第18話:右手の感覚が、消えた
神殿での対話から数日。二人は街道を大きく外れ、険しい山道に足を踏み入れていた。
古びた石板に刻まれていた微かな紋章の導き。あるいは、レインの胸の奥で疼き続ける「名状しがたい熱」が、磁石のように彼をこの場所へと引き寄せたのかもしれない。
「……レイン、大丈夫? さっきから顔色がずっと真っ白だよ」
リアが心配そうに覗き込む。
「……ええ。空気が少し、薄いだけです」
レインは偽りを口にした。
実際には、山を登るにつれて全身が鉛のように重くなっていた。感知能力が、大気そのものに満ちた「巨大な縁の残滓」を捉え、処理しきれずに悲鳴を上げている。
やがて、雲を突き抜けた頂に、それは現れた。
円形の広場を囲むように立つ、三本の巨大な石柱。
表面には、これまで見てきたどの遺産よりも精密で、暴力的なまでに複雑な文様が刻まれている。保存状態は異常なまでに良く、まるで数分前まで誰かが手入れをしていたかのような不気味な光沢を放っていた。
「……っ、ここだ」
レインは吸い寄せられるように、中央の石柱へと歩み寄った。
震える指先が、冷たい石の表面に触れる。
刹那――。
全身を貫くような衝撃。
視界が白磁のように染まり、耳の奥で、何かが砕け散るような轟音が響いた。
(……見え、る)
幼い頃の記憶。
温かな光が溢れる部屋。誰かが自分の手を握り、優しく微笑んでいる。
だが次の瞬間、その光景を黒い霧が塗り潰した。
冷徹な声。呪呪めいた詠唱。
自分の内側から、最も大切で、最も美しい「何か」が、無理やり引き剥がされ、何重もの鎖で縛り付けられていく感覚。
「あああああ……っ!」
レインは呻き声を上げ、石柱から弾き飛ばされるように倒れ込んだ。
呼吸が荒い。心臓が、肋骨を突き破らんばかりに暴れている。
「レイン! しっかりして!」
駆け寄ったリアの腕に支えられながら、レインは自分の内側を――かつて「役立たず」と自称した、空虚な深淵を覗き込んだ。
そこには、今まで気づかなかった「壁」があった。
感知能力のさらに奥底。本来ならもっと広大に、もっと自由に広がっているはずの力の中心部を、鉄錆た鎖のような紋様が幾重にも覆い尽くしている。
(……封印。あの男が言っていたのは、これのことか)
勇者パーティで何もできなかった理由。
自分が「外側」にしかいられなかった理由。
それは無能だったからではない。
何者かの手によって、その根源を奪われ、閉じ込められていたから。
「……リアさん」
レインは震える声で、ようやく言葉を紡いだ。
「私の中に……何かがあります。巨大な、壁のようなものが」
リアはレインの顔をじっと見つめていた。
驚きはない。ただ、すべてを予見していたかのような、深淵のごとき琥珀色の瞳。
「……それ、解けそう?」
「……わかりません。ですが、今ははっきりとわかります。そこに、『ある』ことが」
山を下りる二人の背後で、三本の石柱が夕日に照らされていた。
レインは自分の右手を見つめる。
壁の向こう側で、微かに、けれど力強く拍動を始めた「本来の力」。
役立たずだった自分への諦念が、静かに、そして確実な「怒り」を伴った自覚へと変わり始めていた。




