第2話:足が、勝手に動いていた
夜が明け、朝霧が立ち込める街道を一人歩き続ける。
勇者パーティを去ってから数時間が経ったが、レインの足取りに迷いはなかった。迷うための「目的地」さえ、今の彼には存在しないからだ。
やがて、街道沿いにこぢんまりとした村が見えてきた。
入り口の看板には、掠れた文字で村の名が記されている。レインはまず、懐の革袋を確認した。勇者から渡された手切れ金代わりの金貨が数枚。当面の宿代と食事には困らないだろう。
村の広場に差し掛かったとき、鋭い怒鳴り声が空気を震わせた。
「いい加減にしろ! ここは先祖代々、うちが耕してきた土地の入り口だ。商人の荷車が勝手を通っていい場所じゃない!」
「頑固なことを言うな。ここを通らなきゃ、町へ出す商品の鮮度が落ちるんだ。村全体の利益を考えたら、道を広げるのが筋だろう!」
広場の中央で、日焼けした老農夫と、身なりの良い商人が激しく言い合っている。周囲には村人たちが集まり、遠巻きに困惑した表情で成り行きを見守っていた。
レインは関わるつもりはなかった。
自分はただの旅人だ。それも、役立たずとして追い出されたばかりの。
だが、二人の間を通り過ぎようとした瞬間――また、あの「感覚」が走った。
怒号を飛ばし合う二人の胸の間に、細い、けれど銀色に光る一本の糸が見える。
それはピンと張り詰め、今にも千切れそうなほど細くなっている。しかし、どれほど罵り合っても、その糸は二人の間に留まり続けていた。
(……また、見えた。光の、糸)
レインは無意識に足を止めた。
二人の顔を見る。農夫の拳は震え、商人の額には汗が浮いている。どちらも、怒りの裏側に強い「焦り」を隠していた。この村を愛し、守ろうとしている点では同じはずなのに。
ふと見れば、二人の足元には、議論の熱に当てられたかのように土埃が舞い、のどが涸れているのが見て取れた。
レインは荷物から水筒を取り出した。
そして、丁寧な動作で農夫に近づき、コップに注いだ水を差し出す。
「……あの、失礼します。のどが渇いていらっしゃるようでしたので」
農夫は毒気を抜かれたように目を丸くした。
「あ、ああ……悪いな」
農夫が水を飲み干すと、レインは次に商人の方へ向き直り、同じように水を注いで差し出した。
「商人さんも、どうぞ。お疲れのようですから」
「……ああ。すまない、旅の御人」
二人が水を飲み、一息ついたところで、レインは何気なく、心に浮かんだままの言葉を口にした。
「お二人とも、この村のことが本当に好きなんですね」
その言葉は、丁寧すぎて感情がこもっていないようにも聞こえた。
だが、その一言が落ちた瞬間、張り詰めていた銀色の糸が、ふっと緩んだ。
農夫と商人は、互いに気まずそうに顔を見合わせた。
自分たちが何のために怒っていたのか。その根底にある「村への愛着」を指摘され、突き刺すような言葉の刃が鈍ったのだ。
「……私は、宿を探さなければなりませんので。失礼します」
レインは深く一礼し、そのまま歩き出した。
二人がその後、どのような会話を交わしたかは見ていない。
夕暮れ時。
村の小さな宿で質素なスープを啜っていると、宿の主人が明るい声をかけてきた。
「あんたか、昼間に広場で水を配った旅人は。あの二人、さっきまでここで酒を飲みながら話し合ってたよ。まだ解決はしてないが、三年ぶりに一緒に笑ったってよ。不思議なこともあるもんだ」
レインはスプーンを止めた。
理由がわからない。自分はただ、のどが渇いているように見えたから水を渡し、感じたことを口にしただけだ。
夜、村を後にする。
次の町へ続く、暗い街道を見据える。
あの光る糸は何なのか。
自分に何ができるのか。
まだ、何もわからない。
けれどレインは、少しだけ確かな足取りで、闇の中へと一歩を踏み出した。




