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9/24

第8話

 学校から電車で数駅。そして駅を降り、田んぼと畑に囲まれた道を一キロほど歩くと、市民プールに着く。し〇むらは駅の近くにあるようだった。


 田畑の向こうに見えるいくつもの白い団地の隙間から、燃えるような夕日が顔を出していた。


綺麗だなー、と思いつつ、何しろ中途半端な田舎なので夕日の本領発揮はできていないような気がする。どこにでもある景色だ。


日中の照りつけるような太陽とは違い、包み込まれるようなじんわりとした熱。左頬が熱かった。俺は駅の方面へ大股歩きで向かいながら、ため息をつく。


 25m泳げてハッピーエンド、ではなかったのか?


 なんだって同級生の下着なんぞを買いに行かなくちゃならんのだ。ぐちぐちと心の中で文句を言う。文句を言わなければこの状況に慣れてしまいそうで、努めて言い続ける。


 視界の先で徐々に大きくなる、ファッションセンターし〇むらの赤い文字。いつも目にしながらも渡ったことのない横断歩道を渡ると、し〇むらは目前に迫った。店の前には広々とした駐車場があるが、車はほとんど停まっていない。


 どこか寂寥感の漂う光景だ。店内に入ると、お客さんは見たところご婦人が数人程度見えるのみ。閑散とした空間に、やけに陽気な音楽が流れていた。


 下着売り場は入り口から離れた場所にあり、男女で隣り合っている。女性用の下着売り場なんて普段覗かないが、改めて見ると案外品ぞろえは豊富なようだ。


 どういうのがいいんだろうな。


 適当に近くにあるのを手に取ってみると、ついているタグが目に入る。ん?えー、びー、しー。……ふと大事なことに気づいた。


 サイズ、聞くの忘れたな。


***


 電話を切る。今坂との会話は遮断され、塩素の匂い漂う熱気の中一人ポツンと立ちすくむ私。ありえない状況のそのありえなさを再確認し、私はその場に座り込み、頭を抱えた。


「ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ」


 同級生の男子に?下着を買ってきてと?お願いしたの私いま?


 頭を掻きむしりたくなる衝動に襲われる。というか事実掻きむしった。狂ってんじゃないの、いや狂ってるのだ。


「嘘嘘嘘ありえないありえないありえない」


「うっせーぞ小娘!」


「ぎゃああああああああああ」


 突然背後から怒号が飛んできて、私は思わずその場で跳ね上がった。そのまま着地に失敗し、足の指がぐにゃりと曲がってこける。痛い。


 床に這いつくばったまま後ろを見ると、そこには水着姿の女性が仁王立ちでこちらを見下ろしていた。信じられない。電話するときに確かに無人を確認したはずなのに。


「突然叫ぶから心臓飛び出るかと思った」


「あ、えっと。すみません.....?」


 立ち上がって改めて向き合うと、この人、すごく美人だ。市民プールは基本的にすっぴんが原則で、プールから上がったばかりの人なんて冴えていないのが当たり前。しかし目の前のこの人は、ひたすらに華やかだ。まつ毛が上がっていなくても、唇に色が乗っていなくても、輝くように美しい。


「美人ね」


「へ?」


 思考を読まれたのかと一瞬疑ったが、そうではない。彼女は私の顔をまじまじと見ていた。どうやら私にかけられた言葉のようだ。嬉しがるべきなのだろうけど、さっきうっせーぞ小娘と怒鳴られたので困惑が先立つ。


 彼女は私より少し背が高く、お団子に束ねられた金色の髪はさっきまでスイムキャップをかぶっていたせいかへにゃりと凹んでいる。プールから上がってそう時間は経っていないようだ。


「.....あの、聞いてました?電話」


恐る恐る尋ねると、彼女は言葉の意味を捉えあぐねるように表情に色を写さない。漫画なら、はて、と顔の横にひらがなで書かれていそうだ。良かった。きっと今更衣室に来たばっかりなのだろう。


