第3品「旅立ちの靴」
その朝は、珍しく起きるのが少し辛かった。
目を開ける。
窓の外は薄曇りだった。
朝だというのに、空はどこか重たい色をしている。
フィリアは布団の中で小さく寝返りを打った。
「……もう少しだけ」
そう呟いてみる。
もちろん誰も聞いていない。
二階の部屋には自分しかいないのだから。
しばらく天井を見つめていたが、やがて観念したように身体を起こした。
昨日は忙しかった。
朝から客が続き、昼過ぎには誰も来なくなった。
そのあと数時間静かな時間が続いたと思ったら、夕方になってまた立て続けに客が訪れた。
忙しいのか暇なのかよく分からない一日だった。
そんな日は案外疲れる。
フィリアは大きく伸びをする。
背筋が気持ちよく伸びた。
そして両手で自分の頬を軽く叩く。
ぱちんぱちん。
「よし」
声に出して言う。
言葉にすると少しだけ元気が出る気がした。
階段を降りる。
二階が住居、一階が店。
スカーレット・アイテムショップは、フィリアの家でもあった。
床を掃く。
棚を拭く。
並んだ雑貨を一つひとつ磨く。
気持ちの砂時計。
あなたの天秤。
小箱や栞。
どれも旅先で出会った大切な品ばかりだ。
磨き終えた頃には開店時間になっていた。
扉を開ける。
小さな風が吹き込んだ。
その時になって気付く。
ぽつり。
ぽつり。
雨だった。
「なるほど」
フィリアは空を見上げた。
「今日はこれか」
朝の気だるさの理由が少し分かった気がした。
雨の日は、どうにも身体が重い。
自分だけではない。
きっと街の人たちも同じだろう。
フィリアはそんなことを考えながら営業を始めた。
◇
夕方になった。
雨は上がっていた。
雲の切れ間から差し込む光が、石畳を淡く照らしている。
店内には静かな時間が流れていた。
その時。
扉がゆっくり開いた。
あまりにゆっくりだったので、ベルはほとんど鳴らなかった。
フィリアは顔を上げる。
そこに立っていたのは一人の少女だった。
王都魔法学校の制服。
長いアッシュブロンドの髪。
真面目そうな身なり。
姿勢も良い。
成績優秀そうだな、とフィリアは思った。
けれど、どこか元気がない。
「いらっしゃいませ」
フィリアが声をかける。
少女は軽く会釈した。
「こんにちは……」
その声にも少しだけ力がない。
フィリアは首を傾げた。
「どうしたの?」
思わず聞いていた。
少女は少し驚いた顔をしたあと、苦笑した。
「そんなに分かりますか?」
「少しだけ」
少女は観念したように笑う。
「私、アストリッテ・アイボリーです」
「フィリア・スカーレットです」
互いに名乗り合う。
そしてアストリッテは棚に並ぶ雑貨を眺めながら言った。
「なんだか最近、学校に行くのが少し煩わしくて」
フィリアは黙って続きを待った。
「もちろん行きますよ?」
「うん」
「休んだりしません」
「うん」
「でも朝になると足が重いんです」
アストリッテは肩をすくめる。
「学校で何かあったの?」
「あるというほどではないんです」
そう言って少し考える。
「私、成績は悪くないんです」
「すごいじゃない」
「でも毎回負ける子がいて」
「なるほど」
「先生も、その子とは楽しそうに話すのに、私にはどこか事務的というか……」
「うん」
「でも学校は嫌いじゃないんです」
アストリッテは困ったように笑った。
「ただ毎朝出かけるのが面倒で。それだけなんですけどね」
フィリアは少しだけ笑った。
その気持ちはよく分かる。
今朝の自分もそうだった。
店を開けるのが嫌だったわけではない。
仕事が嫌だったわけでもない。
ただ少しだけ身体が重かった。
それだけだ。
「だから今日は何か可愛いアクセサリーでも買おうかなって思って」
アストリッテは言った。
「気分転換?」
「そんな感じです」
フィリアは棚を見渡す。
そして一つの品を思い出した。
店の奥へ向かう。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、一足の革靴があった。
「それなら、これなんてどうかしら」
アストリッテは瞬きをする。
「靴?」
『旅立ちの靴』
フィリアはそう言った。
編み上げの革靴だった。
派手ではない。
けれど美しい。
冒険者が履いていそうな、どこか格好良い靴だった。
「これを履くと、お出かけが少し楽しみになるの」
「学校はお出かけじゃないですけど」
即答だった。
フィリアは吹き出す。
「そんなことないわ」
「そうですか?」
「そうよ」
フィリアは窓の外を見る。
夕陽が街を照らしていた。
「学校って毎日新しいことを知る場所でしょう?」
「まぁ」
「友達と会う場所でしょう?」
「そうですね」
「それって十分冒険よ」
アストリッテは微妙な顔をした。
「冒険ですかねぇ」
「冒険よ」
フィリアは笑う。
「私は元冒険者だから分かるの。学校も立派な旅よ」
アストリッテは少しだけ考えた。
そして靴を見る。
悪くない。
少し格好いい。
「休日のお出かけにもおすすめよ」
フィリアは続ける。
「それに」
アストリッテを見る。
「スタイルの良いあなたにはよく似合いそう」
アストリッテは一瞬固まった。
そして少しだけ頬を赤くする。
「そ、そうですか?」
「ええ」
「……そうですか」
まんざらでもない。
「じゃあ、それください」
「ありがとうございます」
「あとアクセサリー…」
アストリッテは店内を見回した。
そしてちらりとフィリアを見る。
正確には、その髪に結ばれたリボンを。
フィリアは気付いた。
「あら」
アストリッテは慌てる。
「い、いえ!」
「ふふ」
フィリアは棚から一つの箱を取り出した。
中には深い緑色のリボン。
フィリアの茶色のリボンと同じ形だった。
「これなんてどう?」
アストリッテは目を輝かせた。
「……かわいい」
その声はとても素直だった。
◇
数日後。
店の扉が勢いよく開く。
カラン!
「こんにちは!」
フィリアは思わず笑った。
「いらっしゃい」
そこにはアストリッテがいた。
緑色のリボン。
旅立ちの靴。
どちらもちゃんと身につけている。
「やっぱり似合うわ」
フィリアは嬉しそうに言った。
「本当ですか?」
「ええ」
アストリッテは照れたように笑う。
前回よりずっと表情が明るかった。
「今日はこれから友達とカフェに行くんです」
「いいわね」
「楽しみです」
その言葉を聞いてフィリアは少し驚いた。
楽しみ。
前回のアストリッテなら、そんな言葉は出てこなかったかもしれない。
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
アストリッテは元気よく手を振る。
そして店を飛び出した。
石畳を小走りに駆けていく。
夕陽に照らされた緑のリボンが揺れていた。
フィリアはその背中を見送る。
自然と笑みが浮かぶ。
まるで妹を見送る姉のように。
「気を付けてね」
届かないくらい小さな声でそう呟く。
アストリッテは気付かない。
それでもいい。
いつかまた、あの子はここへ来るだろう。
そんな気がした。
夕暮れの王都。
スカーレット・アイテムショップには今日も静かな時間が流れていた。
ーー次回予告ーー
「起きてたの?」
「寝とらん」
「絶対寝てたでしょ」
「寝とらん」
次回、第4品「寄り道コンパス」
お楽しみに!




