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1. じゃあ、やらないです

「そなたこそ、神託の聖女である!」


 白と金の法衣を着た老人が、両手を広げて高らかに宣言した。


 ここは、大聖堂のような広間である。天井は見上げるほど高く、ステンドグラスから七色の光が降り、左右には神官らしき人たちがずらりとひざまずいている。空気には香の匂い。足元には、まだ青白く光る魔法陣。


 大理石の冷たさが、靴底越しに這い上がってくる。香の煙は蜂蜜色の光の中をゆっくりと昇り、天井画の神様がこちらを見下ろしていた。綺麗だ、とは思う。思っただけで、心は動かない。残業明けの頭は、感動より先に、状況の整理を要求してくるのだ。


 三十分前まで、私は会社にいた――。


 月末の経費精算を終えて、備品の発注を片付けて、頼まれてもいない他部署の伝票の山を「ついでだから」と処理して、終電を逃した。いつものことだ。いつものように夜のオフィスビルを出て、いつものようにコンビニの灯りを目指して――玄関の床が、光った。


 帰り道の予定は、コンビニの肉まんひとつ。ささやかな予定ほど、壊れると妙に尾を引く。


 それで、これである。


 佐伯リカ、二十七歳。職業、事務員。誇れるものは、九年間無遅刻無欠勤と、電卓の早打ちくらい。


「状況を整理させてください」


 私は鞄から手帳を取り出した。こういう時のために、手帳は常に持ち歩いている。どういう時なのかは、私にも分からないが。


「まず、こちらは業務命令でしょうか?」


「ぎょ……なに?」


「聖女というのは職名ですか? 所属はどちらになりますか? 雇用契約書はございますか?」


「け、契約……? そなたは神に選ばれたのだぞ!」


「では神様が使用者ですね。給与規定はどうなっていますか?」


 老人――大神官ゲオルク様というらしい――は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたあと、慈愛の笑みを浮かべた。


「よいか、聖女殿。聖女の御業は尊き奉仕。俸給などという穢れた勘定は、そもそも存在せぬのだ」


「無給、と」


 手帳に書く。


「お休みは?」


「聖女に休日などあろうはずもない。祈りに終わりはないゆえ」


「無休……、と。宿舎は?」


「祈りの塔にて、他の巫女らと共同の――」


「相部屋、と。お食事は?」


「質素を旨とし、冷めたるスープを一日二椀」


 私は思わず天を仰ぎ――。


 死んだ魚のような目になって続けた。


「試用期間は?」


「死ぬまでである」


「ちなみに、前任の聖女様は今どちらに?」


「五年前、天に召された」


「それは労災では?」


「ろう、さい……?」


 私は手帳を閉じた。整理は、以上である。無給、無休、相部屋、冷めたスープ、定年は死。前の会社よりひどい。前の会社は、少なくとも給料は出た。


「じゃあ、やらないです」


 広間が、しん、となった。


「な……なんと罰当たりな! 良いか、これは神の思し召し、決定事項である!」


 ゲオルクは懐から金色の円盤状の印章を取り出した。聖女の紋章、というらしい。あれを額に押されると、正式に聖女として「登録」されるのだそうだ。承諾した覚えのない登録である。


 円盤が、私の額に近づく。


 ぱしん、と乾いた音がした。


 紋章が光をまとって跳ね返り、吸い込まれるように、ゲオルクの額のど真ん中に貼りついたのだ。金色の円盤の中心で、朱色の印がぽんと灯る。


 ――【差戻】。


 読める。なぜか、そう読める。え、何それ。私がやったの?


「と……取れぬ。取れぬぞ!? 誰か、誰か剥がさぬか!」


 神官たちが群がって印章を引っ張ったが、微動だにしなかった。額に金の印章を貼りつけた大神官様というのは、控えめに言って、ありがたみのない眺めである。


「ふ、不敬である! つまみ出せ!」


 こうして私は、召喚されて半刻で城を追い出された。手続きの早さだけは評価したい。


       ◇


「宿はこの先だ。案内はここまで。感謝するがいい、この俺が斡旋(あっせん)してやったのだからな」


 城門で私を引き渡された文官さんは、路地の入口でそう言い残し、外套を翻して足早に戻っていく。ドーレン様、という名前らしい。


 この先に、宿なんてなかった。あるのは行き止まりの石壁と、降り出した雨だけである。


 無一文。身分証なし。知り合いゼロ。言葉だけは通じる。あと、雨。


 私はパン屋の軒先を借りて、ぼんやりと濡れた石畳を眺めた。雨粒が石の窪みに波紋を作っては、次の雨粒に消されていく。通りの窓にはひとつ、またひとつと夕餉の灯りがともり、笑い声と匙の音が漏れていた。世界は今日も、ちゃんと回っている。私を置いて。


 不思議と、怒りは湧いてこない。理不尽というものは、限度を超えると感情ではなく事務になる。九年の社会人生活で学んだことだ。


 ただ、指先だけが冷たい。冷たさというものは他人事にならずに、まっすぐ体の芯へ沁みてくる。そして――お腹は、空いた。温かい夕飯が、遠い。


 ふと、ポケットに紙が入っていることに気づいた。つまみ出される時に、誰かが手際よくねじ込んでいったものだ。


 広げてみる。上等な紙に、丁寧な飾り文字で、こう書いてあった。


『聖女召喚に係る諸経費請求書 一式 金貨三百枚也 宛名:佐伯リカ様』


「……」


 私の召喚費用を、私に、請求?


 乾いた笑いが、ひとつだけ漏れた。雨は、まだ止みそうにない。


 雨音の中、私は請求書を三回読み直した。三回読んでも、そう書いてある――。




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