第9話
小学二年生になり、同じクラスになった白波瀬という女子は、例えるならば氷の様だった。声も視線も冷たくて、みんな触れるのを怖がっている。
一年のころと比べて、クラスはみんな仲良し.....という感じでもなくなってきた。仲良しではあるのだが、すごく仲良しな友達と、結構仲良しな友達と、少し仲良しな友達がいて、話さない子も数人いる。そういう感じだ。
白波瀬は、誰ともどんな友達でもなかった。ずっと一人でいて、休み時間も運動場に来ない。教室でお喋りもしないし、どこにいるのかも分からない。もしかしたら図書室にいるのかもしれない。
同じクラスの子をみんな友達と呼ぶなら白波瀬も友達だけど、でもそういうことじゃない気がする。もう幼稚園生じゃないんだし。
「白波瀬さんってどこの幼稚園から来たんだろー?」
「知らなーい」
「どこに住んでるんだろ」
「それも知らなーい」
「参観日にさ、白波瀬さんのお母さんもお父さんもさ、来てなかったらしーよ」
「えーなんで」
「知らなーい」
「かてーのじじょーってやつだろ」
「なにそれ?」
机の横でみんながそんなことを話していたので、
「そんなに気になるなら本人に聞けばいいじゃん」
と言うと、
「えーやだよ怖い」
「無視されるかもしんないじゃん」
「そんな言うなら佐が聞きに行けよー」
こんな風に返されたので、じゃあ聞いてやるよと立ち上がって白波瀬の席の近くに行ったものの、結局足がすくんでUターンして帰ってきてしまった。死ぬほど馬鹿にされた。恥ずかしかった。
***
一生の不覚だった。八年生きてきてこんなに悔しい経験はない。
前の晩、母さんに準備を促され、水泳バッグに水着を詰め込んだところまでは覚えている。そこから俺、どこに置いたっけ。しかし考えても仕方ない。今目の前にある広い広いプールに、俺は入ることができない。それは決定された事実だった。
きらきらと光が散ったような水面があまりにも魅力的だ。水のたっぷり張られたプールは、俺たちが入るのをまだかまだかと待ち構えている。それに、水泳は俺の得意分野。せっかくみんなに自慢するチャンスだったのに。水着さえ忘れてこなければ。消毒用のシャワーの横で、俺はプールをぎりりと睨む。
「残念ねえ、カードにハンコも押してもらったのにね」
黒い日よけ防止をかぶって、アームカバーを付けた先生は、何だかいつもより老けて見えてちょっと怖い。でも声はいつもの先生だった。
今日は母さんがいつもより早く仕事に行って、そのせいで俺に忘れてるよと声を掛けてくれる人は誰もいなかったのだ。先生にそのことを訴えると、お母さんのせいにしちゃだめよと釘を刺された。その通りだと思う。
「今日は見学、ふたりだけ?」
先生の声に辺りを見回すと、俺の隣にはいつのまにか、ペットボトルを手にした白波瀬がいる。制服姿が俺とお揃いだ。怪我をしているようには見えないが、なんで見学なんだろう。もしや俺と同じか?
