第25話:あの夜、リアは歌っていた
神殿を後にして数日、二人は二大国のちょうど中間に位置する、戦略的要衝の町に入った。
そこは、東西両国の文化が混ざり合いながらも、互いを激しく牽制し合う特異な空気に満ちていた。町の中央を流れる運河を境に、東の大国の影響が強い貴族街と、西の商業圏が露骨に分断されている。
レインの感知能力は、町に入った瞬間から、かつてないほど複雑な不協和音を捉えていた。
だが、それ以上にレインを驚かせたのは、隣を歩くリアの異変だった。
「……リアさん?」
声をかけても、返事がない。
いつもなら「ここ、美味しそうなものがいっぱい!」とはしゃぐはずの彼女が、今は青ざめた顔で、まるで幽霊でも見ているかのように視線を彷徨わせている。
足取りは重く、時折、何かに怯えるように肩を震わせる。
「……ここ、来たことがありますか」
「え……? あ、ううん。ない、と思う。……たぶん」
曖昧な答え。だが、彼女の瞳は嘘をつけなかった。
琥珀色の奥にある深い「翳り」が、この町の石畳を踏むたびに、毒のように彼女の内側を侵食していくのがレインには「見えて」いた。
宿を借り、夕食を摂る間も、リアはほとんど口を動かさなかった。
レインの感知能力が、これまでにない強度でリアに反応し続けている。
彼女の内側にある、あの深い断絶。
これまでは「遠くにある壁」のように感じられていたそれが、この町では、まるで彼女自身を内側から引き裂こうとする鋭い刃のように、生々しい振動を放っている。
(……踏み込まなければなりません)
レインは意を決した。
これまでの自分なら、彼女が笑って隠すのであれば、それを尊重しただろう。だが、今のレインは知っている。独りで抱え続ける孤独が、どれほど残酷に心を削るかを。
夕食の後、二人は宿の裏手にある小さな広場へ出た。
人気のない夜の広場。遠くで運河の水の音だけが聞こえる。
「……リアさん。聞いてもいいですか」
レインの声は、夜の冷気のように静かだった。
リアが足を止める。
「あなたの内側に、深い断絶がある。……旅を始めた時から、ずっと感じていました。踏み込んでいいのかわからなくて、言葉を持たなくて、ずっと黙っていました。……でも今日は、特に強く感じます。あなたが、壊れてしまいそうなほどに」
リアの背中が、目に見えて強張った。
琥珀色の瞳が、夜の闇を映して沈んでいく。
「……レインには、隠せないね」
リアの声が、震えていた。
それはいつもの明るい仮面が、初めて足元から崩れ落ちた音だった。
リアは広場の石畳を見つめたまま、長い沈黙に沈んだ。
レインは何も言わず、ただ隣に立った。彼女の周囲で激しく波打つ縁の振動が、レインの胸を痛いほどに叩いている。
(……ああ。これが、あなたの本当の景色だったのですね)
しばらくして、リアの唇が小さく動いた。声にはならない、息だけの旋律。
昔、お母さんがよく口ずさんでいた古い歌だと、彼女自身はまだ気づいていなかった。
夜風が吹き抜け、リアがゆっくりと顔を上げた。 そこにいたのは、天真爛漫な少女ではなかった。
どこにも帰る場所を持たない、一人の孤独な彷徨い子の顔だった。
「……明日、話すよ。全部」
その一言に、レインは小さく頷いた。




