第5話
告白は向こうからだった。上ずった声と、伏せられた瞼。緊張からか、やたら何度も髪を耳にかけなおしていたのを覚えている。
「入学した時から今坂君のこと気になってて。......付き合ってほしい、です」
その時、俺は少し迷った。人から好意を告げられるのは初めてではない。しかし実際にお付き合いまで事が進んだ経験はそれまで無かった。
OKを出したのは何故だったろうか。
高校に入り、カップルの数もぐんと増えた。それまで憧れでしかなかった”彼女持ち”は、イケてる高校生活に必要不可欠なノルマとなった......、いや、実際そこまではっきり変容したわけではないけれど、そういう空気が蔓延していたのは事実だ。
目の前にいる彼女、橘葉月がクラス中から”可愛い子”と目されているその人であることは分かっていたし、特段苦手意識も持っていなかった。......それ以外の意識もしていなかったが。
そもそも入学してそう月日は経っておらず、彼女だって大して俺のことを知らなかったはずだが、でも中学生のピュアな恋愛とは勝手が違うのかもしれない。まあそれはそういうもんかと己を納得させて、俺は頷いた。
「付き合おうか」
今考えてみれば、あの時俺は告白を承諾することで何かを乗り越えられるような気がしていたのだと思う。きっとそれが何よりの理由だった。最初から、不誠実なのは俺の方だったのか?
「中学の時にね、告白されて付き合ってた人がいたんだけど。まだ周りにカップルもあんまり居なかったからかな、みんなからすごく揶揄われて......。結局それが原因で別れちゃったんだ。そういうことがあって、だからわたしたちの関係は極力秘密にして欲しいな。いい、かな?」
断る理由は特になかった。これ俺の彼女(笑)とひけらかす趣味は持ち合わせていないし、人前でいちゃつくつもりもなかったし。彼女の言葉の真意は今となっては分からないが、その時の真剣な眼差しに嘘はなかった気がする。
とはいえ、そうなると会える時間は限られてくる。俺たち二人の関係は、主に携帯越しに、また時々の休日の外出で育まれていった。思い返してみると、やはり普通の高校生カップルよりもいくぶんか淡白な付き合いをしていたのは確実だ。
それが原因だったのか?もう少し人目もはばからずにガツガツといくべきだったか?うーむ、考えても無駄なことだ。
彼女は、両親の仲が良好ではないことを気に病んでいた。自分じゃどうしようもないことをどうしようもないと割り切ることも出来ず、時々ため込んだものを吐き出すように泣いていた。彼女の心の支えでありたかったけれど、俺じゃ力不足だっただろうか。
去年の夏、二人でプールに行った。ここ最近白波瀬と通っているあの市民プール、ではない。もっとアミューズメントを追求した、若者カップルが跋扈するレジャープールだ。
同級生に遭遇しないよう、わざわざ県外の施設を選んだ。ちょうどピーク時で、浮き輪が所狭しと敷き詰められているようなプールを見て、二人で苦笑した。
彼女は水着を着ていた。白波瀬が着ているようなスクール水着では、もちろんない。ビキニだ。グラビア雑誌に載っているような刺激的なものではなく、高校一年生が着るに相応しいものだったが、ただお腹の部分が開いていて、彼女はそれをとても恥ずかしがった。へそを抑える彼女に俺はなんて言ったっけ。彼氏っぽいことを言っていた気がするけれど。
流れるプールで手を繋ぎ、水の流れに身を任せ、二人で顔を見合わせては笑った。あの時の俺たちは、なかなか立派にカップルをやっていたと思う。
一年を通して、結局手を繋ぐ以上の接触には進まなかった。彼女が嫌がることはしたくなかったし......いや、それは言い訳か。喧嘩こそしなかったが、付き合っていた時間の半分くらいは惰性だったのかもしれない。
彼女の様子がどこか不自然に映るようになったのは、二年に上がってからのことだ。そしてスマホを覗き見たのが今年の五月、夏に片足踏み入れた頃。休日、彼女の家にお邪魔していた時だった。そして、今に至る。
***
空き教室のドアを開けると、埃っぽい匂いとむんと籠った空気がこちらに押し寄せる。教室の後方に置かれた机には、他のクラスで集められたノートも重ねられており、橘葉月はその横でカーテンのかかった窓に寄りかかって俺のことを待っていた。
橘は俺の開けたドアの音に反応し、スマホから顔を上げる。
「意外と早かったね」
「......うん」
俺はノートの束を机に置き、橘に視線を向ける。
彼女がこうして待っていた理由ももちろん分かっている。この状況で、どうでもいい雑談で済むはずがない。どうする。ここからダッシュでこの部屋から逃げるか?彼女はきっと廊下まで追いかけてはこない。
そんな考えがふっと頭に浮かび、しかし実行する間もなく橘が口を開いた。
「ねえ、理由くらい教えてよ」
