第16話:扉の前で、立ち尽くした夜
セランと名乗る男が去った後、旅の空気は重く沈んでいた。
いつもなら賑やかに歩くリアが、その日は驚くほど静かだった。露店を眺めても目は輝かず、問いかけても短い返事が返ってくるだけだ。
「……リアさん、体調が悪いのですか」
足を止めて尋ねるレインに、リアは一瞬だけ肩を揺らし、無理に口角を上げた。
「え、あはは、そんなことないよ! ちょっと考え事してただけ」
その笑顔は、いつもの天真爛漫なものとは明らかに違っていた。貼り付いたような、危うい明るさ。
レインの感知能力は、彼女の言葉が嘘であることを淡々と告げていた。
その夜。宿の食堂で夕食を済ませると、リアは「先に寝るね」と早々に自室へ引き上げた。一人残されたレインは、冷めた茶を見つめる。
(……揺れている)
二階、リアの部屋がある方角から、鋭く、細い振動が絶え間なく伝わってくる。
それは彼女の内側にある深い「断絶」の闇が、あの男の登場によって激しくかき乱されている響きだった。
レインは導かれるように立ち上がり、階段を上った。
薄暗い廊下を進み、リアの部屋の前で足を止める。
扉を隔てたすぐ向こうに、彼女がいる。
彼女を縛る歪な縁の糸が、今にも千切れそうなほど震えているのが「見えて」いた。
レインは右手を伸ばした。
ノックをする。ただそれだけの動作のために。
だが、指先が木の扉に触れる直前で、ピタリと止まった。
扉の向こうから伝わってくる縁の振動が、壁を透過してレインの右手に伝播する。
その震えは腕を伝い、胸の奥にある「何か」を、乱暴なまでに強く揺さぶった。
(……これは、何ですか)
心臓が、耳障りなほど速い鐘を打っている。
指先は氷のように冷たいのに、胸の奥だけがひどく熱い。
レインの感知能力は、他者の縁の状態を克明に捉える。だが、今この瞬間に自分の内側を支配している混沌とした熱の正体を、彼は一文字も言語化できなかった。
世界中の「縁」という景色を見通せるその瞳は、自分自身の感情という、最も近くにあるはずの景色に対してだけは、絶望的なまでに機能しなかった。
喉が、張り付いたように動かない。
かけようとした言葉は、実体のない煙のように消えていく。
レインはただ、伸ばした右手を握りしめ、ゆっくりと降ろした。
震える糸を「見える」のに、その震えを止めるための術を知らない。
扉一枚隔てただけの距離が、これほどまでに遠く、絶望的なものに感じられたことはなかった。
翌朝。
リアはいつものように、眩しい笑顔で現れた。
「おはよう、レイン! 今日はどこ行くの?」
昨夜の沈黙など、最初からなかったかのような振る舞い。
「……昨夜は、眠れましたか」
「ぐっすり! おかげで元気いっぱいだよ」
嘘だとわかっていた。
けれどレインは、胸の奥に残るあの名状しがたい熱をどう処理していいか分からず、ただ「そうですか」と短く返し、荷物を背負った。
街道を歩きながら、リアの明るい鼻歌が響く。
レインはその後ろ姿を、昨夜と同じ、熱を持った沈黙を抱えたまま追う。
それは生まれて初めて経験する、正体のわからない、けれど無視することのできない痛みだった。




