤君は子供の頃から少し大人びたところがあった
小学校の時は同級生から「さん」付けで呼ばれていた
伊藤君の家は複雑な作りをしていて伊藤君の部屋には
玄関を通らずに忍び込むことができた
当然のように伊藤君の部屋はみんなの溜まり場になっていた
人が集まってくる人徳が元々彼にはあったように思う
高校2年生の夏、伊藤君から
「今日ジンギスカンばするけんこんや?」
と誘われた
「ジンギスカン(成吉思汗)?」
僕はジンギスカンという料理を知らなかった
伊藤君の作ってくれたジンギスカンは羊肉より人参の方が多かったが
世の中にはこんなうまいもんもあるんだなと感動した
何故、蒲田に伊藤君が住むようになったかというと
伊藤君が蒲田にある工学系の専門学校に通うためだった
伊藤君は飛行機が好きでその専門の勉強をしていた
「ちょっと羽田に飛行機ば見に行くけん!」
そう言い残してぷらっとと出かけて行くくらい飛行機が好きだった
ある時、トランシーバーのお化けのようなものを秋葉原で買ってきて
「これ何かわかるや?すごかぞこれは」
自慢げに伊藤君が言う
「わかった、盗聴器やろ!」
佐藤君が答える
「違う!これはな、空を飛ぶ飛行機の中のパイロットの会話ば聞けるとばい!」
と言って
上空を飛行機が通過するたびに
佐藤君も僕も伊藤君に外に連れ出されて
「聞こえるやろ?聞こえるやろ?」
と佐藤君と僕の耳にそのトランシーバーのお化けみたいなものを押し付けた
佐藤君も僕も伊藤君の興奮ぶりが今一つ理解できなかったが
「すごさ~すごさ~」
とりあえず驚いたふりをして泉荘に戻っていった
ある日の事
朝から伊藤君の様子がおかしい
その日は朝から雨模様で
泉荘の部屋の中で佐藤君は受験勉強を僕は漫画を読みふけり
伊藤君はトランシーバーみたいなものをいじっていた
佐藤君や僕が伊藤君に話しかけても「うー」とか「あー」とか言うだけで
ちゃんと返事をしてくれない
外も暗くなり始めそろそろお腹が鳴る頃
「今日は飯は炊かんと?」
佐藤君が伊藤君に聞く
「・・・・・・・・・」
伊藤君は返事をしない
「伊藤君今日はおかず何?」
僕が伊藤君に聞く
「・・・・・・・・・」
伊藤君は答えない
すると突然伊藤君が僕らに背中を向け肘枕で
「もう!俺はな~んもせん!な~んもせんぞ!おれは!」
と少し怒ったような口調で言った
佐藤君が驚いたような顔をして僕の近くにすり寄ってきた
「伊藤君は晩御飯作る気なかばい、どうする?」
「今日は僕たちで作るしかなかばいね」
「何か料理できるや?」
「包丁握ったこともなか!佐藤君は何か作れるや?」
「カレーなら作れるかもしれん」
「そしたら、今日は二人でカレーば作ろうや」
それから佐藤君と二人で近くのスーパーへ行って
カレーの食材を買い揃え泉荘に戻り
カレーを作り始めた
佐藤君も僕もぶきっちょな手でじゃがいもを向き
玉ねぎをきざみ数時間後にカレーらしきものが完成した
炊き立てのご飯にカレーをかけ
「伊藤君できたばい」
まだ不機嫌だった伊藤君だったが僕らと一緒に
カレーを食べてくれた
みんなが食べ終わった後3人で話合いをし
これからは当番制で食事を作ろうということになった
今までは、食材の買い出しと準備(伊藤君の実家から送られてきた海産物)
食事の支度、後片付けから、皿洗いまで全部
伊藤君一人に任せていたのだ
食べ終わっても佐藤君も僕も高楊枝だった
伊藤君が怒るのも無理はないと佐藤君も僕もしおらしく反省した
これからは当番制でみんなで交代で食事ば作ろうや
ということになったのだが
佐藤君と僕のカレーの出来にがっかりした伊藤君からの提案で
食事の準備と後片付けを佐藤君と僕で
交代でやることになり
食事を作るのは全て伊藤君ということになった
伊藤君が台所に立っている時
「佐藤君、料理のへたくそで良かったね」
そっと僕が言った
「ばかたれ、わざとたい」
佐藤君が答えたが
じゃがいもを剥くときに3か所も指を切って
バンドエイドをしている佐藤君の指を僕は
笑いながら眺めていた
お読みいただきありがとうございました。




