第7話
濡れた水着の入ったビニールのカバンを横に置き、俺は更衣室前のソファーで伸びをした。体が重怠い。プールの後の全身をまろやかに包む疲労感は、しかし嫌いではなかった。よく眠れそうな感じがするし。
プールサイドにいた時間も長かったのに、存外皮膚はふやけて柔らかくなっているようだ。俺は薄く皺の入った指先を擦り合わせる。
衣服に着替えた後、こうして体を落ち着けているとどこか達成感が湧いてくる。一仕事終えた、的な。何故か毎度覚える感覚だが、しかし今回ははっきり達成感と言い切っていいだろう。なんといっても、白波瀬が遂に25mクロールを完遂したのだから!
当の白波瀬は、きっと俺よりも何倍も万感たる思いだろう。元来の容量の良さも無論大きいが、なにより彼女は頑張っていたのだから。更衣室からまだ出てこない彼女を心の中で褒めたたえる。
頑張った人にはご褒美をあげないとな。
そんな言葉が反射で浮かんだ。何度もかけられた言葉。父親の声で再生されたそれは、遠い昔の温かい記憶だった。記憶を探ると、高ぶる感情を抑えながら自販機を見上げたあの光景がよみがえる。
俺が昔通っていたスイミングスクールでは、月に一回進級テストがあった。父親はテストが終わった後は決まって、施設の前にある自販機でジュースを買わせてくれたのだ。テストに受かろうが落ちようが関係なく。
佐は頑張ったんだからな。
そう言って小銭を入れてくれた父親の姿をよく覚えている。もちろんテストに受かれば、それはそれで大層喜んでくれたのだが。
なんてノスタルジックなのだ。気が遠くなりそうだ。
懐かしい記憶に耽りながら顔を上げると、今腰を下ろしているソファーの横にちょうど自販機があることに気づく。
ふむ。せっかく大きい壁を越えた記念なのだから、二人で乾杯くらいはしたいところだ。自販機の品ぞろえを確認する。
しかし、ジュースか。気持ちの大きさに従うならば、今の俺は夕食くらいは奢れるほど満足感に浸っているのだが、それは流石に白波瀬も迷惑だろう。外はもう夕日が差し始めているし。俺の方だってきっと母さんが夕飯を準備してくれているはず。
しっかし、今日の白波瀬は遅い。俺が着替えを終えてから、もう20分は経っている。いつもそれほど時間はかからないのに。
着替えと言えばそういや。数時間前、ここで交わした会話を思い出す。まだ太陽がてっぺんにいた頃だ。更衣室の前で別れる際、彼女はにやりと笑って言った。
「今日の私、着替えがはやいわよ」
どや顔のまま女子更衣室に入っていった白波瀬の白い半袖シャツの裾から、ちらりと黒いキャミソールが見えた.....と、ん?いや、あの時はピンとこなかったが、よく考えてみればあの光沢のある素材はキャミソールではなく水着か?
服の下に水着を着ているから、着替える手間が省ける。だから、”今日の私、着替えがはやい”なのか。確かに今日はやけに更衣室から出てくるのが速かった。なんというか、小学生みたいなアイデアだな。
とはいえ、それは衣服から水着に着替えるときの話。プールから上がれば、替えの下着に着替えなければいけない訳で、時間はいつもと変わらない.....替えの下着?
嫌な予感が胸を掠めたその瞬間、示し合わせたようにカバンの中のスマホが震えた。見ると、メッセージアプリの音声通話から着信。電話主は白波瀬だ。嫌な予感はますます補強されていく。
「はい、今坂ですけど」
「ねえ、女物の下着って、買ったことある?」
電話に出て、開口一番下着の購入履歴を聞かれたのは生まれて初めてだ。予測不可能。飲み物を口に含んでいたら間違いなく吹きだしていただろう。会話を続ける気力は一気に削がれていく。
スマホを捻じり壊したい衝動を抑え、俺は可能な限り冷静に会話を続ける。
「いや、ないけど」
「あらそう、残念ね。彼女さんに下着をプレゼントした経験もないの?」
「ねえよ。高校生でそのプレゼントのチョイスは流石にキモイだろ。いや高校生じゃなくてもキモいけどさ」
「それはそうかもね。でも、女性用の下着について詳しくなるのは大事なことだと思うわ。ほら、下着って繊細なものだから。無知のあまり乱暴に扱って彼女さんに怒られるってことも中にはあるみたいだし」
「ほお」
「サイズとかの仕組みも、よく知らずに失礼なことを言う男性が多いみたいで」
「なるほどな」
「下着について詳しくなるには、まずは自分で実際に買ってみるのが一番だと思うのだけれど、でもほら、なかなかそういう機会ってないじゃない?」
「確かに」
「なんなら、私が今からその機会を提供してあげてもいいんだけど」
「ごめん、つまり何が言いたいんだ」
白波瀬はしばし押し黙った後、さっきとは打って変わってオクターブほど低い声色で、ぽつりと言葉を落とした。
「.....下着、持ってくるの忘れました」
最初からそう言え。いやそもそも忘れてくるなそんなもん。
「仕方ないじゃない、忘れたものは忘れたんだもの!いいわよね、男子は。下着くらい着なくても誰も気にしないんだもの!私も一回試したのよ、試したんだけど。案外下は大丈夫だったのよ、下は。スカートじゃないから。でも上がはちゃめちゃに透けて、」
「皆まで言わんでいい!」
あとなんでこちらに逆ギレしてくるんだ。
「なんで今坂忠告してくれなかったの、下着忘れるなって!」
「知らんわそんなもん、どんな論理で俺の責任問題になるんだよ!?」
「予測しなさいよ、私のポカくらい」
「できるかあほ.....じゃなくて、こんなとこで喧嘩してる場合じゃないだろ。それで、俺はどうすればいいんだよ。何か頼みたくて電話かけたんだろ?」
「う、うん。えっと、今調べたら、ここから徒歩十分くらいの距離にし〇むらがあるみたいで.....」
「俺に買って来いと!?」
「他に手立てなんてないじゃない!つ、つべこべ言わずに買って来なさいよ!」
「はいはい、分かった、分かったから」
電話を切り、俺は地図アプリを開いてし〇むらの位置を確認。こんなときでも冷静に行動している自分に、冷たい目線を送る心の中の俺。しょうがないだろ、このまま放って帰るわけにもいかないんだし。
かくして、今坂佐。17歳、夏。同級生の女子の下着を買いに行くことになった。




