第9品「あの日の遠眼鏡」
よく晴れた休日の午後だった。
王都フォレンティア・ベルクラウンの空は高く、窓から差し込む光は柔らかい。
フィリアは店先の窓から外を眺めていた。
休日の通りはどこか穏やかで、買い物帰りの夫婦や手を繋いだ親子がゆっくりと行き交っている。
そんな光景を見ながら、フィリアはふっと微笑んだ。
「平和ねぇ」
「そうですね」
店の奥から返事が返ってくる。
振り返ると、アストリッテが棚を拭いていた。
いつの間にか完全に馴染んでいる。
客でも店員でもないのに、なぜか自然と店の中にいる。
「アストリッテちゃん」
「はい?」
「あなた、本当に何しに来てるの?」
「遊びにです」
即答だった。
フィリアは思わず笑う。
「そう」
「そうです」
本人は至って真面目だ。
そんなやり取りをしながらアストリッテは棚を拭き続ける。
ふと、一つの品を手に取った。
丸い魔法陣が刻まれた木製の板だった。
「フィリアさん」
「なぁに?」
「これって何ですか?」
フィリアは覗き込む。
「ああ、それね」
少し考えてから答える。
「魔法陣風コースター」
「……」
「……」
「魔法アイテムじゃないんですか?」
「違うわ」
「てっきりジュースがぬるくならないとか」
「それ便利ね」
二人は顔を見合わせて笑った。
その時だった。
カラン。
扉が開く。
二人は同時に入口へ目を向けた。
入って来たのは一人の女性ーーエミリアだった。
四十代半ばほどだろうか。
身なりは整っている。
けれど、どこか疲れているように見えた。
目の下には薄く影がある。
エミリアは店内を見回したあと、小さく会釈した。
「いらっしゃいませ」
フィリアが声をかける。
「あ、どうも……」
エミリアは少し視線を逸らした。
「何かお探しですか?」
思わずアストリッテが口を開く。
「!」
フィリアが振り向く。
「アストリッテちゃん」
「はい」
「それ私のセリフ」
「あ」
アストリッテは慌てて口を押さえた。
「すみません」
エミリアはそんな様子を見ていた。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけだが。
口元が緩んだ気がした。
フィリアは微笑む。
「ごめんなさいね。この子、常連みたいな子で」
「常連みたいな子……」
アストリッテが小さく呟く。
「その通りじゃない」
フィリアは笑った。
エミリアは少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「どんな物をお探しですか?」
改めて尋ねる。
女性はしばらく考えていた。
「特にこれといって……」
そして小さくため息をつく。
「少し気分が晴れるようなものでもあればと思って」
フィリアは頷いた。
「何かあったんですか?」
エミリアは少し眉をひそめる。
「話すほどのことじゃないわ」
「そうですか」
フィリアは無理に聞こうとしなかった。
それでもしばらく沈黙が続いた後。
エミリアはぽつりと話し始めた。
「この頃ね」
窓の外を見る。
「いいことがないのよ」
フィリアは黙って聞く。
アストリッテもいつの間にか席に戻り、静かにティーカップを持っていた。
「夫ともなんだか噛み合わないし、子供も大きくなって、あまり話さなくなったし。近所付き合いも面倒で」
エミリアは苦笑した。
「何もかもが面白くないの」
フィリアは何も言わない。
ただ頷きながら聞いている。
「そんなことないはずなんだけどね」
エミリアは少し俯いた。
「なんだか最近は嫌なことばかり思い出してしまって」
「……」
「私の人生、楽しいことなんてなかったんじゃないかって」
静かな声だった。
怒りではない。
悲しみでもない。
疲れだった。
フィリアは窓の外へ視線を向ける。
青空。
白い雲。
遠くを飛ぶ鳥。
そのあと、ゆっくり戸棚へ向かった。
小さな木箱を取り出す。
箱を開ける。
中に入っていたのは一本の遠眼鏡だった。
真鍮で作られた古い遠眼鏡。
旅人や船乗りが使いそうな、小さな筒状の品。
エミリアは首を傾げる。
「これは?」
フィリアは遠眼鏡をそっと手に取った。
「『あの日の遠眼鏡』です」
エミリアは黙って見つめる。
「これを覗くとね」
フィリアは優しく言った。
「昔のあなたが見えます」
「昔の私?」
「ええ」
「子供の頃かもしれません」
「昨日かもしれません」
「十年前かもしれません」
エミリアは不思議そうに遠眼鏡を見る。
「それは自分で選べるの?」
「いいえ」
フィリアは首を振った。
「何が見えるかは分かりません」
「……」
「ただ」
フィリアは微笑む。
「大切だった景色が見えることが多いです」
エミリアは遠眼鏡を見つめた。
けれど手を伸ばさない。
「嫌な思い出だったら?」
ぽつりと言う。
フィリアは少し考えた。
そして尋ねる。
「遠眼鏡を覗く時って、どんな時ですか?」
「え?」
「遠くの見たいものを見る時ですよね」
横でアストリッテが小さく頷く。
エミリアは答えられなかった。
フィリアは続ける。
「今、あなたが見たい景色は何ですか?」
エミリアは黙る。
何も言えない。
分からない。
本当に分からない。
何を見たいのか。
何を思い出したいのか。
それすら見失っていた。
「……分かりません」
ようやくそう答えた。
フィリアは優しく微笑んだ。
「なら、一度覗いてみませんか?」
エミリアはためらう。
少しだけ怖かった。
けれど。
本当は知りたかった。
自分が何を忘れてしまったのか。
何を見失ってしまったのか。
ゆっくりと遠眼鏡を受け取る。
そして。
そっと目を当てた。
店内は静かだった。
アストリッテも何も言わない。
フィリアも何も言わない。
ただ待っている。
やがて。
エミリアの肩が小さく震えた。
一筋の涙が頬を伝う。
それでも何も語らない。
遠眼鏡を下ろす。
しばらくそのまま立ち尽くしていた。
「どうでしたか?」
フィリアが静かに尋ねる。
エミリアは答えない。
代わりに困ったような笑顔を浮かべた。
涙を拭う。
そして言った。
「これ、いただくわ」
フィリアは微笑んだ。
「ありがとうございます」
帰り際。
エミリアは先ほどより少しだけ表情が柔らかかった。
店の扉を開く。
午後の光が差し込む。
「また来ます」
小さくそう言った。
「お待ちしています」
フィリアが手を振る。
カラン。
扉が閉まった。
店内に静けさが戻る。
しばらく誰も話さなかった。
やがて。
アストリッテがぽつりと呟く。
「何が見えたんでしょうね」
フィリアは窓の外を見ながら微笑んだ。
「きっと温かい景色よ」
アストリッテも窓の外を見る。
青空が広がっている。
人生には嫌なこともある。
忘れたいこともある。
けれど。
遠く離れてしまっただけで。
本当はまだ心のどこかに残っている優しい景色もあるのだろう。
フィリアはそんなことを思いながら、午後の光に目を細めた。
店の棚には、今日も誰かのための小さな雑貨たちが静かに並んでいた。
ーー次回予告ーー
セラーラ「お二人お揃いなんですね!かわいい!」
フィリア「そうなのよ」
アストリッテ「お気に入りなの」
次回、第10品「三つのリボン」
お楽しみに!




