第十六話 一つの決断が迫る
本作品は実体験をもとに構成していますが、プライバシー保護および演出のため、登場人物名・設定・一部の内容を変更したフィクションです。
事件の始まりから、ちょうど一年。
尋志と里美は、シーフの妻・紗梨に会いに来ていた。逮捕から、十日ほどが経っていた。
あの日、車の中でシーフが口にした言葉。
「紗梨を幸せにしたかった」
――ふざけるな。
そんな思いが、尋志の中で何度も繰り返されていた。幸せを語る人間が、なぜ盗みに手を染めるのか。
理解できなかった。
紗梨は、芸能活動だけでは生活できず、アルバイトを掛け持ちしていた。そして、自分の収入の少なさが原因で、シーフを追い詰めたのではないかと、自らを責めていた。
里美は、その話に強く感情移入していた。病弱な体。
子供を持てるか分からないという不安。それでも支えようとしていた紗梨の姿に、同情していた。
だからこそ――そんな彼女に暴言を浴びせ、暴力を振るい、挙げ句の果てに犯罪にまで手を染めたシーフが、許せなかった。
しかし、里美の表情が沈んでいた理由は、それだけではなかった。
長澤家が受けた損害。それを、紗梨に伝えなければならなかったからだ。
一年前。シーフが初めて現れた頃から、ある考えが頭をよぎっていた。
――引っ越すべきではないか。
ここに来てから、あまりにも多くの出来事が起きた。そして、決定的だったのが、あの侵入事件だった。
あれ以来、里美はわずかな物音でも目を覚ますようになり、通院するまでになった。
尋志自身も、連日の防犯カメラの確認で、まともに眠れない日々が続いていた。
家族会議の末、家の売却という選択肢が出た。
だが――
気持ちは、簡単には割り切れなかった。
一から考えた間取り。積み上げてきた生活。この家は、ただの建物ではなかった。
“この家を連れていけるなら、連れていきたい”
そんな想いが、決断を鈍らせていた。
だが、逮捕の日。警察が自宅の写真を撮る姿を見たとき、尋志の中で何かが変わった。
――終わっていない。
捕まえたから終わりではない。むしろ、ここからが始まりかもしれない。
逆恨み。報復。その可能性が、現実として突きつけられた。
もし、自分がいない時間に――。
その想像に、言いようのない恐怖が広がった。
人は、一方的な悪意の前では、あまりにも無力だ。
住宅が完成したのは、コロナが日本に広がり始めた頃だった。
その後、ウッドショック、物価高騰――
同じ家を建て直すとなれば、以前よりも大きな負担がのしかかる。
それでも、尋志は決めた。
――やり直そう。
もちろん、すべてをシーフ側に請求できるわけではない。
それでも、自分たちが受けた被害は、伝えるべきだと思った。
紗梨は、支払うと言った。
だが尋志は、首を横に振った。
「この額は、現実的じゃない」
「だから……これからどうするか、一緒に考えよう」
その言葉を口にしながらも、心の奥に引っかかるものがあった。
――なぜ、離れない?
すべてが明るみに出た今、なお夫婦関係を続ける理由。そこに、言葉にできない違和感があった。
話し合いを終え、二人は家へ戻った。
しばらくして、警察から呼び出しが入る。担当が変わり、改めて話を聞きたいということだった。
シーフは、まだ留置所にいる。
そして紗梨は、ほぼ毎日面会に訪れているという。
――やはり、おかしい。
過去も、素性も、すべて知ったはずだ。それでも離れない理由が、尋志には理解できなかった。
刑事は言った。
「また何かあれば、連絡します」
その言葉が現実になるまで、そう時間はかからなかった。
次に警察から連絡が来たとき――
それは、尋志にとって、あまりに残念な報告であった。




