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4. 返品屋、開業します

「あんた、それ商売になるよ」


 翌朝、卵を焼きながら、マルタさんが妙に真剣な顔で言った。


「押し付けられた借金。言いがかりの請求。呪いだの脅しだの、義理の親戚の無心だの。この下町にはね、泣き寝入りが石畳の数ほど転がってるんだ」


「なるほど。需要がある、と」


 私は手帳を開いて、考えた。


 マルタさんの帳簿仕事は、いずれ終わる。無一文は脱したが、この世界で「定時に上がって、温かい夕飯を食べる」暮らしを続けるには、安定した収入がいる。幸い、私には他人にない特技が一つだけある。聞いたこともない特技が。


 その日の午後、灯火亭の軒先に、小さな板の看板が下がった。釘を打つ音が、昼下がりの路地に小気味よく響く。自分の店。前の世界では、ついに持たなかったものだ。手のひらが少し汗ばんでいたのは、陽気のせいということにしておく。


『返品したい物 何でも承ります 聖なる力で確実に返品!(朝九時~夕五時/昼休憩あり)』


 文字は私、板と釘はマルタさん、『聖なる力で』の一文はマルタさんの営業判断である。私は最後まで抵抗したが、「嘘じゃないだろ」で押し切られた。……嘘では、ない。たぶん。


「へんぴんや? 聞いたことねえなあ」と、向かいの屋台のおじさん。


「いらないものを、送り主さんにお返しする店です」


「そりゃ便利だ。うちのかかあも返品できるかい?」


「ご結婚は、双方合意の契約ですので」


「ちぇっ」


 開店初日の客は、ゼロだった。二日目も、ゼロ。世の中、そういうものである。私は空いた時間で台帳を作り、料金の下書きを壁に貼った。


 二日目の夕方。暇で仕方なかったのではあったが、定時上がりの祝いに、市場の屋台で焼き菓子を買った。夕焼けが屋根の向こうで蜂蜜色に溶けて、鉄板からは甘い匂いが流れてくる。バターと蜂蜜の素朴なやつ。一枚で銅貨三枚。しみじみ、おいしい。隣で、黒衣の誰かが同じものを袋いっぱいに買い込んでいたけれど、おいしいものは正義なので、分かる、と思った。


 三日目の閉店間際――。店じまいをしていると、軒先に、すっと人影が立った。


 長身の男の人である。銀灰色の髪に、黒い革の手袋。仕立てのいい濃紺の上着。夕暮れの残り火がその髪をほんのり赤く染めているのに、体温というものがまるで感じられない立ち姿だった。表情は、顔のどこにも見当たらない。男の人は看板と、壁の料金表を、じっと眺めて、それから私を見た。


「――この返品屋、君か」


「どちら様ですか?」


 半開きの私の目をじっと見つめ――――。


「……また来る」


 それだけ言って、去っていった。名乗らない客は困る。台帳に書けない。


 翌朝――。店を開けると、扉の前に、身なりのいい白髪の執事さんが直立不動で立っていた。


「返品屋殿とお見受けいたします。聖なる力を使えるとか――、折り入って、ご依頼がございます」


「いらっしゃいませ、どうぞおかけください……」


 初めてのお客様。『聖なる力』のキャッチコピーが効いたようだ。マルタさんありがとう!


 執事さんはヨーゼフさんといった。ハルトマン伯爵家に四十年お仕えしているそうだ。背筋は定規のようで、言葉は絹のようで、目の下の隈は墨のようだった。


「当家のお嬢様――クラリッサ様は、バルド子爵家のご令息と婚約しておられました。家同士が三年をかけて調えた、正式な婚約でございます」


「はい」


「ですが先月、ご令息は夜会の席で『真実の愛を見つけた』と宣言なさり、一方的に解消を申し入れてこられました」


「はあ。真実の愛……」


 この世界でも、それは婚約破棄の定番の口上らしい。便利な言葉だ。


「お嬢様は、それは静かに……受け入れられました。ところが、です。数日後、子爵家から『婚約に要した費用』として、違約金・金貨五十枚の請求書がお嬢様宛に届いたのでございます」


 出た。理不尽。


 静かに受け入れた、というところで少しだけ声が震えたのを聞き逃さなかった。抗議しないのは、平気だからではない。貴族に抗議しても無駄だと知っている人の、受け入れ方である。


 私は、ヨーゼフさんが携えてきた婚約契約書の写しを検分した。羊皮紙に、双方の家の署名と封蝋。条項は二十四条まである。あった。第十二条。


『解消ヲ申シ入レタル側ハ、相手方ニ違約金ヲ負担スルモノトス』


 明記されている。申し入れたのは令息側。なのに、請求書はお嬢様宛。しかも「要した費用」という書き方で、違約金の顔をして届いている。


「押し付けの要件を満たします。お受けします」


 着手金、銀貨五枚。それに急いで取りに行ってもらったクラリッサ様の署名入り委任状をいただく。代理返品には、ご本人の「受け取らない」という意思が要るのだ。私のスキルは、そのあたりの手続きにうるさい。


 請求書の決裁印は、バルド令息本人の署名だった。荷札が、くっきりと浮かぶ。


「では。――これは、受け取りません」


 ぽん。【差戻】。請求書は光の粒になり、窓の外へ吸われて消えた。


 ――着弾の報せが届くのは、三日後のことである。


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