第6話
ぼうっとしていると、空き教室での光景が脳裏に浮かび上がる。昼休みに似つかわしくない、あの空間。こもった匂い、カーテンのついていない窓。そこかしこに溜まった埃が音を吸い込んでいるようで、外の喧騒はすべてはるか遠かった。
目の前に対峙した橘の、焦りを含んだ顔。その後浮気に感ずいたわけではないと気づき、安心しきったあの態度。一応、あれを経て橘は正式に元カノとなった訳だが。
あんな形でよかったのだろうか。
俺の留飲は下がらないし、そもそも俺が白波瀬を好いていると勘違いされたまま、訂正できていない。たまったもんじゃないだろ。俺が白波瀬を......。
「ねえ、聞いてるの?」
冷ややかな声に、意識が現実に引き戻される。声の主を見ると、水面から顔を出した白波瀬だった。不満げに眉を吊り上げ、こちらをきっと睨む。
「ああ、ごめんぼーっとしてた。なんだって?」
俺がそう謝ると、白波瀬はむっとした顔で、テストが楽勝な人はいいわね、とぼやく。こっちも色々あるんだ、と反論したくなるが、橘との一件を白波瀬に話したところで何が解決するわけでもない。あれから数日経っていた。
「だからね、どうしても息継ぎが上手くできないって話をしてるのよ。息苦しくなっちゃって、途中で足ついちゃう。25mなんててんで無理よ」
テストも2週間後に近づき、白波瀬は本格的にクロールの練習に入っていた。まず陸上で腕の動きを入念に確認。クロールは腕を交互に動かし、水を掻いて進む泳法だが、当然ぐるぐる腕を回すだけでは進まない。体を一直線にのばす、けのびの姿勢を整えることが肝要だ。
スイムウォークをするマダムから、あらあらまあまあと向けられるあたたかーい視線にも負けず、顔を赤くしながらプールサイドでエアクロールを続け、そしてとうとう水中での実践に踏み切った訳だが。
「なんか、息継ぎのたびに体がどんどん沈んでいくのよ」
当然、すぐに25m泳げるようにはならなかった。
「ねえ、あなたも座り込んでないでお手本くらい見せてくれてもいいんじゃない」
プールサイドに肘をつき、白波瀬はぐだっと力の抜けた声でそう言う。しかし、そうかもな。俺はどこかはっとした。白波瀬とここに来るのももはや習慣と化しているが、そういやここ数週間、俺自身はこれといって特に泳いでいない。溺れている白波瀬を助けたあの日が最後だった気すらする。
バタ足やけのびくらいは手本として見せたが、それだけだ。基本的には白波瀬の動きにその都度アドバイスをいれたり、練習方法を考えたり.....そんなところ。プールサイドに座っている時間の方が多かったかもしれない。
俺は体育座りのまま、足とお尻を使ってずいずいとプールの方へ近づき、そして足先からプールへ入った。乾いていた肌が、ぬるい水に馴染んでいくのが分かる。水の中に適応していくような、変な感覚。でも好きだ。
隣に並ぶと、白波瀬は頭一つぶんくらい俺より低い。丸く見開いた大きい目で俺を見上げ、泳ぐんだ、と呟いた。手本を見せろと言ったのは誰だ。
「正解の動きを知るのは大切だろ?」
それに、久しぶりにのびのびと水中で体を動かしてみたくなった。水の中は好きだ。重いけれど、息もできないけれど、なにより自由だ。以前近藤にそんなことを話すと、胎内記憶云々とちょいキモイことを言われた。そういう訳じゃないと思うけれど。
とにかく、クロールだ。
俺は両足で壁を蹴った。力強く蹴ると、その分体は弾丸のようにぐんぐん水を押しのけて進む。最高に楽しいが、しかし今の俺は白波瀬専属の水泳講師。ひゃっほいと無我夢中で水を掻くのみではいけない。泳ぐコツは実際に泳いで確かめるのだ。
喉の奥がきゅっと狭くなり、息がそろそろ尽きることを知らせる。俺は腕と共に顔を上げた。息継ぎをする。水の白い粒が跳ねるのを見た。当たり前だが、沈まない。沈まないのはなぜだ。
主な視界はプールの底だ。市民プールの底は水色のタイルになっている。一部分だけタイルは青く、上から見ると青い線が伸びているように見える。それが水越しに、ゆらゆらと揺らいでいた。
泳いでいても景色は変わらず、実際どのくらいのスピードで進んでいるのかは分からない。しかし青い線が途切れ、それで反対側まで辿りついたことに気づく。
