第37話:母の声が、聞こえた気がした
セランの根拠地へと続く、深い森の野営地。
パチパチと爆ぜる焚き火の音だけが、夜の静寂を刻んでいた。隣ではリアが、旅の疲れからか安らかな寝息を立てている。
レインは一人、揺れる火影を見つめながら、自分の内側へと深く意識を沈めていった。
(……あと、少し。なのに、届かない)
これまでの旅と遺産での経験を経て、レインを縛る封印の鎖は、そのほとんどが朽ち果てていた。しかし、能力の核心部を覆う最後の一層――硬く、冷たい殻のような「残滓」だけが、どうしても解けずに残っている。
力を使おうとするたびに、その殻が内側からの拍動を力ずくで押さえつけ、右手の感覚を奪っていく。
レインは目を閉じた。
逃げてきた記憶。見ようとすると霧がかかる、最も古い情景の奥へと、今の研ぎ澄まされた感知能力を突き立てる。
(……見せてください。私の、本当の始まりを)
視界が、セピア色の光に塗り潰される。
幼い自分がいた、あの石造りの部屋。セランの冷徹な詠唱。引き剥がされる力。
だが、今回はその先に、もう一つの「気配」があった。
泣いている声。
必死に自分の名を呼び、セランの衣を掴んで止めようとする、細い腕。
『……やめて! その子の力を奪わないで!』
母だ。
記憶の中の母は、力なく地面に伏し、涙を流していた。セランの圧倒的な力の前で、彼女はあまりに無力だった。
だが、封印が完成し、幼いレインの意識が遠のくその直前。
母は這いずり、レインの小さな手を、壊れ物を扱うような優しさで握り締めたのだ。
『……ごめんね、レイン。守ってあげられなくて。……でも、忘れないで。あなたは、誰よりも温かな縁を持っているのよ』
その瞬間、レインの頬を熱いものが伝った。
悲しみではない。怒りでもない。
ただ、長い間自分を支配していた「見捨てられた」という呪縛が、母の涙によって静かに洗い流されていく感覚。
レインの顔から、これまでの「丁寧すぎる静寂」が消え、一人の息子としての、剥き出しの哀哭と安堵が混じり合った、生々しい人間としての表情が溢れ出した。
母は、自分を捨てたのではなかった。
抗えない運命の中で、最後まで自分という「縁」を、手放さずにいてくれたのだ。
パキリ、と。
レインの内側で、最後の一層に大きな亀裂が入る音がした。
完全な解除には至らない。だが、その殻はもう、冷たい壁ではなくなっていた。
「……眠れないの?」
不意に声をかけられ、レインは現実に引き戻された。
リアが目を擦りながら、隣に座り込んでくる。
「……少し、考えていました。……母のことを」
「お母さん……」
「はい。……守ろうとしてくれていたのだと、ようやくわかりました。……私は、独りではなかった」
レインの言葉に、リアは何も言わず、ただ自分の肩をレインの肩にそっと預けた。
焚き火の熱が、二人の間を循環していく。
感知能力が、自分の内側にある力が静かに、しかし確実に熱を帯び始めているのを告げていた。
母が遺してくれた、最後の温もり。
それこそが、セランの歪んだ執着を打ち破るための、最強の「縁」になる。
「……明日には、着きますね」
「うん。……終わらせよう、全部」
二人は火影を見つめ、夜が明けるのを静かに待った。
レインの右手には、もうあの凍てつくような冷たさは、微塵も残っていなかった。