 聞いていないのなら、もうこれくらいで会話はやめにしたい。なんだかやけに馴れ馴れしいし、知らない人と世間話をするのは得意ではない。


「それってつまり、君が電話で彼氏に下着を買いに行くように頼んでたのを聞いてたかって話?」


 前言撤回。がっつり聞いていた。そしてなにより、一つ重大な訂正箇所がある。


「彼氏、じゃない」


「え?そなの?」


「ただの、同級生です」


「ただの同級生と一緒に休日にプール?」


「練習.....付き合ってもらってるだけ、です」


 目の前の女性は、ふうんと目を細めて私の顔をじっと見る。その瞳には懐疑の色が混ざっていて、耐えられず顔をそむけた。ほんと、いきなりなんなんだ。


「ま、いいけどね」


 そう言って、彼女は着ていた水着を腰まで降ろし、そのまま足を通して、つまり全裸。あまりにもためらいのないその動きに、こちらに恥じらいが生まれる隙すらない。


 弾力のありそうな小ぶりの胸に、真ん中に縦の谷ができている腹部。鍛え抜かれて、それでいて健康的な、肉体美を体現する身体だ。女の私でも、見惚れてしまう魅力がある。


 彼女は私をちらりと見て、ああそうか脱げないのか、とくすりと笑った。下着を持たない私は、未だスクール水着のままだ。


 肌はすでに一切の湿り気を失ってるが、紺色の水着はまだ少し濡れていて、肌に張り付く感触が正直気持ち悪い。


 彼女はいつの間にか下着をつけ終わっていた。同じブランドのスポブラとパンツを着用すると、それはそれで雑誌のモデルのようにサマになる格好で、目の前の彼女の体を思わず目でなぞってしまう。


 じろじろ見る私に感ずいたのか、彼女はいきなりがばりと振り返った。表情を硬くしながら、内心冷や汗垂らして狼狽える私に、彼女は言った。


「別にいいんだけどね」


「え?」


 何がだろうか。じろじろ見られることが?


「彼氏でも、ただの同級生でも」


 ああ、そっち。


「ただ一つ言いたいのはさ、もうちょっと素直に感謝してもいいんじゃないかってこと」


 感謝。話の流れがいまいち掴めず、曖昧な反応しか返せない。切れ長の目が送る眼光は鋭く、おそらく何か注意を受けているのだろうけど、私の中で湧きあがるのは居心地の悪さのみだ。


「さっきの電話、聞いてる限りだと相手のその同級生?に対してなんか逆ギレしてたろ。それはあんまりじゃないかってこと。人にもの頼む態度としてさ。事情はよく知らないけど、もうちょい言い方ってもんがあるんじゃないかって思った。まあ、あれはあれで聞いてて愉快だったんだけどさ」


 思ったより真っ当な説教を受けた。私は右腕を左手で握り、両腕を体の前に引き寄せる。


 喋りながらも滑らかに衣服を纏っていくその様子は、所謂先生が子供をしかるときのそれではない。口調はあくまで淡々としており、特に責める意図がないことは分かる。ただ思ったことをそのまま口に出しているだけ。


 でも、なんで初対面の人にそんなこと指摘されなきゃいけないの。


 それでも己の中に反抗心が芽生えてやまないのは、しかられているという意識があるから。痛いところを突かれたからだ。論理を無視し、だってだってと喚くのはガキのすることで、自分の中の歪みを認めているのなら素直に反省すればいい。しかし正論が水だとすれば感情は油で、私は掛けられた冷や水をばちんと跳ね除けずにはいられなかった。


「分かってる.....!」


 反論する手立てがないなら、差し出された正論から目を背ける。分かっているのだから、そんなもんはなんの意味もないのだ、と。自分でも子供じみていることは分かっている。そう、分かってる。彼女につられ、申し訳程度の敬語はいつのまにか砕けていた。


「ほお、分かってるのか。分かっててそうなるんなら、その同級生に嫌われたいってことか?」


 彼女はもう着替えを終えていたが、会話をやめる気はなさそうだ。出ていかないの、と問うと、なんか面白そうだから、と半笑いで言われた。面白半分であまりこちらに踏み込んでこないでよ、と泣き叫びたくなるが、考えてみればもう二度と会わない相手な訳で、もう少し肩の力を抜いてもいいのだろうか。


「嫌われたいっていうか、あまり近づきたくないだけよ」


「へえ、近づきたくないときたか。それは何で?」


 何で。何でだろう。彼女の言葉に真剣に向き合うのも癪だが、自分に問いかけてしまう。なぜ私は今坂に近づきたくない。


 私が彼に対して、意図的に強い言葉を使っているのは自覚していた。その意図に向き合うことは逃げていたけれど。私は口下手だけど、暴言が趣味な訳ではない。一定以上彼に近づくことを避けていたのだ。だって、


「怖い、から」


「へー、怖い人なんだ」


「そうじゃないの。怖いのは......私自身で」


「なにそれ」


「おかしくなっちゃうから。私が」


 そうだ。彼といると、私はおかしくなる。私は、私が想定している私を超えてしまう。想定外はいつも怖い。彼の存在が心の中に侵食して、燃え広がって、焼け焦げて、私はどんどん醜くて無様になっていく。そんなのいやだ。


