第10話
あれから、白波瀬と時々会話をするようになった。と言っても、そのほとんどは俺の方から話しかけているのだけれど。白波瀬との会話の経験値が貯まるたびに、それは白波瀬に話しかける勇気に変換される。
みんなは白波瀬のことを、何考えているのか分からない、と言っている。でもそんなこと言ったら、みんなだって俺の考えてることは分からないだろう。心なんて読めないんだし。
友達にそう言うと、じゃあお前の今考えてること当ててやるよと言われた。
「いいとも」
「お前は今、心の中なんて当てられるわけないと考えている」
驚いた。友達は俺の心を読んだ。
だけどまあ、そんなことはどうでもいいとして。
白波瀬が何を考えているか、俺にだって分からないけれど、でも白波瀬もご飯の前にはお腹が空いたなあと思うだろうし、怪我をしたら痛いと思うだろう。当たり前のことだけど、そういうのをなんとなく実感できるようになってきたのだ。
白波瀬はあまり自分から助けを求めない。でもよく見るとしょっちゅう怪我をしている。この前だって、昼休みのみんなあそびで鬼ごっこをしていると、運動場の端でうずくまっている白波瀬を発見した。
なにしてんのーと声をかけても、なにもしてない、としか返さないので、先ほどからずっと膝を抑えている右手を無理やりどかすと擦り剝けて血だらけになっていた。そういう時は俺が保健室に連れていく。
「なんで怪我してすぐ保健室いかないの?」
そう聞くと、白波瀬はむっと口をつぐんだまま何も答えない。
「俺のセイロンにぐうのでもねないか」
「.....ぐうの音も出ない、だし」
白波瀬は俺よりも賢い。塾には通っていないと言っていたけれど、難しい言葉も知っているし、漢字テストもいつも満点。読書がやっぱりいいのかなあ。
しかし反対に、みんなが当たり前に知っているようなことは知らない。
夏休み前、俺の夏休み計画を披露していると、
「私、海行ったことない」
俺が家族で海に行くと言ったときに、返された言葉だ。これには驚いた。そんな人いるの?俺の家では毎年夏休みに海に行くし、旅館やホテルに泊まったりする。今年は妹の七海ももう三歳だから、一緒に浜辺で遊べるかな。
「なんでだよー、白波瀬なのに」
「どういう意味?」
「白波瀬って苗字、なんか海っぽい。波って入ってるし」
「.....そうかなあ」
「そうだよ。それに白波瀬澪って、四分の三がさんずいじゃん」
算数で習った分数を使って説明してみる。
「.....関係ないと思うけど」
白波瀬は不服そうだ。
以前両親は仕事が忙しいと言っていた。じゃあ夏休みに旅行に行ったりもしないのか。そんな夏休み、なんだかつまらない。
「海に行くとさ、浜辺にさあ、クラゲがいるんだよ」
「クラゲ?浜辺にいるの?」
「そう。死んだクラゲがいて、なんか白くて透明で、ゼリーみたいでぷるぷるしてる」
「へええ」
「でも触っちゃだめだよ。毒があるから」
「え?毒あるの」
「あるよ。うちの父さん、泳いでるときにクラゲに刺された」
ぎゃーーーーっとのけぞり、その時の父さんのものまねをしたら白波瀬はくすくすと笑っていた。笑顔の白波瀬はちょっと珍しい。何度もものまねをしていたら三回目くらいで飽きられた。
「いいなあ、海」
「いいよ、海は。すごい綺麗」
「綺麗なんだ」
「めっちゃ綺麗。白波瀬もいつか行けるといいな」
海かー。白波瀬と一緒に海に行くところを想像した。想像できねー。どんな状況だそれ。でもきっと楽しいだろう。
学年が変わっても白波瀬とは仲良しだ。俺が白波瀬と仲がいいことは徐々に周りにも浸透していった。白波瀬に用事がある奴が俺を介して頼みごとをするときもある。自分で頼めよーとも思うが、しかし誇らしさが勝る。俺だけなのだ。あんな風に笑って会話ができるのは。
誇らしさついでに遊びに誘ってみた。
「今日放課後にさあ、公園いかね?」
いつも遊んでいる友達に塾を理由に断られたので、それなら白波瀬を誘ってみようと思って、誘った。それだけの理由ではないけれど。
白波瀬はきょとんとしつつも頷いてくれた。
「学校の子と放課後に遊ぶの、初めて」
