第32話:リアが、鍵だった
神殿の奥底、静謐な空気が満ちる回廊。壁一面を埋め尽くす緻密な浮き彫りは、太古の縁結び師たちが成し遂げた「奇跡」の数々を物語っていた。
レインは感知能力を指先に集中させ、石の表面に刻まれた微かな溝をなぞる。
「……何が書いてあるの、レイン」
リアが不安そうに、その横顔を覗き込む。
「……二大国の、対立を終わらせた時の記録です」
レインの指が、ある一箇所で止まった。
そこには、縁結びの力だけでは成し得ぬ「最後の条件」が、祈りにも似た厳格な筆致で記されていた。
『二つの大なる国が、互いの縁を食らい尽くし、破滅へと向かう時。……その対立を鎮めるには、両国の血をその身に宿し、かつ両国から切り離された「空白の器」が必要となる。その者が縁結びの力と共に在ることで、初めて、引き裂かれた世界は一つに結ばれる』
レインの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
両国の血。どこにも属せない孤独。両国から「余計な存在」として切り離された者。
(……そんな、まさか)
レインはゆっくりと、隣に立つリアを見た。
彼女は、壁に刻まれた色鮮やかな紋章を無邪気に眺めている。自分の出自が、この世界の絶望を繋ぎ止めるための「鍵」として千年前から予言されていたことなど、露ほども知らない顔で。
「……リアさん」
「ん、なあに? なんか怖い顔してるよ、レイン」
リアがいつものように笑う。
その琥珀色の瞳は、かつて両国から否定された孤独を乗り越え、ようやくレインという「居場所」を見つけたばかりの、透明な輝きを宿していた。
もし、この記録が正しいのなら。
二大国の戦争を止めるためには、リアという存在を「触媒」として捧げなければならない。それは彼女が一個の人間として生きることを、再び国家という巨大な縁の犠牲にすることを意味していた。
(……言えません。今の彼女に、これ以上を背負わせるなど)
レインは激しい吐き気に襲われ、壁に手をついた。
感知能力が、リアの内側で静かに拍動している「未知の縁」を捉える。それは確かに、東と西、二つの大国の根源と、目に見えない糸で繋がっていた。
夜。リアが寝静まった後、レインは一人で神殿の外に出た。
満天の星空。世界はこれほどまでに美しく、そして残酷だ。
リアは自由になりたかった。どこかに属したかった。
だが、その願いが叶う唯一の道が、世界を救うための「道具」になることだとしたら、それは救済なのだろうか、それとも呪いなのだろうか。
「……私は、あなたを守りたい」
レインは夜風の中で、自分自身の感情を初めて、明確な言葉として吐き出した。
縁結び師としての使命。セランの野望。世界の破滅。
それらすべてを秤にかけても、隣で眠る少女の小さな寝顔の方が、今のレインには重かった。
夜明けが近い。
レインは決めた。
今はまだ、告げない。彼女がその宿命と向き合う勇気を得るその時まで。
それまでは、自分が彼女の盾になろう。たとえそれが、世界を敵に回すことになっても。
神殿に戻るレインの足取りは、冷徹なまでの決意に満ちていた。




