6-05 はじまりのまえ
あの苦しいだけのやり取りを繰り返した後。
私は、いつの間にか夢の中にいた。
忌々しい奴隷時代の記憶から逃げ出して、足枷を付けたままで走り続けた先に見えた、見知らぬ木造の館。
はじめて来たはずの場所。
そこにダリアやドニの姿はなくて、その代わりに、ただちっぽけに佇んでいるだけの、プラチナブロンドの髪の女の子がいた。
見覚えがある女の子。
私が、羨んで、その幸せの全てを奪った女の子。
でも、一度見た姿よりも、小さい気がした。
私よりも、ずっと。
―――そっか。
これは、私の記憶じゃない。
私は、あの子の、昔の思い出に迷い込んでいたんだ。
◇ ◆ ◇
エリアと呼んで愛されていたあの子。
あの子には、一緒に住んでいるお母さんがいた。
優しい、優しい目をした女の人。
夜に眠るときには子守唄を聞かせてくれて、ご飯を食べるときには一緒に居てくれて。
そんな人が一緒に居てくれることが、羨ましくてたまらなかった。
奪いたくて仕方がなかった。
こわい人たちに閉じ込められていた私には、足枷で動けなくされていた私には。
それは、とっても理想的で、素敵で、手に入れたくて仕方のない光景だった。
「偉いね。良く出来たね、いい子だねエリアは」
にこにこと笑うあの子は、今日も嬉しそうに頭を撫でられていた。
お勉強を教えられて、難しそうな本を机に置いて、万年筆を右手に持って。
私には読めない難しい文字を写し書きして、今日も『お母さん』に褒められていた。
「今日は何が食べたい?この間、いっしょに作ったシチューにする?」
あの子は、また嬉しそうな顔で、こくこくと首を何度も縦に振った。
いいな、私も食べてみたいな。
そうやって呟いてみるけど、あの子には聞こえないみたいで、ずっとにこにこしていて。
腹立たしかった。
ある日には、そのお母さんはあの子を家に残して、お買い物をしてくる、と言って扉の外に出て行った。あの子を家に一人で残して、あの笑顔のままで。
その度に、あの子は寂しそうな顔をして、右手を振って、その扉をいつまでも眺めていた。
馬鹿だなあ、おかしいな。
そんな扉、壊してしまえばいいのに。
一緒に行きたいなら、そう伝えたらいいのに。
あの子は、何回同じことを繰り返しても、扉の外に出かけようとはしなかった。
じっと椅子の上に座ったままで、ぬいぐるみを抱きしめて、動けない羊のように蹲ったままで引きこもっていた。
ふと、やってみたくなったんだ。
私は、椅子から降りてどこかへ歩こうとするあの子に、足をかけて転ばせてみることにした。
触れられないと思っていたその子は、私の足に躓いて、大きな音を立てて、木の床に身体をぶつけて倒れ込んだ。
私は驚いたし、当然その子も驚いていた。
辺りを見回して、私を見つけて。
今までと同じようなまん丸な目をして、私に話しかけてきた。
「…あなたは、だあれ?」
「…」
私は、声が出せると思ってなくて。
私はなんていうんだっけ、思い出せないな、そう思っているうちに、あの子のほうが先に口を開いていた。
「私のお友達?」
お友達。
その呼び方がなんだか嬉しくて、それでいっか、と思って私は頷いた。
あの子は、今までお母さんに向けていた笑顔を、私にも向けた。向けてくれた。
「お友達、お友達!遊ぼう、一緒に遊ぼう!」
跳びはねて喜ぶ姿が何だか面白くて、私も嬉しくなって。
いいよ、遊ぼう、そうやって口を動かした。
声は聞こえなくても、あの子は私が何を言いたいのかをわかってくれているような気がした。
その日から、私達はお友達になった。
あの子にしか見えない、特別なお友達。
何度も、何度も一緒に遊び続けた。
あの子のお母さんは、私のことが見えなかったみたいで、気持ちが悪そうに床を見つめていた。
「…そう。大事なお友達ができたのね。大切にしなきゃいけないね」
あの子は、ちょっと悲しそうに羊の耳を垂らしていた。
私はどうでもいいと思っていたけど、あの子は、私とお母さんを会わせたいと思っていたようだったから。
あの子のお母さんは、いつもの優しい笑顔はしていなかった。
それから先、少しずつ、気になるところが増えていった。
あの子が庭で新しく見つけたお花を見せようとしたら、頬を叩かれていた。
勝手に外に出て、腕に傷を増やしていたから。
書斎の奥にあった本を勝手に取り出して、読む前に取り上げられていた。