予想はしていたけれど、やっぱり仰天だ。俺がみんなと自転車を乗り回したりアイスを食べたりしている間、白波瀬は何をしているんだろう。
小学校には制服があるので、白波瀬の私服を見るのはその日が初めてだった。待ち合わせの場所に来た白波瀬は、ゆるっとしたTシャツとジーパンに身を包んでいた。よく公園で遊ぶ同級生の女子たちは、みんな肩を出したりスカートが短かったりするので、なるほどちょっと新鮮だ。でも似合っていると思う。
遊具で遊ぶのもほどほどにして、俺は家から持ってきたゲーム機を白波瀬に見せてあげた。以前聞いたら、白波瀬はゲームはトランプやかるたしか知らないと言っていた。俺に言わせれば、そんなものはゲームではない。いやゲームではあるんだけど。
小さい液晶に映る世界を、白波瀬は興味深そうに眺めていた。普段はみんなで集まって通信しながら遊んでいるけれど、今日は一台しかないからそうもいかない。でも、困惑しながらも楽しそうにプレイしてくれたので、大満足だ。俺が好きなものを白波瀬も好きだと言ってくれたら嬉しい。そうじゃなくても嬉しい。
要するに、白波瀬の好きなものや嫌いなものを知ることは嬉しいということだ。
その日は、公園の近くにある駄菓子屋で数分ほど駄菓子を物色し、結局駄菓子屋の前にある自販機でオレンジジュースを買った。
木造の小さい小屋のような店だ。何だかよく分からない古めかしいポスターと、雑然とした薄暗い店内。数十円のお菓子が棚にずらりと並んでいる。
以前母さんに駄菓子屋のことを話すと、まだそんなものが現存しているのかと驚いていた。俺はよく分からない。珍しいものなのだろうか。
白波瀬は物珍しそうにきょろきょろと忙しなく視線を動かしていた。店主のおばあちゃんはそんな白波瀬をいたく気に入り、アイスをちょっとだけ負けてくれた。
あと、白波瀬もオレンジジュースを買っていた。好きなのかな。だとすれば俺と同じだ。
その後も、白波瀬とは何度か放課後に遊んだ。バスに乗ってショッピングモールに行くこともあったし、図書館で勉強を教えてもらうこともあった。
みんなから怖いと恐れられていて、纏う雰囲気もなんだか違う、口数が少なくて謎に包まれた同級生が、紛れもなく俺の友達であるということ。そのくすぐったさはどこか心地よく、そしてそんな自尊心とは関係なしに、俺はただ白波瀬と関わることが何より楽しかった。
***
「麗らか」という言葉はこの日のためにあるのではないかと思うほど、気持ちの良い晴天であった。見上げると、透き通った水色に飛行機雲が薄く伸び、それを背景にした桜の木の枝には、桃色に膨らんだ蕾がちょこんと乗っている。
卒業式を終え、最後のホームルームも終え、校庭では胸に造花を付けた児童とスーツを着た保護者があふれかえっていた。どこかでは涙交じりの声が、またどこかでは楽しそうな歓談の声が聞こえ、小学校という閉じた空間にかけられた魔法が急速に解けていくような変な気分だ。
もちろん感慨もある。これからひと月も経たない間に、俺はとうとう中学生。中学では学ランかあ。窮屈そうだ。
卒業文集では、「長いようで短い六年間」となんとも月並みな表現を使わせてもらったが、実際のところ事実だ。中学生になる実感はまだ追い付かないが、低学年のころなぞもはや覚えてもいない。そういや、白波瀬と出会ったのも低学年、二年生のときだった。
白波瀬はどこだろうか。
見回していると、彼女は存外早く見つかった。うちの両親はまだ担任の先生と話しているみたいだし、卒業のあいさつくらいはしておこうか。きっと彼女は、俺の小学生時代を代表する友達の一人になるのだろうから。
「よっす」
桜の木にもたれかかっている彼女にそう声を掛け、右手を挙げた。彼女は俺の姿を認めると、ほんの少し口角を上げた。
「お疲れ様。ご両親は?」
「今は先生と話してるよ」
白波瀬の両親は?......とは、聞けなかった。見たところ今は一人でいるようだが。もしかしたら今はたまたまいないだけで、だれか他の保護者と話しているだけかもしれない。ホームルームを終え、すぐに帰ったのかもしれない。それか、はたまた。はたまた、の可能性がよぎる限り、それを口にする勇気は出なかった。