橘はスマホを掲げる。パステルの着せ替えで彩られたトーク画面に映っているのは、俺の送った
「ごめん、別れよう」
その文言。
「これで終わりって、ねえ正気?」
正気じゃないのは、お前の方だろ。腹の底から浮かび上がった言葉は、それを口にするのを自制心が止めてしまう。俺は固くなった喉でねばついた唾を飲み込んだ。
何も言わない俺に、橘は苛立ちを隠さない。ずい、と一歩こちらに近づき、大きく大きくため息をつく。はああああ。どんな非難の言葉よりも鋭利にこちらを抉る。主張の少ない胸が、紺色のベストにささやかな影を作っていた。それがため息と共に微かに上下し、何故か俺は恐ろしいと思った。
「あのさ、」
呆れた顔で橘は切り出した。
「別れるのは、もういいよ。どうせこっからやり直すなんて無理だしさ。わたしはもう別に復縁したいって訳じゃない。でもさ、流石にこんなやり方って、あんまり......ほんと、あんまりだよ。そうでしょ?」
俺は頷く。
「理由だけ、教えて。それだけでいいから。わたしが納得できるだけの理由を教えてくれさえすれば、それでいいから」
淡々と、冷静だった。しかしぱちぱちと瞬きはどこかせわしなく、黒く大きい瞳にはほんの少し焦りが滲んでいるようにも見える。俺の気のせいだろうか。
実はスマホを見たんだ。それで浮気相手とのツーショット写真、見つけちゃって。
言ったらどうなるんだろう。プライバシー侵害ね。白波瀬の涼やかな声が頭の中で響く。実は、あの橘のあられもない姿はすでに俺のスマホの中に収められている。証拠写真として。あの時の俺は意外にも冷静だったらしい。しかし、写真フォルダは未だに怖くて開けない。
「......ねえ、もしかしてだけど、」
あまりにも口数の少ない俺を、橘も不審に思ったらしい。顔色をさっと暗くさせ、言いかけたその言葉を、俺は聞きたくなかった。
「他に好きな人ができて」
思わず反射でそう言った。
橘はスローモーションのように、ゆっくりと目を見開く。
「な、なにそ、れー」
声を震わせ、あからさまにほっとした様子の橘に、頭がかっと熱くなる。例の写真をその顔面に突き付けてやりたくなり、俺は拳を痛いほど固く握った。
「他に好きな人?ああ、そっかそうなんだへー。ま、まあいい気はしないけどさ。振られた身だし。でもそれならそうと早く言ってくれてもいいじゃん?なんで黙ってたのさ。......あ、もしかしてだけど、その好きな人って白波瀬さん?」
くるくると舌が回りだした橘から飛び出した予想外のワードに、俺は思わず目を剥く。
「......は、白波瀬?いやなんでそこで白波瀬が出てくんだよ」
「え、だって最近仲良いんでしょ?ちょくちょく一緒に帰ってるって専らのウワサだよ」
ついさっきの、教室での近藤との会話を思い出した。もしかして、思ったより学年中に広まっているのか?面倒なことになったかもしれない。確かに、白波瀬と一緒に帰っているのは事実だ。しかし、
「白波瀬は小学生のときからの友人で、」
「やめといた方がいいと思うけどなー」
俺の言葉を遮って、橘はそう言った。あっけらかんとしたその物言いに、え、と俺の体が硬くなる。橘は完全に気が抜けて、安心している様子だ。近くにあった机にちょんとお尻を乗せて、事も無げに滔々と語りだす。
「これ、元カノからのアドバイスだよ。超有用だから聞いといてね。あのね、白波瀬さんはやめたほうがいい。ヤバい女だって、わたしの女の勘がそう言ってる。だってまずめちゃくちゃ性格悪そうだし。ちょっと話しかけただけなのに睨まれたって、みんな言ってるもん。マトモな人じゃないよ。まあ確かにすんごく美人だけどさあ?でもきっと今坂君騙されてるよ。白波瀬さん、何考えてんのか分かんないもん。都合のいい人間になっちゃダメだよ。今坂君、そういうとこあるから」
は?
喉の奥から、声にならぬ声が漏れる。何を言っているのだ。
「白波瀬の、何を知ってんだよ......」
俺は、俺だけが彼女のことを知っているのに。俺以外の人間が、白波瀬の何を分かっているんだ。
俺の濁った思いも届かず、橘は、
「あーダメだこりゃ、惚れこんじゃってるパターンか」
軽くそう言い、首を振った。
違う。そう言い返そうと一歩踏み出したその時、チャイムの重い音が空き教室に鳴り響く。予鈴だ。
「あー、わたし次移動教室だ。急がなきゃ。んじゃね」
そんな風に軽く言ってのける。元カノとしての振る舞いが憎らしいほど板についている。橘はチャイムの鳴るスピーカーに視線をやった後、短いスカートを翻し、教室から速足で出ていった。
二人の空間はぷつんと終わった。こみ上げる感情の行き場を失くし、俺はただ自分のつま先を見つめる。やるせなさに呼吸が少し乱れる。遠くから生徒の笑い声が聞こえた。俺も教室に戻らなくては。
指先が、さっき置いたノートの束に触れた。手伝ってくれたこと、お礼言ってないな。俺は唇を噛んだ。




