幸せのアルカロイド(5)
「健康状態は良好。うん、今週も大丈夫そうだね」
継続的にクリスからの診察を受けていたロベリアは、特に不調を訴える事もなく、パリでの暮らしを続けていた。
「今日もありがとう」
「ああ、これで君の不安が晴れるなら安いものだ」
クリスはまた、いつもの様に荷物を纏めて小屋を後にしようとする。
「ヨナは、大丈夫?最近、また魔女教絡みで忙しくなっているんだろう」
「うん、私は平気。ここのところ動きは無いし、厳重警戒ではあるけど、休みは取れてるから。―――また爆破事件でも起きたら、大変になるだろうけど」
「…そう。もう、起こらないと良いけどね、あんなことは」
市街地のど真ん中で起きた、ニヴァリスと名乗る男が仕掛けた爆破事件。
幸い死者や重傷者は出なかったが、彼の書いた脅迫文を見るに、王都の対応次第ではまた仕掛けられることも有り得る。
騎士団は、今も尚ニヴァリスの動向を追って、各地で警戒態勢を敷いていた。
「見つからないのかい?例の魔女教徒」
「…うん、全く。どんな手掛かりを追っても、全て途中で費えてしまう。私達が掴む手掛かりは、全て彼が仕掛けたダミーなんじゃないか、ってくらい」
「そう。なんていうか、不安だね」
彼の言う通り、パリの街一帯は、あの事件が起きて以来、得も言えぬ緊張感に包まれていた。
また同じ事件が発生するかもしれない。
人々がそう不安を抱いているというのに、王都の政治家は、ニヴァリスが要求した『捕縛された魔女教徒の解放』、『冥界の箱の返還』のどちらにも応じず、またニヴァリス確保へ向けた確実な一手も打てないままで手をこまねきつづけている。
龍騎士の中でも、ジルコが主体となって、以前よりも更に稼働を増やして魔女教対策を強化していたが、それでも尚、有効な手掛かりは掴めなかった。
「でも、その子は時々外に出させてあげた方がいい。年頃の子が部屋にこもりっきりというのは、大きなストレスの原因になるからね」
「…うん」
ヨナは、不安な顔をしながらロベリアと目を合わせた。
「無理はしちゃだめよ、ヨナ」
ロベリアも、もう随分前から、ヨナの表情が重く苦しい様相を呈していることには気が付いていて。
ずっと、彼女のことを思いやるような言動を繰り返すようになっていた。
「ありがとう、ロビィ」
ヨナは、隣に座るロベリアの頭を抱いて、流れるように額にキスをする。
「もし本当に忙しくて仕方なくなったら、僕に言って。数日くらいなら、僕がその子を預かって面倒を見るよ」
「…」
クリスには、未だに彼女が魔女であることを伝えていない。
一度たりとも頭に被ったフードに言及しない辺り、彼は実は何か察していて、あえて気付かぬふりを通しているのかもしれない。それが不確かな状態で、彼にロベリアを任せきるのは些か抵抗があった。
「そうね、いざとなったら、お願いするかも。その時は、よろしくね」
「ああ」
ヨナは敢えて断りはしないで、可能性の一つとして受け入れるような返答をする。
去り際に、クリスは口を開く。
「―――それとね、ヨナ。念のため、言っておくのだけど」
「うん?」
僅かに、彼の表情が真剣になる。
「ロベリアのことは、僕以外に話してはいけないよ」
僅かに、圧を感じる一言。
どうして、という問いを投げる前に彼はその場を去ってしまった。
今日の先生は少し怖かったね、と溢したのは、ロベリアのほうだった。
◇ ◆ ◇
また、別の日。
その日も、ロベリアはひとりきりで、小屋の中で留守番をしていた。
「今日は、曇り空で、ちょっとだけ寒いわね。上着を着て、風邪を引かないようにしなきゃね」
そう言って、彼女は自分ではなく、兎のぬいぐるみに上着を掛けてあげる。
「ヨナも、ちゃんと暖かくしているかしら。心配ね、ラスク」
彼女は、自分が抱き上げたぬいぐるみを頷かせるように前後に振った。