結局、白波瀬の家のことは卒業する今になってもよくわからないままだ。幼いころならノリで尋ねられたかもしれない。今となってはそう思うが、当時はそこまで深く関心を持っていなかったし、関心を持ちはじめた頃にはすでに自制心を兼ね備えてしまっていた。なんとなーくうちのような賑やかな家ではないということは分かる。
「中学、同じだよな」
白波瀬は頷く。長い黒髪が肩からさらりと流れた。他の女子に見られるような卒業式用の凝ったヘアアレンジは施されていない。でもシンプルな髪形も似合うからいいと思う。
「俺達の行く中学、なかなかのマンモス校らしいな」
「マンモス校?」
「生徒の人数がばかみたいに多いってことだ」
いくつもの小学校が、一斉にそこにスライドするのだ。クラス数は小学校の比にならない。
「きっともう、同じクラスにはならないわよね」
ぼそりと白波瀬が呟いた。俺は反論を返せなかった。三年間あるのだから可能性は十分ある。けれど、これから通うことになる世界が想像以上に広いものであることを俺はなんとなく予想していた。小学校時代の「おともだち」とは、きっともう、いろんな意味でこれっきりだと。
「正直不安だな。友達出来るかな」
俺がそうこぼすと、白波瀬は即座にできるわよ、と返した。
「あなたならきっとすぐ友達ができる。新しい環境にもすぐ馴染めて、部活でも活躍して、それで、きっと彼女だってできる」
彼女。耳に慣れぬ.....特に、白波瀬の声で聞くと思っていなかったそのワードに、俺は口の形を半円形に歪めてしまう。しかし彼女の顔を見ると、こみ上げた笑いは水を掛けられたように萎んでいった。
真剣な顔をしていた。真剣、というより思いつめた、と言う方が合っているかもしれない。目は伏せられ、固く噛んだ唇はぷるぷると震えている。泣きそうな子供の様にも見えた。
「ねえ」
小さい唇からそう発せられたかすかな声に、俺はうん、と相槌を返す。
「すき」
え?
感情が、そのままぽとりと落ちたようだった。染まっていく頬に、いつかの保健室の姿が重なる。起きている事態がただ事ではないことを理解しながら、俺は聞き返さずにはいられなかった。
「.....なにが」
「今坂が、すき」
周りの声がすっと遠くなる。今にも泣きだしそうに顔を歪めた白波瀬の前で、俺は唾を飲み込むことすら忘れて突っ立っている。こうやって改めて顔をまじまじと見ると、目の前にいる女の子が本当に美人であることに今更気づいた。
思い出をかき集めて、言うべき言葉を探す。本心を伝えたいと思うけれど、本心のありかが分からない。ただ何より、今選択することで俺たちの関係が変わるのが怖い。それだけは確かだった。
「.....俺は、白波瀬のことずっと、友達だと思ってて。これからも、そうなのかと、思っ.....てて」
とにかく何か返答しなければ。その一心だった。乾いた喉で、質量のない言葉を絞り出す。白波瀬の顔が生気を失うのが見えた。
あ。と言う暇もなく、右腕で顔を擦ったかと思うと、白波瀬は俺に背中を向けて校門の方へ駆けていった。
嘘は言っていない。言っていないはずだが、何かを決定的に間違えたことを自覚し、こうして俺の小学校生活は幕を閉じた。
これからも友達でいたいなどとほざいておきながら、結局白波瀬とは三年間クラスが同じになることはなく、友達に戻ることすらできなかった。
その後、俺は申し訳程度の反抗期を経て高校に入学し、今に至る。
***
ちなみに、反抗期は俺は確かに存在したと自負している。どうにもむしゃくしゃして収まらない、居心地の悪い時期があったのだ。母親にそれを話すと、そんなのは反抗期じゃないよとからからと笑われた。
「反抗期ってのはねえ、母親に向かってうるせえばばあって言ったり、壁殴って穴開けたりすることを言うのよ。あんたそんなのなかったでしょ」
確かにそんなことはしていないけれど。反抗期に憧れている訳ではないが、なんだか悔しくてやっておくべきだったかと思う。




