第4話
白波瀬の習得の速さには目を見張るものがある。指導者の手腕かとうぬぼれそうになるがそれは違う。彼女の上達を手伝うのは何より彼女自身の熱意である。
水の中を進む感覚も体が慣れてきたのだろう。自信は上達速度に拍車をかける。今ではビート板を使って器用にすいすいと前へ泳げるようになったし、けのびも上手い。
「25m泳げるだけじゃダメ。せめてB評価くらいは欲しいわ」
A評価はある程度水泳経験がないと獲得できないだろう。そう言うと白波瀬は目標をB評価に定めた。いくらかスムーズに泳ぐことができればおそらくもらえる成績だが、道のりはまだ遠く、テストへのタイムリミットは刻一刻と近づいている。
「平日に練習?」
練習を終えた土曜日の放課後、おずおずと切り出したのは、平日の放課後にも練習ができないかということであった。
ええ、と白波瀬は頷く。
「週末だけじゃまだ不安なの。テストには自信を持って挑みたいもの」
俺は放課後は部活が、と言いそうになって、とうに辞めていることを思い出す。もちろん市民プールは平日でも使用できるし、料金もそう高くない。俺は快諾した。
それ以降、平日にも二日ほど放課後に練習の時間を取ることにした。授業が終わると白波瀬と共に市民プールへ向かう。別に現地集合でも良いけれど、同じクラスなのだからそんなことをする必要もない。
修了のチャイムと同時に俺の席へ来る白波瀬に、訝しげな視線が送られているような気がしなくもない。彼女の容姿は目立つし、何よりあの冷酷無比な白波瀬さんが誰かと親しげであることが皆にとっては意外なのだ。特段表情を変えないのは、見たところ同じ小学校出身の数人のみである。
「なあ佐、お前白波瀬さんと付き合ってんの?」
昼休み、水泳の見学レポートを埋めていた俺にそう声を掛けたのは近藤だった。
窓の外はからっとした晴天だが、数日前に梅雨入りしたとかなんだとか。そうなると、プールが使える今日のような日は貴重になってくる。
俺は書きかけの文に読点を打って、顔を上げた。
「なんでそうなるんだよ」
「なんか最近一緒に帰ってるし」
それは白波瀬の水泳の練習に付き合ってて、とは言えない。秘密にする約束だし、そうでなくとも男女二人きりで放課後にプールなんて冷静に考えたらおかしい。......本当に冷静に考えたらおかしいな。何やってんだ俺。
頭がすっと冷えそうになり、慌てて思考をその場所から離す。真面目に考えたら続けられなくなりそうだ。やめとこう。
「ちょっと用事があってな。幼馴染だし、別に変なことはしてないよ」
「ふうん、変なことはしてない、ねえ」
「ああ」
まあぶっちゃけさ、と近藤は言葉を続ける。
「ちょっと今坂、早く準備しなさい。時間がないのよ。え?借りてた教科書を隣のクラスの人に返す?なんでもっと早くに返さないのよ、そういう約束?知らないわよ」
芝居がかった身振り手振りに、喉から絞り出したような高く作った声。
「なんそれ」
「放課後の白波瀬さんのまね」
「......今教室に本人いなくてよかったな」
「ともかくさ、まあ正直付き合ってるようにはみえないなって話。仲良さそうには見えるけど」
「見えるか?あれで?」
「見えるさ」
近藤は紙パックのコーヒー牛乳をじゅーと吸い、俺の机の上のレポート用紙に目を向けた。
”暑かった。ひどく汗をかいた。水泳部部長はやはりクロールより平泳ぎが上手い”
「ひっどい内容だななんだこれ。レポートってもっとこう、授業を観察してさあ、建設的なさ、」
「何回目だと思ってんだ。書く内容もう無いんだよ」
「じゃあ参加すりゃいいだろ!?授業にさ。なに意地張ってんだよ」
意地を張っている。その言葉に反論したくなるのはそれだけ心当たりがあるからだろうか。意地を張っているのだとしたら誰に、何のために?参加しちゃえよ。そう囁く心の声も日々大きくなっている。それでも参加しないのはなぜか。初志貫徹の精神?そんなくだらない志は貫徹しなくてもよろしい。
けれど、少なくとも白波瀬と二人並んで授業をぼうっと眺める時間が心地よいことは確かだった。
「書きゃいいんだ、書きゃ。そうだろ?」
「はいはい、そうね。ああ、そのレポート職員室に持ってくんならさ、」
近藤は教室の前方、教卓の隣に置かれた机を指さす。そこには皆から集めた授業ノートが積まれていた。
「あれ二階の空き教室に持ってってくれよ。職員室から近いだろ?」