「…」
ぼんやりと、窓の外に見える曇り空を眺める。
ふと、木の棒か何かが、窓の外でちらちらと動いているのが見えて、ロベリアは何だろうとそれを目で追おうとした。
「…?」
今度は、子供の頭のようなものが、一瞬だけ窓に映りこむ。
「わ」
足場か何かを使ったのか、下から生えてくるように、女の子が窓の外からこちらを覗き込んできていた。
その女の子は、ロベリアと視線が合うと、ぱっと表情を明るくして姿を消す。
その後、何秒かして、今度は外へと続く扉のほうから、微かに扉を叩く音が何回か響いてきた。
ロベリアは腰を上げて、その来客のほうへと足を運ぶ。
小さな背丈で玄関の扉を開けると、そこには自分と同じほどの背丈の小さな女の子が、恥ずかしそうに、嬉しそうにこちらを見つめて立ち尽くしていた。
「こ、こんにちは。あなた、ここに住んでいるの?」
「そうよ。ここは、ヨナと私のおうち」
「へえ。えっと、その。とっても、素敵なおうちだね」
女の子がそう言うと、ロベリアは時間差で少し頬を染めて、「うん」と頷いて見せる。
「えっとね、私、シルヴィっていうの。その、えっとね。その」
たどたどしい自己紹介の後、彼女は何かを言いたそうに指を遊ばせ、あちらこちらへと視線を泳がせる。
「私と、お友達に、ならない?じゃなくて、なりませんか?」
「お友達?」
「そ、そう。一緒に、遊びたいなって」
ロベリアは、少し不思議そうに女の子の顔を見つめる。
女の子は、その沈黙に耐えかねてか、「いや、別に、嫌なら大丈夫、だよ。私、他の所で遊んでるから」ともごもごと言葉を連ね始める。
「いいよ」
「う、うん。そっか。そうだよね、じゃあ―――え。いいの?今、いいよって言った?」
女の子は、驚いた顔でロベリアと目を合わせた。
「うん。ラスクも、いいよね」
そう言って、ロベリアは抱えていた人形を手で頷かせる。
「いいって」
ロベリアは、至極まじめな顔でそう通訳した。
シルヴィと名乗った少女は、これまでの不安そうな表情を吹き飛ばすように目を見開いて、喜びのあまりロベリアの両手を掴んでいた。
その余りの喜びように、普段はヨナ以外には表情の変えないロベリアも、思わずほんの少し口角を上げて嬉しそうにした。
「やった、やったぁ!友達、お友達!遊べるわ、私もお友達と遊べる!」
そう言って、女の子は何度も跳びはねて喜ぶ。
「ねえ、どこに行く!?私、楽しい所いっぱい知ってるの!みんなが玩具を隠してる秘密基地とか、野良猫がいっぱい集まる集会所とか!他にも、いっぱいあるよ!どこがいいかな、ね、ね!」
そう目前にまで迫られて捲し立てる彼女に、ロベリアは「う、う」と困り顔をする。
「今は、だめ。ヨナに、勝手に出かけちゃ駄目って、言われてるの。行くなら、ヨナが帰ってきてからがいいわ」
「そのヨナって人は、いつ帰ってくるの?」
「わからないけれど、夜にはきっと」
女の子は、それを聞いて途端に表情を暗くした。
「夜じゃ、だめだよ。帰るの遅くなると、私すっごく怒られるの。どうしても、今は駄目?」
「…あんまり、遠くにはいけないけど」
「近くなら、いい?じゃあ、すぐそこの花壇で土遊びするだけなら、どう?」
余りのその必死さに、ロベリアは押し負けて少し譲歩してしまう。
「そこだったら、別に。でも、それより遠くには行けないからね」
「うん、わかった!私、ちょっと遊び道具もってくるね!」
そう言って、女の子は猛ダッシュでどこかへと道具を取りに走り去った。
しばらく待っていると、また同じように猛ダッシュで女の子が戻って来る。
その手に持った子供用のバケツの中には、小さなスコップやらカップやら、砂場遊びに使うような玩具がいろいろと放り込まれていた。
「へへ」
また嬉しそうに照れ笑いを浮かべた女の子の膝には、さっき見た時には気付かなかった擦り傷がひとつ増えていた。
