第36話:世界が、動き始めた夜
ついに、世界が均衡を失った。
東の大国による宣戦布告。それは国境を越え、周辺の小国群へと電撃的な速さで伝播していった。
町という町に、狂気を帯びた号令が響き渡る。
『戦争に参加せよ。兵を出せ。物資を、家畜を、若者の命を、すべて国のために捧げよ』
レインとリアが立ち寄った宿場町も、一瞬にしてパニックに飲み込まれた。
愛する息子を隠そうとする親の叫び、逃げ出す商人たちの怒号。レインの感知能力は、町全体の「縁」が恐怖という名の濁流に押し流され、無惨に千切れていく光景を捉えていた。
だが、事態はそれだけでは終わらなかった。
「……レイン、あれ」
リアが町の掲示板を指差し、息を呑んだ。
そこには、粗い紙に描かれたレインの似顔絵と、大きく書き殴られた文字があった。
『指名手配:縁結び師の末裔。国家転覆を企む危険人物。発見した者は即座に軍へ報告せよ。生死を問わず――』
セランだ。
戦争という巨大な混乱を利用し、公権力という「暴力」を動かしてレインを完全に孤立させ、追い詰めようとしている。
「……徹底していますね」
レインの平坦な声に、皮肉めいた響きが混じる。
「どうする? 今ならまだ、森の奥へ逃げ込めるけど……」
リアの問いに、レインは首を振った。
掲示板の前で震えている人々。徴兵の通達に泣き崩れる若者。彼らの間にある縁が、今まさに、絶望という刃で断ち切られようとしている。
「逃げません。……今の私にできる限り、この町の人々の縁を繋ぎます。……恐怖で自分を見失う前に」
レインは一歩、パニックの渦中へと踏み出した。
以前のように「なんとなく」ではない。明確な意志を持って、人々の間に漂う負の光の干渉を、自身の力で押し戻していく。
「わかった。……じゃあ、私も手伝う。レインが道を作るなら、私はそこを誰も通さないように見張ってるから!」
二人は動き始めた。
レインが混乱する集団に言葉をかけ、リアが人混みを整理し、背後からの追っ手を警戒する。
一人の青年が発する「静かな安らぎ」が、波紋のように町へと広がっていった。
夜。町は、奇跡的なまでの静寂を取り戻していた。
戦争という現実は変わらない。明日には兵士が来るかもしれない。だが、町の人々の瞳からは、自分たちだけが助かろうとする醜い殺気が消え、代わりに「共に耐える」という静かな覚悟が宿っていた。
「……終わりましたね、リアさん」
レインは感覚の消えた右手を見つめ、静かに息を吐いた。
「うん。……ねえ、レイン。次、どこへ行く?」
リアの問いに、レインは視線を上げ、セランがいるはずの方向――二大国の中心部を見据えた。
「セランのところへ、向かいます。……これ以上、彼に縁を汚させるわけにはいきません」
「……ついに、か」
リアが笑った。
それは、宿命への恐怖を飲み込んだ、闘う者の笑顔だった。