「おかしくなっちゃう?どゆこと好きってこと」


 私は思わず彼女を睨んだ。何で睨むのさ、と抗議の言葉が入ってくる耳が燃えそうで、違うとは叫べなかった。違うのに。違うけど、頼むから言葉にはしないでほしかった。


 分かっている。自分の感情なんて自分が一番分かっている。感情を言葉にすると自分への理解が進むなんて聞くけれど、でも感情は言葉じゃない。せりあがって止まらない熱も、鼓膜がじんじんする感覚も、心臓が重くなったり軽くなったりする不愉快さも私にしか分からないし、私は分かっていたから今坂に近づきたくなかったのだ。


 鋭い言葉を吐いて嫌われるならその方がいいとさえ思っている。一人になるのは慣れている。冷たさは麻痺するし、近づいて大火傷するよりずっとましだ。それなのに、あの人はいつまでたっても優しい。私は気付けば彼に甘えてしまう。


 水泳の練習だって、きっと彼を頼らずとも上手くいく方法はあった。最初に溺れたアレは.....まあ仕方がないけれど。今だって、仮に自分一人しかいなかったら私自身でどうにかしていたはずだ。


 愛嬌で人間関係をなだらかにする方法も模索せぬままこの年になって、粉砕する勇気のない意気地なしのくせに、体だけは湧きあがる熱に従って暴走を始める。その結果、暴言でバランスを取ろうとする不格好な人間。


「でもさあ、向こうも向こうだよね。ただの同級生の女の子に下着買ってきてって言われて普通ほいほい行くかね。相当君ら仲いいんだね」


「.....昔からの知り合いなの」


「へー幼馴染てやつ」


「まあ、ええ」


「らぶこめええ~」


 めええ~。羊の真似を始めた。おかしな人だ。


 私は彼と出会った頃、小学生時代の日々を回顧する。思えば、彼は私にとって初めての他者だ。厳密に言えば違うのかもしれないけれど、しかしあの頃の私はあまりにもものを知らぬ子供だったから。他人が自分と違う熱を持っていること、人と関わることで容易く形を変えてしまうくらい、自分の心が柔らかかったこと。教えてくれたのはきっと彼だ。


「幼馴染同士のラブコメがいっちゃん良い」


「ラブコメじゃないから」


「うそん、好きなくせに」


「す、好きじゃ.....ぬ」


「ぬってなに」


 でも、この先私たちはどうなるのだろう。私は想像する。テストが終われば、きっと私たちの関わりなど儚く消える。彼は善意で教えてくれているのだから。最近振られたらしいが、新しい彼女だってすぐにできる。新しい彼女.....。そして、卒業したら、それっきり?


 鼻の奥が絞られたように痛くなる。喉の奥も痛い。あれどっちも一緒か?目の奥も痛くなる。記憶も痛くて、過去も未来も痛い。私の中の彼が占める範囲が痛い。大きすぎるのだ。思った何倍も私は彼で構成されていて、それを実感すると鼻の奥に針がツンと刺さったようで、さらに痛い。


 高校生になって、平坦で涼やかで凪いだ日々に、廊下で談笑する彼の姿を見つけたとき、私はどれだけ偶然を呪ったか。奥底に封印した過去が疼きだし、どれだけ苦しかったか。.....それでも私、


「うぅ.....」


 吐き出す息に混じって掠れた声が漏れる。


 ああ、そうだ。それでもあの時私、信じられないくらい嬉しかったんだ。


「うぐぅぅ.....」


「え怖い怖い怖い。なんで急に泣き出した?」


 喉が痙攣するように震えて、呼吸が不規則に刻まれる。溢れてやまない感情が顔面まで登ってきて、涙となって落ちていく。視界は滲んで、輪郭ももう捉えられない。


「うえぇぇぇ.....」


「まじでなんなん.....」


 お姉さんは引いている。当たり前だ。


 その時、携帯が鳴った。


***


 大は小を兼ねると言うけれど、こればっかりはそうではないだろう。


 一度、メッセージアプリを介して聞こうと思った。


「ブラジャーのサイズを教えてください」


 文面がキモすぎて、文字を打って速攻消した。いかなる理由があれど、こんな文をアプリ上に残してはいけない。


 なので、音声通話を使うことにした。


「はあいもしもし」


 想定していた声と随分と違う。白波瀬はここ十分ほどで声変りをしたのだろうか。いやそんなわけ。声質もさることながら、テンションもいやに高い。かけ間違いを疑ったが、メッセージアプリの音声通話なのだから、そんなはずはない。


