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2. 差し戻しの朝

「あんた、生きてるのかい!」


 生きていたので、私は顔を上げた。


 ランタンを掲げた恰幅のいいおばさんが、雨の路地に仁王立ちしている。歳の頃は四十半ば、声は雷、眉は太い。揺れる灯りが、彼女の影を石畳に大きく躍らせていた。


「こんなとこで座り込んで! 行き倒れなら余所でやっとくれ、うちの宿の前で死なれちゃ寝覚めが悪いんだよ!」


「すみません。死ぬ予定は、当面ないのですが」


「訳ありかい?」


「訳だけあります。お金がありません」


「はっきり言うわねぇ!」


 おばさんは私の首根っこを掴むと、乱暴に見えて存外優しい手つきで、暖かい建物の中に放り込んだ。宿屋『灯火亭』。彼女はその女将、マルタさんといった。


 店の中は、外とは別の世界である。暖炉の火が壁の銅鍋を橙色に照らし、油と香草と古い木の匂いがする。冷え切った肩に、その空気がふわりと重なった。


 出てきたのは、湯気の立つ雑炊である。刻んだ根菜と、ほぐした鶏肉と、粗く挽いた麦。


 息を吹いて、ひとさじ。喉から胃へ、温かさがゆっくり落ちていく。


 一口すすって、私は少し驚いた。この世界に来て、初めて温かいものを口にしたのだ。じんわりと、指先まで熱が届く。目の奥まで、少しだけ熱くなった。空腹のせいだと思うことにする。


 ……なんだ。この世界にも、温かい夕飯はちゃんとあるじゃないか。温かみがないのは王宮と神殿だけだった。


「ゆっくりお食べ。話はそれからだよ」


 マルタさんは向かいに腰を下ろし、私が椀を空にするまで、本当に何も聞かなかった。聞かれたのは、器を下げる時にひとことだけ。


「あんた、名前は?」


「リカです。佐伯リカ」


「妙な響きだね。ま、うちは名前で客を選ばないけどねっ! はっはっは!」


       ◇


 翌朝――――。


 私は宿の食堂の隅で、例の請求書を検分していた。(かまど)の火が爆ぜ、パンの焼ける匂いが漂ってくる朝である。


 発行元、王宮財務局出納第三課。内訳、召喚の儀式費に金貨百八十枚。聖具使用料に金貨六十枚。法衣代に金貨二十枚。歓迎の会食費に金貨四十枚。


 着ていない法衣と、出ていない会食の代金が計上されている。追い出されるときにちらりと見た宴席、あれがこの会食だったのか? 金貨四十枚。自分史上最高額の会食だと思う。食べてはいないが。


 そして決裁印、『ドーレン』。あの、宿を斡旋したふりをして消えた文官さんの名前だ。


 目を凝らすと、請求書の端に、荷札のようなものがうっすら見えた。宛名と差出人の書かれた、小さな光る札。たぶん、私にしか見えていない。昨日からずっとそうだ。


「これは、受け取りません」


 宣言すると、紙の上に朱色の印が、ぽん、と浮かんだ。


 ――【差戻】。


 荷札がくるりとひるがえり、請求書は淡い光の粒になって消えた。


 どうやら私は、一方的に押し付けられたものを、送り主に返せるらしい。昨日の紋章もこれだ。神様の特典だとしたら、ずいぶん事務的な特典をくれたものだと思う。文句はない。むしろ趣味が合う。


 念のため、手元の宿代の勘定書きでも試してみた。「これは、受け取りません」――何も起きない。朱印は浮かばず、荷札も出ない。


 なるほど。雑炊と寝床の対価は、正当な取引。押し付けられた理不尽だけが、返品の対象ということか。


 手帳に書いておく。『返せるのは、押し付けのみ。まっとうな貸し借りは、返せない』。……本当に、趣味が合う。


       ◇


 同じ頃、王宮財務局出納第三課――――。


 文官ドーレンの机の上に、一枚の請求書が音もなく現れた。


『聖女召喚に係る諸経費請求書 一式 金貨三百枚也 宛名:ドーレン様』


「な……なんだこれは!? 誰の悪戯だ!」


 悪戯にしては、紙も印も本物である。騒ぎを聞きつけた上官が請求書を検め、静かに言った。


「決裁印は貴様のものだな、ドーレン。会計規定第三十八条――『不当な支出と認められた債務は、決裁者の俸給より補填する』」


「お、お待ちください! それは聖女に――」


「ときにドーレン。貴様、聖女殿の宿の斡旋費も精算しておったな。宿はどこだ」


「……」


 斡旋された宿は、王都のどこにも存在しない。ドーレンは俸給天引きの上、査問行きとなった。ざまぁ。


 そして数日後。王室監査院の若い記録係が、財務局の帳簿を前に首をかしげることになる。


「差し戻し……? 支払義務が、決裁者に、移った……? こんな仕訳、見たことありません」


 その報告書に、銀灰色の髪の男が目を留めるのだが――それは、もう少し先の話。

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