ここでプールサイドへ上がるか、ターンをして白波瀬の方へ泳いで戻るか。判断はままならぬまま、プールの壁は指先がかすめそうなほどの距離に近づいた。
無意識に頭を下げ、体を丸める。体は水中で回転し、壁に向いた足がたん、とそれを蹴り、俺の体は元いた方向へ進みだした。
「今坂って泳げたのね」
岸に上がった俺に、白波瀬が呆然とした顔でそう一言。何をいまさら。
「泳げないやつが人に水泳教えるかよ」
「そうだけど.....そうなんだけど、なんか」
白波瀬は何やらぶつぶつと呟き、何故か気まずそうに俺から顔を逸らした。何かを誤魔化すように再びクロールの練習を始める。
「息継ぎするときに、片方の手が下がってる。おそらくそれが沈む原因だ」
レーンの四分の一ほどの距離で足をついた白波瀬にそう声を掛ける。息継ぎするときも、もう片方の手はまっすぐ前に伸ばしたままにするべきだ。白波瀬はへにゃりと水中へ腕が沈むので、体もつられてしまうのだ。
「あと、水中にいるときはプールの底を見た方がいい。白波瀬は多分無意識に前を見ようとしている」
こちらへ歩いてきた白波瀬に、指摘を重ねる。
「わかった。気を付ける」
こくりと頷く白波瀬に、俺は驚きのあまり一瞬言葉を失った。固まった俺に、白波瀬は不思議と不快が混ざった曇天をさあっとよぎらせる。
「え、なに。私なにかおかしなこと言った?」
金縛りの解けた俺は、かくかくと首を振る。
「あ、や。その、あんまりにも素直だったもんで」
いつもなら。
いくつも同時に指摘しないでよ分からないじゃない、とか。私ちゃんとやってたわよ、とか。なによ偉そうに、とか。
なにか一言こちらに文句を言わなければ気が済まなかった白波瀬が、あの白波瀬が。従順にこちらの指摘を飲み込むなんて前代未聞のことだ。
「失礼ね。そこで驚かれるの、ほんとムカつくんだけど」
「いやだって事実だろ。どういう心境の変化だよ?」
白波瀬はうっと言葉を詰まらせる。少しの逡巡に目を泳がせた後、気の進まない様子で口を開いた。
「心境の変化、というか。なんか、さっきあなたが泳いでるの見て、なんとなく」
「なんとなく?」
「ほんとに上手かったんだなー、と」
「疑ってたの.....?」
溺れてる君を助けたのは俺だぞ。恩着せがましいことを言うつもりはないが、せめて俺の泳力は疑わないでくれ。
「そういうわけじゃなくて!でもなんか、思ってたより速かったんだもの。だからその、意外と、けっこー、すごい人に教えてもらってるのかなー、なんて、思ったり?.....思わなかったり?」
どっちなんだい。でも、正直照れる。すごい人、なんて言われて分かりやすく熱くなる頬が情けない。にこやかにそれはどうもありがとう、と返せる器は製造されぬまま水泳をやめてしまった。白波瀬の方を見ると、まるで鏡写しの様に向こうも頬を赤くさせている。
どうも、とこっぱずかしいほど素っ気ない返事をした俺に、うっさい、とこれまた場にそぐわない言葉を白波瀬は返し、会話はかみ合わず、生暖かい空気は滞る。結局、どこかぎくしゃくしたまま白波瀬は練習に戻った。
が、やはり吸収の速度は凄まじい白波瀬である。俺の指摘したポイントを的確に改善し、コツをつかんだのか10m、15m、と距離はどんどん伸びていく。
身体を固くしないこと。できるだけ水中で息を吐ききること。息継ぎの間もバタ足は続けること。恐ろしいほど上達の早い白波瀬を前にしていると感覚が狂うが、俺の指示を正確にその場で再現できるのはあくまで白波瀬の才能だ。さっき褒められたからだろうか、肝に銘じておかないとヤな人間になりそうだ。
「できた.....!」
それからどれだけ時間が経ったろうか。白波瀬は岸に手をつき、水面から顔をあげて肩で息をしながらそう言った。泳いだのだ。25mを。
半分を過ぎたころから形は崩れだし、最後の方は半ば藻掻いていたけれど、それでも一人で25mプールを横断したのだ。
俺の口から乾いた笑いが漏れた。驚いている。信じていなかったわけではないけれど、しかしこんなに早く泳げるようになるとは思ってもみなかった。顔をほころばせる白波瀬を見ると、達成感と高揚感がガソリンの様に心臓に注ぎ込まれていくようだ。
俺は、白波瀬とハイタッチをする。ぱちん、と小気味いい音がその場に響いた。