「―――ロベリアちゃんは、いつもそこのお家でひとりで遊んでるの?」
小屋のそばの花壇に座り込みながら、あたりの砂や土をすくって固めたりして、二人はなんとなく遊んでいた。
「ひとりだけど、ラスクがいるからひとりじゃないわ」
「うん?ひとりだけど、ひとりじゃないの?」
ロベリアは、何かおかしいことでも言ったか、という風に首を傾げる。
「あなたは、いつも一人なの?」
結局それ以上気にする事もなく、同じ質問を女の子に投げかけた。
「うん、そうだよ。同い年の男の子たちは近所にいるけど、いじわるだから遊んであげないの」
「そうなのね」
表情を変える事もなく、彼女は小さく頷く。
「ロベリアちゃんは優しい子だから、これからも遊びたいな。私、穏やかな子が好きだよ」
「…」
土を弄りながらそんなことを言った女の子の顔を、ロベリアはまた不思議そうにじっと見つめた。
「どうしたの?」
「…ううん、なんでも」
ロベリアは、好き、という感情がいまいち理解できていなかった。
彼女にとっての『好き』とは、ヨナに向けて抱く感情ただ一つ。
それ以外の、同年代の友達に対する感情のことを『好き』と表現することに違和感を覚えた彼女は、目の前の女の子がその言葉を使うことが不思議でならなかった。
次の日も、女の子は現れた。
また、同じような遊び道具を持って。
その次の日も、そのまた次の日も。
雨が降らない日は、彼女は決まって同じ時間に、同じ服を着てロベリアに声を掛けた。
その日々は何度か続いて、女の子は次第にロベリアに懐くように態度を柔らかく変えていった。
「…あ。網つきのお皿を持ってくるの、忘れてたわ。これじゃ、さらさらの砂だけを分けられない」
ある日、どうやら玩具をひとつ持って来忘れたらしい女の子は、さっと立ち上がって、「取って来るね」とだけ言い残し、また向かいの民家の隙間、細い路地のほうへと走っていく。
結局、女の子が言った『好き』の意味は分からないまま、ロベリアは彼女に対して何とも言えない感情を抱き続けていた。
彼女は、その後ろ姿をなんとなく目で追いかける。
女の子が、路地の奥のほう、曲がり角に差し掛かった辺り。
彼女が行こうとした方向の反対から、誰かの腕が伸びてきて、女の子を無理矢理引っ張り込んでいく所が目に入った。
なんだろう、としばらく見ていても、女の子が出てくる様子が無い。
「…」
大丈夫かな、と、なんとなく気になったロベリアは、手に持っていた玩具をその場において、仕方なく向かいの路地のほうへと小走りで近づいて行った。
「―――何、俺たちの遊び道具、勝手に持って行ってるんだよ!この魔女、もう許してやらねぇ!今度こそ俺たちがこの街から追い出してやる!」
「痛い、やめて、やめて!髪を引っ張らないで、お願いだから!」
ロベリアが見たのは、同い年くらいの男の子の集団に羽交い絞めにされて、好き放題に叩かれ、蹴られている女の子の姿。
「…」
状況が分からず、ロベリアはただ立ち尽くしてその光景を見ている。
三人組の男の子の中の一人がその視線に気が付くと、「何見てんだよ」と言ってロベリアに近付き、無遠慮に彼女のことも突き飛ばした。
尻餅をついても尚、彼らを見つめて黙り込んでいる彼女の様子に、突き飛ばした男の子はやりづらそうにたじろぐ。
「なんだよ、お前も魔女か?追い出されたいのか」
ロベリアの上着のフードは被ったままで、特徴的な兎耳はまだ見られていない。
少年たちは、ただ八つ当たりのように、気に入らない女の子の事を魔女だと言って暴力の対象にしているだけであった。
「痛そう。やめて」
「はあ?お前には関係ないだろ」
「関係、ある。その子、ロビィの友達」
ロベリアがそう言うと、三人のうちのボスらしき、比較的体の大きな少年が前に出てきて、彼女の足を蹴った。