聞いてみたかったけれど、そのツンとした冷たい横顔には、やっぱり話しかけることができなかった。
「見学の人は、プールサイドの端っこの、ほらあそこ。屋根があるでしょ?」
先生は今いる場所の反対方向、プールを挟んで対角の場所を指さした。白い骨組みと青い布で出来た屋根の下には薄暗く影ができている。
「あそこで見学してもらいます」
なんだか特別っぽくてかっこいい。そう思ってしまったのは先生には内緒だ。プールに入れない悲しさが少しだけ和らいだ。
「先生ちょっと準備があるから、先に二人で屋根の方移動しててくれる?」
先生の言葉に頷き、俺達二人は歩き出す。白波瀬は俺の前を歩く。背中まで伸びた黒髪はさらさらで、触ったらさぞ気持ちいいんだろうなーと思った。
「なあ、」
三歩ほど前にいる白波瀬に、勇気を出して声を掛けてみる。
「俺は水着忘れたんだけどさあ、そっちはなんで今日.....んん?」
白波瀬の手からペットボトルが落ちた。ころころと転がり、俺の足元まで。中に入ったお茶がたぷんと揺れて、上の方に白く泡がたまっている。
「なあー、ペットボトル落ち.....」
屈んで、ペットボトルを拾う。渡そうと顔を上げた俺が見たものは、一歩、二歩、と足元がおぼつかずよろける白波瀬の姿だった。大丈夫かーと声を掛けようとしたそのとき、ずるりと足を滑らせ、目の前で白波瀬はプールに落ちた。制服のまま。
え?なんでだ。
そこから先は、映像を見ているようだった。じたばたする白波瀬ときらきらと飛沫のあがるプールを見て、駆け寄ってくる先生たちの慌てる様子を見て、白波瀬が隣のクラスの男の先生に担がれてどこかへ行くのをただ見ていた。
その間、突っ立ている俺の中はずっとぐるぐるしていて、ああそうか、俺は人があんな風に倒れるのを初めて見たのだ、と気づいた。怖かったのだ、俺は。
「おー佐なにしてんのー」
魚が描かれたラップタオルを体に巻いた友達が、俺のことを覗き込む。見ると、着替えを終えたクラスの子たちが、続々とプールサイドに並び始めている。
「佐なんでペットボトル持ってんの?」
言われて、はっと気づいた。さっき拾ったものが、まだ手の中にあったのだ。これは白波瀬のだ。返さないといけない。
周りを見るが、手の空いた先生は見当たらない。そうしているうちに、授業はもうそろそろ始まってしまいそうだ。
白波瀬は.....どこだろう。ふらついていたし、もしかしたら体調が悪かったのかもしれない。だとしたら保健室にいる可能性は大だ。
俺はこっそりと抜け出し、ペットボトルを握り締めたままその場を去る。
プールの横にはこじんまりした更衣室が並んでいて、その正面には靴箱がある。俺は靴箱から自分の上靴を出し、その中にくちゃくちゃに丸められた靴下を急いで履いて、上靴も履いて、校舎へ向かう。後ろからみんなの掛け声が聞こえた。もう体操が始まっているのだ。
プールから少し離れた場所にある校舎に入ると、眩しい太陽は遮られ、四方八方が薄暗い影になった。なんだかそれにつられ、俺は少し不安になる。勝手に抜け出して、怒られるだろうか。足取りが重くなる。
保健室は二階にある。階段を上っていると、踊り場は比較的明るかった。窓から差し込む光が床に角ばった模様を作っていて、俺は影を選んで踏んだりする。ふと、手に持っているペットボトルを窓からの光に透かしてみる。目に当てる。視界が茶色い。そもそもあんまりはっきり見えなかった。残念。
ペットボトルって珍しいなーと思う。大体みんな水筒だ。俺だってそうだ。最近新しく買ってもらった水筒は、でかくてごつくて重くてカバーは黒地に青色のロゴが入っている。かっこよくていいと思う。
ペットボトルはなんだか大人すぎる。そういう意味でも、白波瀬は変だ。一人だけ筆箱じゃなくてペンケース使ってるし。それも大いなる謎。キャラ物の筆箱とか買ってもらえないのかな。
保健室の前には張り紙が張ってあった。
”三回ノックして、「しつれいします」”
ふむ。従っておくのに越したことはない。握りしめた拳でこんこんこんと扉をたたき、
「し、しつれいしまーす」
そういや、保健室の先生になんて説明するか、考えるのを忘れていた。えらいと褒められる可能性を信じ、恐る恐る扉を開く。薄目をゆっくりと開けると、予想外にもそこに大人はいなかった。というか、見たところ人がいない。
保健室の中に入って、壁に貼ってあるなんかぐろい人体のポスターを眺めていると、奥の方から何やら物音が聞こえる。見ると、いくつかかけられているカーテンのうちの一つが微かに動いている。かと思うと、端からひょっこり体操服姿の女の子が顔を出した。
「あ、白波瀬.....」
