6-10 ただいま
ガランサスは冥界に放り込まれた。
主を求める影の獣に取り込まれ、冥界の中に複製された魔女の里に落とされ。
期せずして、かつてアゼリアと共に訪れたその深海のような森に横たわり、天空から差し込む木漏れ日に目を奪われていた。
「…」
ほんの僅かな時間だけ、思考を止める。
すぐに、やるべきことがあると気が付いて、身体を起こす。
―――冥界の魔女に会いに行こう。
冥界の箱は紛失した。アゼリアの神格を持つ魔女も連れていない。
それでも、彼はエフタの作り上げたものを奪い、作り直そうとする野望を貫こうとしていた。
虚の冥界を新世界に変え、既存の世界に上書きして、自身がその世界の神に成るために。
それが、エフタの理想を、得るべき全ての『知』を消し去る行為だと気が付きもせずに。
宙に浮かぶ木の階段を上り、距離感を見失うような大木に渡された足場の上の家屋を覗き込む。
その殆どには、誰も居ない。
歌声もない。
異様な喪失感を覚えるような静寂の中で、最奥まで辿り着いた彼は、冥界の魔女がいるであろう扉の先へ、そのまま足を進めた。
視線の先、一人の子供が顔を押さえて蹲っている。
苦しそうに、息を切らして肩を揺らす。
周囲には、心配しているのか、見張っているのか、影の魔女が何人も、何もしないで棒立ちしている。
眉一つ動かすことなく、彼はその子供の前に屈んで、肩に手をかけて声をかける。
「大丈夫かい」
子供は小さな声で答える。
「苦しいの。怖いの」
「話してごらん。人に言えば、辛い気持ちもずっと楽になるよ」
「みんなが、私が作ったものを偽物だというの。なのに、私の大事なものを奪おうとする。私にはもう何も無いのに、それでも失われていくの。それが怖いの、恐ろしいの」
顔を上げないままで話す子供の言葉を聞いて、少し黙ってからガランサスは返事をする。
「君は何も失っていないよ。大丈夫、全部そこにある。ただ、少し見えづらい所にあるだけなんだ。拾いに行こう、きっと取り戻せる」
「取り戻せない、みんな失われてしまったの」
「信じて、僕なら君の味方になれるよ」
虚の言葉。
それは、彼女が厄災の魔女と戦って、そして討ち滅ぼされることを望む言葉。
決して、ディアスシアを救うための言葉ではない。
「きっとまたあの子が私を襲いに来るわ。外は怖い、私はここにいたい」
「戦わないと取り戻せないものがある」
「お父様も帰って来ない。もう、何も私には無い」
「大丈夫、君の周りには沢山の友達がいるじゃないか」
周囲に立つ影の魔女を見渡す。
彼女達は反応しない。
「偽物なの。みんな私が作った偽物なの。友達じゃない、友達じゃ―――…偽物?」
空気が変わる。
彼女の声色が一変する。
「偽物じゃないわ、みんな私の友達、お誕生日のケーキだって作ったの」
僅かに、周囲の魔女達が身構えるのが視界の端に見える。
唐突に、不具合でも起こしたように様子が変わった彼女に、今まで落ち着き払っていたガランサスも僅かに身構える。
「お友達よ、みんなで一緒に遊ぶの。そこにいるわ。アゼリア?どこにいるの。ずっと一緒に遊んでくれていたでしょう。あの子は偽物?本物はどこにいるの?」
声が空間そのものから聞こえてくる。
ディアスシアが顔を上げる。
目玉がおかしなところについている。
顔の色が視認できない。
腕の位置も、首の向きも徐々に原型を失っていく。
「遊ぼう、どこにいるの。お友達でしょう?お顔がどうして見えないの、箱に全部詰め込むの。明日は会いに来られないの、どうして、どうして」
壁の軋む音が聞こえる。
何か吸ってはいけない毒のようなものが広がっていくのを肌で感じる。
ガランサスは立ち上がって数歩下がった。
