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3. 呪いは書いた人へ

「マルタさん。この帳簿、ひどいです」


「あんた恩人に向かってひどいって言ったね!?」


 マルタさんは痛いところを突かれ、顔をしかめて叫ぶ。


「先月の仕入れが二重に付いてます。樽三つ分。あと三年前から、宿代の計算をずっと間違えてます。安すぎる方に」


「そ、そういうこともあるかも……しれないわね……あんた、それ全部直せるのかい?」


「直します。代わりに当面の宿代と食事代で相殺というのはいかがですか?」


 マルタさんは腕を組み、私と帳簿を三往復ほど見比べた。


「そ、そんなのでやってくれるのかい? 働き者だねえ」


「いえ、等価交換です」


 事務作業は私の存在意義そのもの。それで人の役に立てるなら社畜冥利に尽きると言うもの。


 こうして私は、寝床と、温かい夕飯を確保した。悪くない滑り出しだと思う。


 そう思っていた矢先――――。


 夕方、買い出しから戻ると、マルタさんが私の部屋の前で真っ青になって立っていた。


 夕日の差す廊下で、その扉の前だけ、空気が一段冷えている。


 扉に、黒い札が貼られていたのだ。墨で、みみずがのたくったような呪文がびっしり書き込まれている。見ているだけで、うっすら肌が粟立つ類のものだ。どうやらこの部屋を使う者に呪いがかかるように仕組まれているらしい。


 上から布をかぶせた隠ぺい工作がされていたらしいのだが、マルタさんがたまたま不審に思ってはがしたらこれが出て来たとのことだった。


 マルタさんの大きな肩が、小さく震えていた。この人は、自分の宿のためではなく、私のために青くなってくれている。――呪いよりも先に、そちらの方が胸に刺さった。


 札の端に、例の荷札が見える。差出人の欄には、こうあった。


『良き隣人より』


 ……ふうん。偽名ですか。何らかの身元の隠ぺいの術式がかかっているようだ。面倒くさい。


「誰の仕業か分かれば返せます」


「あんた、呪いの札を前に落ち着きすぎだよ!」


 マルタさんは厚く温かい手で私の手を握り締めた。


 どんな呪いか分からないが、呪いそのものより偽名の方が問題だった。荷札が偽名だと、私の【返品】は宛先を見失って発動しない。試しに「受け取りません」と言ってみたが、朱印は浮かばなかった。規定は規定らしい。融通が利かないところも、趣味が合う。


 つまり――送り主を、こちらで特定すればいい。


 まず、封蝋。札に押された蝋は、市販品の茶色ではなく、脂っぽい乳白色だった。マルタさんに見せると、眉間に皺が寄る。


「こりゃ教会のお触れと同じ蝋だね。ほら、広場の掲示板の」


 広場までは、歩いて五分。鐘楼の影が石畳に長く伸びて、水盤の縁では鳩が羽を繕っている。市場の呼び声、焼き栗の煙、駆けていく子どもの笑い声。この街は、王宮内よりずっと真面目に生きている、と思う。


 掲示板の封蝋は、札のものと同じだった。神殿の官給品である。


 次に、筆跡。呪文の字面は不気味だが、よく見ると、跳ねと払いが妙に行儀いい。毎日祈祷文を書き写している人間の、写経の癖だ。伝票の筆跡照合なら、九年やった。


「結論。神殿の人です。それも、私がこの宿にいると知っている人」


「あんた、神殿に恨まれるようなことしたのかい?」


「就職を断りました」


「重いんだか軽いんだか分かんないね!?」


 仕上げは、聞き込みだった。夜の灯火亭は、油ランプの色をしている。煮込みの湯気と麦酒の匂い、日焼けした笑い声。私は隅の席で宿の帳簿を付けながら、その騒がしさを半分だけ聞いていた。輪の中には入らない。それでも、輪の端というのは、存外あたたかい場所である。


 マルタさんが酒杯を配りながらそれとなく水を向けると、荷運びのおじさんが手を挙げた。


「そういや、ここ数日、宿の周りをうろちょろしてる若い神官がいたぜ。生っちろい顔の。ピムとか呼ばれてたな」


「路地の角で祈るふりして、こっちを見てんのさ。祈りにしちゃ目つきが悪いと思ったよ」と、八百屋のおかみさん。


 下町の目は、王宮の間諜より優秀だと思う。酒場の喧騒の向こうから、マルタさんがニヤリと目配せをよこした。ここの人たちは、詮索はしないくせに、助けるのだけは早い。


 ピム。下級神官。おおかた、逃げた聖女の監視係というところだろう。


 荷札を見つめて、その名を重ねる。隠ぺいの術式に緩みが生じ、偽名の墨がすうっと薄れ、下から本当の宛名が透けて浮かんだ。『ピム』照合、完了。


「これは、受け取りません」


 ぽん。【差戻】。札は光の粒になって消えた。


 ――その夜、神殿の医務室に、全身に見事な蕁麻疹(じんましん)の出た下級神官が担ぎ込まれたそうだ。本人は「なぜだ、なぜ私が私の呪いに」とうわ言を繰り返していたという。


 知らない。自分で書いたものは、自分で受け取ってほしい。


 ――翌朝。マルタさんが、とんでもないことを言い出すことになる。

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