「うるさい。こいつは魔女なんだ、悪者なんだ。悪い奴を懲らしめて何が悪いんだよ。お前のほうがおかしいんだぞ、魔女の友達だなんて」
蹴られた足が痛くて、ロベリアはそのまま少し後ずさりをする。
少年の背後に目をやると、また傷を増やして、泣きながら蹲っている女の子の姿が見えた。
彼女は、急にその少年に対して怒りを覚えたのか、立ち上がって彼の腰につかみかかる。
「おかしくない、ロビィはその子の友達なの」
「なんだよ、やめろよ!離せ!」
体格の違う少年に簡単に引き剥がされて、ロベリアはまた後ろに倒れ込む。
彼女は、むきになってまた少年の足にしがみついた。
「しつっこい、離せよ、離せって!」
足を取られて後ろに転んだ少年は、もう一方の足でロベリアの肩や腰を強く蹴りつける。
「離せって、言ってんだろ!」
彼の足が、ロベリアの腹部に強く当たる。
ロベリアは呻くような声を上げて、手を離して蹲った。
後ろにいた小柄な少年が、「なあ、もうやめよう」といって激昂した彼を引き留める。
「うるさい、離せ、離せ!こいつは俺が懲らしめてやる!絶対に許してやらな―――うわっ!」
頭に血が上った少年は、後ろに置いてあった大きな木箱に肩をぶつけてバランスを崩して、またすぐに尻餅をついた。
「なんだよ、こんなところに!誰がこんな邪魔なもの置いて―――」
背中をぶつけて崩れ落ちた木箱の後ろの壁に、なにか魔法陣のようなものが光っているのが見えた。
目玉のような不気味な文様と、それを囲う文字の羅列。
それは、脈打つように光の色を強めて、今にも何かを生じようと禍々しく光る。
「なんだ、これ」
少年が、その光に目を奪われながらも、子供ながらにその危険性を本能で察知して後ろに下がった。
逃げた方がいいのでは、と誰もが察した、その矢先。
―――彼らが居た場所は、周囲の建物が吹き飛ぶほどの爆発を起こして、肺を焼くような炎を巻き起こした。
元から倒れ込んでいたロベリアの真上を、爆風と熱線が駆け抜ける。
少年たちがどうなったのか、熱気で目がやられて見ることが出来ない。
辺りに、弾丸のように煉瓦や硝子が飛び散る。
周りに散らばった木片や埃が、熱を受けて引火し、その炎が次々と燃え広がっていく。
数秒経って、一瞬で気温の上がった周囲の様子を見ると、そこには跡形もなく消し飛んだ家屋と、おそらくはその中に居たであろう住人達の家具が燃えているのが目に飛び込んできた。
その地獄のような光景を前にして、ロベリアは尚も周囲を見回して、初めてできた友達の名前を呼ぼうとする。
「しる、びい」
なんとか思い出したその名前を、焼けかけた喉で呼びかける。
やっと見つけたその女の子も同じように倒れ込んでいて、息があるのかどうかは分からなかった。
「―――おい、誰かいるか、誰か生きてるか!」
どこかから、男の野太い声が聞こえてくる。
「誰かっ…クソ!なんで、よりにもよって子供が!」
男は、遠くに救援を求めるように大声を上げながら、あたりに倒れた子供たちを担ぎ上げて救出を始めようとしていた。
彼はロベリアの姿を見つけて、同じように助け出そうと手を伸ばす。
「お前、意識はあるか!よかった、一緒に―――」
途中まで言いかけて。
男は、信じられないものを見るように言葉を止めた。
「おい、何だよそれは」
ロベリアの服は一部が焼けて、被っていたフードは頭から外れていた。
魔女特有の、獣の耳が露になる。
男は、彼女の兎耳を掴んでそのまま引っ張り上げた。
「痛い、痛いわ」
ロベリアは男の腕を押さえて、それをやめさせるように引っ張り返す。
「魔女か、お前」
後ろからも、人が集まり始める。
「なんだよ、これ。誰がこんなひでぇ事―――。お、おい、それ、魔女か?」
彼らも、男が掴んでいるものに気が付いて、次第にどよめき始める。
「―――お前の、仕業かよこれは!」