ああ、そうか、と目を見開く。
「どこか、僕は君を信じてしまっていたんだ」
少女だったものが、形を失って大きくなっていく。
「これが、ヒトとして扱えると、どうして思い込んでしまったんだ。君が作ったものなのだから、きっと、騙せるほどにはまともな物なのだろうと。そう、考えてしまっていた」
留まる事もなく、彼の目の前で、化け物は尚も異形に変わっていく。
子供として保たれていた自我は、親を失って只の人型の獣に変わっていく。
壁や窓から、目や腕が生えてくる。
「僕が触れたのがいけなかったのか?君の作ったものに水を差したのは僕だったのか、エフタ。僕は、君が間違って作ったものを直してやろうと、そう思っていたのに」
彼よりも大きく育った呪いが、彼を覆うように広がっていく。
彼女が暮らした小屋も、それを支える大木も、空も、全てが黒く染まっていく。
影の魔女達は逃げ去って、逃げ遅れた彼だけが、更に呪いの深層に繋がる影に呑まれて消えた。
地に吸われるように、苦しむ瞬間すらなくその姿は見えなくなる。
里の全ては呑まれて、呪いに変わる。
冥界の全ては染まり、その外側にまで溢れ出して。
刺激され、限界を超えたそれは、現世でも世界を襲うほどの巨大な影となって姿を現していた。
伝承に伝わる、魔女の呪いを再現するように膨れていく。
それはどの都市からも観測できるほどに大きく、まさしく世界の終わりを体現するに相応しい代物になって暗雲を広める。
影の魔女達は、より一層激しく辺りを走り回る。
扉を壊し、意味もなく木箱を開け、壁を切り開いて何かを探す。
あの呪いを只の子供に戻してくれと、悲鳴を上げて誰かを呼び続ける。
烏の鳴き声が響く。
この世の終わりだと、街の人々は逃げ惑った。
アゼリアの街近郊、巨大な呪いの魔女となったディアスシアの足元。
始まりの家の中から、璃空とシリルは窓の外のそれを見上げる。
部屋の外、風の吹き荒れる庭先に立つニヴァリスもそれを見上げて、感情のない獣のような笑顔を浮かべる。
「出遅れたが、まだ冥界はそこにある。覚悟を決めろ、魔女の里に辿り着きたいのなら」
声など聞こえない距離に居るはずのニヴァリスの声が、璃空の耳に届く。
「神の心臓、冥界の箱。そしてそれを御するエフタの意志。捧げる必要はない、ただ在ればいい。我に従い、正しき冥界への道を示せ」
聞こえてくる言葉と、彼が与えた古い魔導書に意識を向けて、璃空は何かを唱え始める。
紡ぐ言の葉は、全ての魔女の名前。
名を呼ばれた魔女は、影の姿のままで、その家を囲うように現れ、並び始める。
戸惑いながら、ただ何かに気が付いたように、一人、また一人と手を繋ぎ始める。
長い、長い時間をかけて呼び続ける。
その間にも風は吹き荒れて、暗雲から落ちる雷は街を壊す。
彼女達に降りかかろうとする瓦礫や硝子を、ニヴァリスが魔術で跳ね飛ばして防ぐ。
呼ぶ名前に、現世の魔女の名は無い。
エリアの名もまた、呼ばれることは無い。
「正しき冥界へ、真なる魔女の里への道を示せ。アゼリアの名のもとに」
冥界の門が開く。
手を繋いだ魔女達は、その門ヘ歩き出した璃空と、手を引かれて共に歩くシリルの二人を歓迎するように囲う。
ニヴァリスはただ遠くから眺め、進んでいく二人を見送る。
「向こうへ着いたら、もうひとり―――いや、ふたり。大切な魔女の名前を呼ぼう」
璃空がそう言うと、意味を理解しているのかどうか、わからないような顔でシリルが笑い返した。
二人の姿が消えていく。
このどうにもならなかった世界を置いて、呪いの向こうにある本当の魔女の里へ。
この世の全ての不幸を引き連れて、彼女達は自分たちだけの世界に身を捧げる道を選んで、歩みを進めた。