いつのまにか着替えていた白波瀬は硬い表情を変えないまま、こくりと頷いた。少しだけ頬が赤いようなきがする。やっぱり体調が悪いのだろうか。
「いない」
「え?」
「保健室の先生。今日」
白波瀬の言葉は短い。でも伝えたいことは分かった。
俺が担任の先生の居場所を聞くと、
「職員室で、電話」
「電話?」
「私、帰るから」
ああなるほど。分かったぞ。白波瀬はやっぱり体調不良なのだ。それでおうちの人に迎えに来てもらうために、今先生が電話をかけている。そういうことだ。
「迎えになんて、来ないと思うけど」
珍しくやや長文を喋ったかと思うと、今度は内容がよく分からない。しかし白波瀬の赤い顔は少し曇っているように見える。教室では見たことない顔だ。新しい顔よ。今の白波瀬は氷と言うより、かき氷。赤いし。
「なんで?」
「仕事だから」
「つまり、白波瀬のお父さんお母さんは仕事が忙しいから迎えに来ない」
白波瀬は頷く。
変だなーと思う。もし俺が学校で熱を出したら、母さんはきっと仕事があっても迎えに来てくれる。会社が遠い父さんはむずいかもしれないけど。母さんがどうしても無理ならお祖母ちゃんが来てくれるだろうし、誰も迎えに来ないなんて想像できない。
かてーのじじょー。友達がそんなことを言っていた。なるほどなあ。じじょーとは、こういうことをいうのか。
白波瀬はカーテンを端まで開ける。そうすると、白波瀬の座るベッドの全貌が見えた。さっきまで気づかなかったが、足元には白波瀬のベージュのランドセルが置かれている。帰る準備は整っているということかあ。
「怪我じゃ、ないの?」
白波瀬が問う。ぱっちりとした目で俺のことを見上げていた。顔は赤いけれど、あまりしんどそうには見えないなと思う。
「え?」
「保健室、怪我したからじゃないの?」
ああ違う違うと首を振る。というか、俺も今まで忘れていた。うっかり。
「これ、俺が拾って返すの忘れてた」
そう言って、手に持っているペットボトルを掲げる。見るとさっきより泡立っている、ごめん。
白波瀬は小さく声を上げ、ペットボトルを受け取る。そしてリュックにしまった後、思い出したかのようにありがとう、と言った。うむ誰にも叱られなくて済んで大満足。
「熱あんの?」
「ちょっと。でもそんなにしんどくない」
「へえ」
保健室には他に誰もいないみたいだ。俺たちが会話をやめると、ほんとうに静かになってしまう。
「俺さあ」
そう話し始めると、白波瀬は不思議そうな顔をした。俺が用事が済んでも出ていかないことに驚いているのだろう。しかし、今の俺はちょっとテンションが高い。先生のいない保健室はレアだし、怖いと思ってた白波瀬は意外と普通に会話ができる。白波瀬ともう少し話したいという気分が強いのだ。
「スイミングに毎週通っててさあ。二年の中ではめちゃくちゃ速いんだけど。この前タイム測ったとき五年の子より速かったし」
「へえ」
「でもさあ。さっき白波瀬がプールに落ちたときさあ、なんか全然俺体動かなくて、それで思ったんだけど、速く泳げるだけじゃ助けられないんだなあって」
それは先ほどからじわじわとせりあがる悔しさだった。水泳にはだれよりも自信があったのに。誰かが溺れたら助けるのは俺だと思っていた。だって俺は泳げるから。速いから。
「だから、俺はもっと頑張る」
そういう決意表明だった。白波瀬は呆気にとられている。まあ突然こんなことを言われてもよく分からないかもしれない。しかし誰かに表明したくてたまらなかったのだ。
「そろそろ帰ろうかな」
そういや俺はこの時間は見学だったのだ。忘れてはいけない。
俺は白波瀬に手を振る。手を振るのは、仲の良い友達みたいでちょっと違うかもしれない。でもお辞儀はもっと違うし、さようならと言葉にするのは先生みたいだ。だからやっぱり手を振った。白波瀬はぎこちなく手を振り返してくれた。
保健室を出てすぐに、職員室から帰ってきた担任の先生と鉢合わせた。
「あれ今坂くん、怪我でもした?」
「いいえ、白波瀬さんに届け物」
澄ましてそう言うと、事情を理解したのかしていないのか、とにかく顔を緩め、ありがとうねと感謝された。感謝は二回目だ。恐れる必要などなかった。拍子抜けだ。
先生が保健室の方へ向かって数秒後、
「ごめんね、やっぱり無理みたいで.....」
保健室の中の声ははっきりとは聞こえなかったけれど、きっと白波瀬の予想通りの結果になってしまったのだろう。
なんだか色々あるんだなあ。でも今日、白波瀬のその色々の、ほんの端っこの部分を知ることができた。それは嬉しいことだ。
今の気持ちは嬉しい、そして楽しみでもある。白波瀬は帰るけれど、俺は今からプールの見学だ。楽しそうにしているみんなを見るのは悔しいけれど、でも楽しい。友達に頼んで足だけプールに浸からせてもらおう。