男は、ロベリアを助け出すことはおろか。
そのまま彼女を踏みつけようと、立ち上がって足を振り上げていた。
「―――止めろ、愚物」
音もなく現れた何者かが、男の頭を突然跳ね飛ばす。
勢いよく飛んだ頭部は壁に叩きつけられ、その場に残された男の身体はそのまま硬直して後ろに倒れ込んだ。
一瞬だけ、状況が飲めずに誰もが静まり返る。
「う、うわぁぁぁっ!」
後ろで見ていた数人の男が正気に戻って、悲鳴を上げて逃げ出そうとする。
「命令。喉を裂いて自害しろ」
黒い服を着たその男が彼らのほうへ手を伸ばすと、男たちは呻き声をあげながら自らの喉に爪を喰い込ませ、涙を流しながら気道を引き裂いて息絶えた。
一人だけ、術が届かなかったのかそのまま逃げていくのを見て、黒服の男は舌打ちをした。
ロベリアは、息も絶え絶えな中で視線を上げる。
そこにあるのは、黒い上着で体を隠した男、ニヴァリスの姿。
「―――我は運に恵まれたようだが、貴様は運が悪い。できるなら無傷で発見したかったが、これも運命か。ここで魔女と出会えたのは、僥倖だな」
そう言って、ニヴァリスはロベリアに手を伸ばした。
その手が触れる間際、ロベリアの姿は風のように現れた何者かに連れ去られる。
寸での所まで彼女に近付いていたニヴァリスは、その魔女の力に触れることは叶わないまま、『何者か』が消えていった先を眺めた。
誰の目にもつかないような、人ひとりが漸く入り込めるような家屋の隙間。
必死の思いでそこまで逃げ込んだヨナは、泣き喚くロベリアをどうにか落ち着かせようと死に物狂いで声を掛け続けていた。
「ロビィ、ロビィ!私よ、ヨナだよ!もう大丈夫だから、お願い落ち着いて!」
突然捕まえられ暗い場所へと引き込まれたことが余程怖かったのか、直前の地獄絵図が今になって恐ろしくなったのか。
兎にも角にも、ロベリアは化け物にでも襲われているかの如く悲鳴を上げ、ヨナの身体を蹴りつけてはその腕から逃げ出そうとしていた。
幾ら声を掛けても錯乱しきったままのロベリアの様子に釣られて、ヨナの心も乱されて、次第に涙が零れ始める。
「お願い、お願いだから。大丈夫だから、私を見て」
一瞬だけ叫ぶのをやめて、ロベリアはヨナの顔を見る。
―――ただ、何故か。
彼女は尚も藻掻くのをやめず、ヨナの腕を振り払おうと必死に手足を振り回した。
「ロビィ!?私だよ、ねえ!」
「離して、離して!痛いのは嫌、帰るの、お家に帰るの!」
「分かるでしょ、私だよ!ねえ、忘れ―――」
そこまで言いいかけて、ヨナは漸く事の重大さに気が付く。
「―――忘れちゃったの」
返事はなく、ロベリアはまだ彼女の身体を蹴りつけた。
ヨナの腕の力が抜けた拍子に、ロベリアは彼女の腕を振り解く。
「待って、待って」
必死に縋りついて、彼女はロベリアを引き留める。
身体を抱きかかえられると、ロベリアはまたヨナの髪を引っ張り、腹部を蹴りつけて必死に逃亡を図った。
「助けて、助けて―――お母さん!」
「私がお母さんだから!」
ヨナが咄嗟に叫んだその言葉で、ロベリアは水を掛けられたように黙り込んだ。
「私がお母さんだから。大丈夫だよ、もう痛いのも治してあげるから、落ち着いて。お願い」
「…」
「いい子だね、もう大丈夫だよ」
まだ恐怖が抜けない表情のまま、ロベリアは自分を抱きかかえるその人にしがみつく。
「お家に、帰らせて。怖いの」
「…」
お家、というのが何処のことを指しているのか、というのは理解していた。
二人が初めてであった、あの村の古びた小屋。
ただ、まだ彼女にはその決断はできなくて。
「帰らせてあげるよ。でも、もう少しだけ待っていて。あなたが自分の力で生きていけるようになったら、その時にはきっと帰らせてあげるから」
そんな叶うかわからない約束をして、彼女はロベリアを今の住み処へと連れ帰ることを選んだ。




