第十話 触れてしまった事実
本作品は実体験をもとに構成していますが、プライバシー保護および演出のため、登場人物名・設定・一部の内容を変更したフィクションです。
寒さもひと段落し、街にわずかな春の気配が戻っていた。
だが、尋志の胸の奥には、まだ冷たいものが残っていた。
その日も尋志は歩いていた。時間は昼間。
例の駐車場の様子を確認しながら、周囲に目を配る。
駐車場の一角には、小さな畑があった。
そこでは、一人のおばあさんが黙々と農作業をしている。
尋志は、情報を得るために声をかけた。
「こんにちは。少しお聞きしてもいいですか」
「この駐車場の持ち主は、どなたでしょうか?」
おばあさんは手を止め、顔を上げた。
「ここは、うちの土地ですよ」
「申し訳ないけど、今は空いてないから貸せませんよ」
尋志は軽く手を振った。
「いえ、借りたいわけじゃなくて……」
「最近、夜になると不審な車をよく見かけるもので」
おばあさんは、少し首をかしげただけだった。
誰かが勝手に停めているのだろうか——そんな程度の反応だった。
それ以上は踏み込まず、尋志はその場を後にした。
——翌日。
再び昼間に現場付近を歩いていると、前方から一台の車が凄まじい速度で近づいてきた。
シーフらしき男だ。
車はそのまま駐車場に滑り込み、男は降りると、向かいの家へと入っていった。そして——一分も経たないうちに、再び出てくると、何事もなかったかのように走り去った。
ちょうど昨日のおばあさんが畑にいた。
尋志はすぐに近づいた。
「すみません、昨日お話しした不審な車ですが……今の車です」
「お知り合いなんですか?」
おばあさんは、あっさりと答えた。
「ああ、あの人は孫娘の旦那さんですよ」
——孫娘?
あの時、マンションで一緒にいた女の顔が脳裏に浮かぶ。
尋志はさらに尋ねた。
この家の苗字は「渡邊」だという。
孫娘の名前までは聞けなかった。
だが、祖母も孫娘の同じ苗字——渡邊。
どういうことだ。結婚している様だが苗字が変わっていない。
婿養子なのか。
いずれにせよ、このおばあさんには関係のない話だ。
深く追及することは避け、その場を離れた。
その後も尋志は、別の方面から情報を集め続けた。
この土地は、もともと自分の生まれ育った場所でもある。
知人を辿り、同年代の女性を洗い出し——ついに一つの名前へと辿り着いた。
渡邊紗梨。
あの時、男と一緒にいた女の名前だった。
尋志はSNSを使い、彼女の情報を調べ始めた。
…………
絶句した。
いくつものアカウントが見つかった。
そのプロフィール欄に並んでいたのは——
映画、CM、モデル。
この女、芸能人だったのか。
当初、尋志は彼女を共犯者ではないかと疑っていた。
夫婦であるならば、あの時間帯に外出する夫を不審に思うはずだ。
それを黙認している、あるいは共に関わっている可能性も考えていた。
だが——
彼女の投稿を読み進めるうちに、その疑念は静かに消えていった。
体が丈夫ではないこと。女性特有の病を患っていた過去。
そして、毎年綴られる母親への感謝の言葉。
その一つ一つが、作り物には見えなかった。
尋志の妻、里美もまた、長い年月、女性の病と向き合ってきた。
外出先で動けなくなることもあった。手術も、入院も経験している。
気づけば尋志は、川へと足を運んでいた。
そこは、様々な鳥が飛来する場所。
長澤家にとっては、何度も訪れた癒しの場所だった。
その日も、一組の鴨がいた。
雄が雌のそばを離れず、周囲を警戒している。まるで、命を守るように。
——あいつは、どうなんだ。
もしあの男がシーフだとしたら、なぜ妻を守ろうとしないのか。
なぜ、不幸にするようなことをするのか。
胸の奥に、説明のつかない感情が沈んでいく。
だが——
違う。
悪いことは、悪い。
犯罪は、犯罪だ。
加害者に感情移入するのは間違っている。
そう自分に言い聞かせた。
家に戻ると、里美が仕事から帰っていた。
「どうしたの、パパ。顔が真っ青よ」
尋志は、これまでの経緯を話した。
里美は静かに言った。
「でもね、パパ。悪いことは悪いんだよ」
「犯罪に手を染めたら、裁かれるべきだよ」
自分と同じような考えに、尋志は頷いた。
「ああ、わかってる。だから、決心を固めたところだ」
だが——
この女の素性を知ったところで、決定的な証拠にはならない。あの男がシーフであるという証明には、まだ足りなかった。
残り、わずか1%。
その1%を埋めるために、さらに一ヶ月の時間が流れる。
そして——
これまでの偶然の遭遇とは明らかに違う、まるで何かに導かれるような出来事が、尋志を待っていた。