何故読んではいけないのか、教えても貰えないままで。
最初はどうでもよかったのだけど、日を経るごとに、あの子の泣く声が煩わしくて、仕方が無くなっていった。
頬を叩かれて泣き喚く声が嫌いだった。
お母さんの言う通りに出来ないで、部屋の隅ですすり泣いている声が嫌いだった。
あの子をそうやって悲しませる母親の姿が、少しずつ憎らしく見えていった。
なんで、あんなに酷いことをするんだろう。
やっぱり、大きい人間や魔女は、いずれ悪い心にとり憑かれてしまうんだろうか。
私を売ったり蹴り飛ばしたりした大人達と、おんなじだったんだろうか。
憎くて、思い出すほど憎くて。
「殺しちゃおうよ」と、そう伝えたらあの子は首を横に振った。
嫌だ、どうしてそんなことを言うの、と泣いて嫌がっていた。
聞きたくなかった泣き声を猶更大きくしてしまって、私は失敗したと思いながら耳を塞いだ。
理解できなかった。
嫌いなものは壊せばいいと、欲しいものは奪えばいいと、私はそう教わって来ていたから。
ある日、あの子のお母さんは身体中を傷だらけにして家に帰って来た。
殴られた跡みたいな痣、何かで切られたみたいなぼろぼろの服。
泣きながら駆け寄って来るあの子を折れそうな腕で受け止めて、大丈夫、大丈夫と小さな声で囁いていた。
死んでしまえばいいと思っていたのに、何故だか、それを見ても清々したようには思えなかった。
理解できない何かがあるとしか思えなくて、ただ見ている事しか出来なくて。
その日から、あの子のお母さんは猶更様子がおかしくなっていった。
「食べなさい。これから、いつこういう物を食べなければいけなくなるかわからないんだから」
「嫌だ、気持ち悪い、食べたくない」
「我儘言っては駄目、食べなさい、早く」
よくわからないけど、気持ちの悪いものが皿の上には乗せられていた。
私だって食べたことが無いような、虫や雑草が乗せられたお皿。
あれは、そもそも食べ物じゃないと思った。
「ねえ、お願い、食べて。仕方ないの、こうしないと生きていけないの、理解して、エリア」
「嫌、食べられない!」
あの子は髪を掴まれて、食べたくもない物体の塊を口に押し付けられている。
見覚えのある光景だった。
捕まえられて売られる前の子供達が、あんな顔をしていたのを見ていたから。
やっぱり、あれは悪い大人だったんだ。
殺さないと、壊さないと。
いつも見ているだけだったから、足枷が付いていることを忘れて、私は前に歩こうとした。
足枷についた重りが、じゃらじゃらと音を立てて。
あの子がその音に気が付いて、駄目、と声を上げた。
「食べてよ。お願いだから、あなたのために私は―――」
私は何もしていないのに。
あの子のお母さんは、唐突に血を吐き出して、床に手を突いて倒れ込んでいた。
「お母さん、お母さん!」
あの子がまた、不愉快な声を上げて母親に泣きつく。
呼びかけても、吐き出す血は止まらなくて、ずっと母親は咳き込んでいる。
「食べる、食べるよ。私、食べるから」
必死になりながら、あの子はお皿に手を付けて、涙目になりながら気色悪い物体を飲み込み始める。
時折、胃液みたいなものを吐き出しながら、それも混ざったままで必死に口に放り込んで喉を通していく。
やめて、どうしてそんなことをするの。
そんな私の声は、あの子には届かない。
全部飲み込んで、吐きそうになりながら、また母親に縋りついて、あの子は呼びかけを続けた。
「食べたよ、全部食べたよ!ねえ、お母さん!」
母親は、やっと呼吸が落ち着いてきて、急に気が弱くなったみたいに涙を流し始めて、あの子に縋りつくみたいに抱きついていた。
ごめんね、ごめんねと言いながら泣き続ける。
何がなんだか、わからなかった。
何か、とても見苦しい光景を見せられているということしかわからなくて。
私は、何を敵だと思えばいいのかわからなくなって、ただその二人の様子を眺め続けていた。
痛いとか、苦しいとか、そういうものではない何か。
私よりずっと幸せだと思っていたあの子が、奪い取れるものを沢山持っていると思っていた女の子が、思っていたよりも私みたいな顔をしていたから。
もう、羨ましいだなんて、まるっきり思えなくなっていた。
この気持ちを、どう表せばいいか教えてくれる人は、私の周りには一人もいなかった。