「.....どちらさまでしょうか」


「通りすがりのお姉さん。大学生」


「はあ」


「君が下着買いの少年か」


「そんなマッチ売りの少女みたいな.....いやそうじゃなくて」


 こちらの事情は知っているらしい。ますます不気味だ。


「白波瀬はどうしたんですか」


「シラハセ?ああ、この子白波瀬ちゃんって言うのね」


 どうやら白波瀬は近くにいるらしい。電話に出られない状況なのだろうか。もしかして体調不良?悪い想像が募る。


「白波瀬ちゃんは今超情緒不安定だから、私が代わりに出ました」


「情緒不安定?」


「うん。ああ、で、なんだ。事情ならこっちで聞くが?もしかしてカップ数聞くの忘れたとか?」


 背筋に悪寒が走る。なんでビンゴなのだ。口ごもる俺に、電話の向こうで彼女が快活に笑った。


「あれ、もしかしてほんとにそうなのか?いやあ、確かにサイズ間違うと意味ないもんねえ。わざわざ電話をかける勇気あるシャイボーイに拍手。そういやその白波瀬ちゃんって子、話聞いてる限り多分君のことすもご」


 突然音声が途切れ、数秒後何やらどたばたもごごと不穏な音が響く。


「いいろくじゅうご!」


 そんな白波瀬の絶叫が耳をつんざいたかと思うと、音声通話はぷつりと切れた。


 いいろくじゅうご?ああ、E65。


 その後、購入した下着を更衣室の前へ持っていくと、やけに美人な金髪の女性が俺のことを待ち構えていた。知らない人だが、向こうは俺のことを認識しているらしい。不審に思っていると、目の前の女性が口を開く。


「君が下着買いの少年か」


「そんなマッチ売りの少女みたいな.....いやそうじゃなくて。電話に出た方はあなたですか」


「そうとも。それより今の、スパイの合言葉みたいでかっこよかったね。これから使ってかない?」


 俺とあなたの間に”これから”があるのか?いやそもそも。


「あなたは誰なんですか」


「だから通りすがりのお姉さんだってばよ。実は前からちょくちょくプールで君らの練習風景は観察してたんだけどね、気づいてなかったかな。白波瀬ちゃんとは更衣室で邂逅したの。最初はちょっと言いたいこと言って帰るつもりだったんだけどさあ、なんかいつのまにか会話に興じちゃって」


 白波瀬と会話に興じる?そんな高難易度のことをこの方はやってのけたのか。


「打てば響くって感じだったな」


「はあ」


「ちょろかったぜ」


「はあ?」


 また訳の分からないことを言う。彼女は俺の持っていた、下着の入っているビニール袋を奪い取って女子更衣室に帰っていった。


***


「ごめん」


 ごめん。そう言われた気がする。姿だけでなく、声までもが夜闇に紛れて曖昧だ。前を歩く白波瀬に一歩近づくと、背中に流れる長い黒髪からほのかに塩素の匂いがした。


「何に?」


 ごめんと言われた可能性に賭けてそう返すと、


「色々.....諸々よ」


 諸々。下着を買いに行かされたこととか?確かにそれは謝罪に値することだ。しかしまあ、もうそれは今後言及しない方が良いだろう。幼馴染とはいえ男女。水に流してしまおう。これ以上謝られても反応に困る。


「私、いつも態度悪いし」


 その言葉は、本人は聞かせるつもりのなかったものなのかもしれない。その場にぽとんと落とすようなか細い声に、俺は思わず、


「俺は白波瀬といて結構楽しいけど」


 口をついて出た言葉は、すでに後悔の予感を孕んでいた。そして数秒後、やっぱり後悔した。言わなきゃよかった。身にまとう暗闇はどこか非現実的で、本音が勝手に引き出される。


 白波瀬は何も答えない。聞こえなかったのだろうか。それならいいけれど。俺の視界に映るのは揺れる黒髪のみで、感情は読み取れなかった。俺は持っている缶ジュースを一口飲んだ。オレンジの甘酸っぱい風味が頬の内側を刺激する。前を歩く白波瀬も、同じものを持っている。


 随分と歩き続けたように思う。いつも通る道なのに、太陽が沈むと様相は随分と異なるものだ。田舎だとは思っていたけれど、こうも暗くなるか。


 駅の明かりが見えると、世界は急に現実味を帯びてくる。ほっとしたような、つまらないような。


「じゃあ、また」


 ここから、俺は電車で。白波瀬は徒歩で家へ帰る。


「ねえ」


 駅の階段へ足を一歩踏み出した俺に、白波瀬が声を掛けた。


「.....黒いのが、好きなの?」


「え」


「ごめん死ね」


 謝罪と共に死を願われた。振り返ると白波瀬はもういない。駅の向かいから伸びる小道に、髪を振り乱して全力ダッシュする女の子の姿がちらりと見えた。


 白波瀬のサイズのものを買おうと思うと、あまり選択の余地はなかったということを必ず伝えなければいけない。

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