第33話:逃げながら、考える
神殿を離れ、人里へと続く街道を歩いていた二人の前に、それは現れた。
これまでの監視役のような黒い外套の男たちではない。金属の鎧を硬く鳴らし、組織的な陣形を組んだ十数人の武装兵。その中心に、あのセランが悠然と立っていた。
「……随分と長居をしたな、レイン。あの神殿で何を見た」
セランの声は、これまでになく低く、冷徹な響きを帯びていた。その視線はレインを通り越し、背後にいるリアを獲物として射抜いている。
レインは息を呑んだ。
セランは、神殿にある記録の内容を知っている。あるいは、彼もまたその「条件」を探していたのだ。両国の縁を操り、大陸を支配するために。
「何も見ていません」
レインは一歩前に出た。右手の感覚はまだ完全ではないが、胸の奥にある「壁」を、今度は自らの意志で叩く。
「嘘が下手だな。……まあいい。その娘をこちらへ渡せ。そうすれば、お前の封印を解く手伝いをしてやらんでもない」
「断ります」
レインの声は、迷いなく響いた。
セランが、わずかに眉を動かす。これまで自分に抗う術を持たなかったはずの「欠陥品」が、初めて明確な拒絶を示したことに驚いたのだ。
「……ほう。誰に向かって口を利いているか、忘れたか」
セランが手を挙げると、兵たちが一斉に距離を詰めた。
レインは感知能力を全開にする。
兵たちの間に走る、命令への従順と、死への微かな恐怖。
レインは一人の兵士の目を見つめた。
その男の胸から伸びる糸は、故郷で待つ幼い娘との縁に縋るように震えている。
(……見えました。あなたの本当の願いが)
「あなたは、ここにいたくないはずです。……剣を握る手も、迷っている」
レインが静かに告げると、その兵士の動きが、糸に操られる人形が壊れたように止まった。
レインの意志が、兵士の内側にある「個の縁」を強制的に呼び起こしたのだ。
「っ、何を……」
陣形に、わずかな綻びが生じる。
「今だよ、レイン!」
リアが叫び、いつものように目潰しの煙幕を地面に叩きつけた。
白煙が立ち込める中、レインはリアの手を掴み、森の深部へと走り出した。
「面白い……。封印という檻の中で、これほどまでに牙を研いでいたか」
背後で、セランの歪んだ笑い声が聞こえた。それは怒りではなく、ようやく手に入れた「完成間近の道具」を眺めるような、狂気に満ちた歓喜の声だった。
森の奥へ逃げ込み、激しく喘ぎながらレインは自分の右手を見つめた。
感覚が、再び根元から消えている。
だが、今回は違う。
痛みの代わりに、確かな手応えがあった。
封印の壁はまだ残っている。だが、その向こう側にある自分の力が、リアを守るために自ら手を伸ばしているのを感じた。
「……レイン、手が冷たいよ」
リアが、レインの右手を両手で包み込んだ。
「大丈夫です。……これくらい、何でもありません」
セランの追跡は、これから苛烈を極めるだろう。
時間は、もう残されていない。
レインはリアの温もりを感じながら、次に彼女に告げるべき言葉を、静かに心の中で編み始めていた。




