第十四話 もう逃げられない男
本作品は実体験をもとに構成していますが、プライバシー保護および演出のため、登場人物名・設定・一部の内容を変更したフィクションです。
その町に住む人々が、家族団欒で過ごす時間――。
シーフは、妻・紗梨の実家にやって来た。
いち早く気づいたのは、尋志だった。
「旦那さん、来たんじゃない?」
その声に、紗梨は表に出てシーフと向き合う。
「なんで電話出ねーんだよ!心配するだろ!」
怒号が、やけに静かなこの場所に響いた。
「落ち着いて。人が来てるの」
紗梨が抑えるように言う。
「ちょっと話があるの。中に入って」
「あん?人?」
苛立ちを隠さないまま、シーフは玄関へ足を踏み入れた。
その態度を見て、里美はすでに腹を立てていた。
一方、尋志は冷静だった。
――ついに、この時が来た。
一瞬の高揚のあと、すぐに気持ちを落ち着かせる。
シーフは尋志の姿を見て、眉をひそめた。
「え?誰?」
長身の尋志は、静かに見下ろす。
「はじめまして。突然お邪魔して、すまないね」
一歩、距離を詰める。
「僕たちは、川の向こう側に住む長澤と言います」
「ちょっと人を探していてね。話を聞きに来たんだ」
シーフはわずかに後ずさった。
「な、何ですか……?」
尋志は、ゆっくりとチラシを取り出す。
「実は、うちに泥棒が入ってね――」
一拍、間を置く。
「防犯カメラに映ったコイツを探してるんだが……」
視線を外さずに、差し出す。
「これ、君じゃないか?」
シーフの額に、汗がにじむ。
「ち、違うと思います……」
明らかな動揺だった。
突然現れた大男に萎縮しているのか、それとも――心当たりがあるのか。
この時点では、まだわからない。
「ふぅん、そうか」
尋志は小さく息を吐いた。
「わかった。じゃあ土下座でも何でもして謝罪して帰るよ」
「疑って悪かったね」
そう言いながらも、視線は外さない。
「だけどさ――」
声のトーンがわずかに落ちる。
「僕らは、命をかけてこの男を探してるんだ」
チラシを軽く叩く。
「この男は、絶対にこの町から逃がさない」
「もう、いろんな店にチラシを貼らせてもらうことになってる」
そして、静かに言い切った。
「後から“自分です”っていうのは、無しだぜ?」
尋志には、確信があった。
この男が、シーフだと。
だからこそ、駆け引きができる。
たとえ後から名乗り出ても、もう遅い。
チラシが出回れば、逃げ場はない。
シーフの喉が、わずかに鳴った。
「あ、あの……」
「ちょっと妻がいるので、外で話せますか?」
「ああ、いいぜ。俺が一人で聞こう」
そう言ったが、里美も無言でついてきた。
外に出た瞬間、シーフは堰を切ったように話し始める。
額から流れる汗は、異様だった。
「そのチラシの男……僕だと思います」
「ああ、わかってるぜ」
尋志は、間を置かずに言った。
シーフの目が揺れる。
「でも……物色しただけで、何も盗んでいません」
その言葉に、尋志の表情がわずかに変わる。
ほんの一瞬だけ、空気が張り詰めた。
「おい――」
低く、抑えた声。
「あんまり大人をなめるなよ、一義くん」
シーフの顔から、血の気が引いた。
「え……?」
「“なんで名前を知ってる?”って顔だな」
一歩、近づく。
「わかってるぜ。君の名前も、旧姓も、年齢も、働いてる会社も――全部な」
言葉が、逃げ道を塞いでいく。
横から、里美が口を開いた。
「主人はね、あなたのこと全部調べてるのよ」
「観念しなさい」
シーフの呼吸が、明らかに乱れていた。
尋志は続ける。
「去年のゴールデンウィーク――」
「うちの風呂場から侵入して、六万円くらい盗んだよな」
間を置かず、畳みかける。
「その後も、お盆や年末年始に来て、息子の財布から四万円」
「夜中に車で動いてるのも、何度も見てる」
さらに一歩、踏み込む。
「仕事は漁師。ダルマ丸の船員――間違いないな?」
沈黙。
逃げ場は、もうなかった。
やがて、シーフは小さくうなずいた。
「……はい」
声は、かすれていた。
「自分が、やりました……」
その一言で、すべてが崩れた。
尋志は、静かに息を吐く。
「よし」
短く言い切る。
「じゃあ警察に、君の身柄を渡す」
シーフは、力なくうなずいた。
「はい……わかってます」
「ここじゃ、この家に迷惑がかかる。場所を変えよう」
淡々と告げる声に、もう迷いはない。
「君の奥さんに伝えてくる」
振り返り、最後に一言。
「わかってると思うが――もう逃げられないぞ」
「変なこと、考えるなよ」
「……はい」
その返事に、抵抗の色はなかった。
すべてを受け入れた声だった。
里美は家の中には戻らず、その場でシーフに怒鳴り続けていた。
「あんた、奥さん不幸にしてどうするんだい!」
「どうして、病弱の奥さんを支えてあげないんだ!」
その声を背に、尋志は家の中へ戻る。
紗梨と、その母親に向き合った。
「……彼、認めました」
短く、そう告げる。
二人の表情が強張る。
「ここに警察を呼ぶと、騒ぎになります」
「場所を変えましょう」
静かに提案すると、母親が小さくうなずいた。
「……マンションで」
決まった。
尋志は外へ出ると、シーフに声をかける。
「君たちのマンションに行こう」
視線をまっすぐ向けたまま、続ける。
「一義くんと紗梨さんは車で向かってくれ」
「俺たちとお母さんは徒歩で行く」
そして、少しだけ間を置いた。
「短い間だが――」
「夫婦で話しながら行ってくれ」
シーフは何も言わず、うなずいた。
その顔には、もう先ほどまでの色はない。
すべてを受け入れた人間の、静かな表情だった。
歩き出す。
夜の空気は、やけに冷たかった。
マンションへ向かう途中、尋志はタイミングを見て警察に連絡を入れる。
「近所の目があります」
「赤色灯とサイレンは控えて、静かに来てください」
それだけ伝えて、通話を切った。
紗梨の実家から、十分ほど。
やがて、マンションが見えてくる。
尋志はふと、空を見上げた。
あの二人は――
最後に、どんな会話をしたのだろうか。
答えは、聞くことはない。
ただ、静かな夜の中で。
すべてが、終わろうとしていた。