いやだ、と俺が言い終わらぬうちに、近藤は頼むよ俺今から数学のプリント終わらせないと授業に間に合わない今日当てられるんだとつらつら言葉を並べ、しょうがないので俺はレポート用紙をわきに抱え、ノートの束を胸の前で抱えたまま教室を後にした。
両腕で抱えたこの何枚ものノートが意外と重量を持っていることに気づいたのは教室を出て十数秒後、階段に差し掛かったころ。職員室は二階、俺たちの教室は四階だ。
沸々と沸きあがる近藤への怒りをエネルギーに変換し、階段を一段ずつ下りていると、
「あ、た......今坂君」
聞きたくなかった声。未だ温度を持った一年間の思い出と密接に繋がるその声は、階段を下りる俺の後ろから俺の頭に投げかけられたものだった。
振り返ると、五段ほど上に立つ一人の女子生徒が視界に入る。学校指定の紺色のベストに、ひやひやするほど短いスカート。艶のある茶髪をかけた右耳にピアス穴があることを俺は知っている。
「......何か用?」
声が震えなかったことが意外だ。しかし思ったより冷たい声色に自分でもびびってしまう。今更嫌われることを恐れてもどうしようもないのに。
「用っていうか」
橘葉月は一段こちらに近づく。久しぶりに聞いたそのハスキーな声には、怒りの色が混じっていた。ふわっと香るシトラスの香り、すらっとした体躯。懐かしくていやになる。
あのさ、と彼女が切り出したその時、
「おー葉月じゃん、何してんの?」
下方から声が降ってくる。見ると、ポニーテールの女子生徒がこちらを見上げ、首を傾げていた。確か彼女は橘と同じ陸上部のマネージャーをしていて......去年は俺とも同じクラスだった。
「あれ?今坂くんもいる。久しぶり~」
彼女は俺の姿を認めても、顔色ひとつ変えず上機嫌に手を振る。当たり前だ。葉月との関係は最初から最後まで周りの人間に秘していたものだった。まあ、近藤にはバレてしまっていたが。
「あれ?なんかお取込み中だったかな?」
俺たちの微妙な距離感に何か異様なものを感じ取ったのか、ポニーテールの彼女はわざとらしく頬をぽりぽり掻く。
「真面目なお話の邪魔しちゃった?だとしたらスマン」
橘は何でもないように首を振って見せる。
「ううん。何でもない。ただ今坂君の持ってるノートが重そうでね、半分持とうかって話してたところで。......ね?」
同意を求める橘の大きい瞳に、有無を言わせぬ圧が光る。俺もそこで本当のことを話すほど馬鹿ではないし、狼狽えるほど嘘が下手でもない。ああ、と軽く頷く。
「ちょっとした世間話だよ」
「そう?それならよかった。でも確かに今坂君が持ってるノート重そうだね。なんならあたし持とっか?」
ポニーテールの彼女は親切だ。しかし職員室までそう距離は遠くない。ありがとう、でも大丈夫。そう口にしようとした時、腕にかかっていた重みがぐんと減るのを感じた。
「わたし、職員室に用事があるんだ。ついでだからわたしが手伝うよ」
隣まで下りた橘が俺の抱えたノートを半分ほど持ったのだ。
「いいよね?」
今度は俺へ向けた言葉。多分の含みを感じるが、他人から見れば単なる親切だ。
「ああ、助かるよ」
俺はそう返した。
「おっけ、じゃあ頑張ってね。葉月はまた部活で。今坂君もまた......また、うーん、また会おうって感じで。よろしく」
ポニーテールを揺らしながら階段を駆け上がっていった彼女が見えなくなり、
「じゃ、いこっか。これ、職員室の隣の空き教室だよね」
さっきよりも少しだけ落ち着いたトーンで言い、橘は俺を追い越した。一瞬の逡巡の後、俺も彼女の背中を追う。
あのメッセージを送ってから、会話を交わすのがこれが初めてだ。できるだけ彼女の教室には近づかないようにしていた。一方的に別れを告げ、連絡も絶ち、対面での会話も避け、それで相手が何も思わぬはずがない。
すぐ前を歩く彼女の伸びた背中からは感情が読み取れない。いつもの彼女だ。......いつもの彼女ってどんなだっけ?俺はと言えば、心は不自然に凪いでいた。まるで嵐の前の静けさだ。平静を装う自分を、どこか俯瞰で見ている自分がいる。
ああそれでも、写真フォルダのあのツーショットを思い出せば、内側で独り言が渦巻き始める。どうにか向き合わないですべてきれいさっぱり終わらせられないか。せめてここから逃げ出せないか。だれかここに乱入して、すべてしっちゃかめっちゃかにしてくれないか。たとえばそう、白波瀬とか。
白波瀬?
飛び出した言葉にクエスチョンマークが浮かぶ。しかしそれは一瞬で消し飛んだ。
「佐」
後ろから聞こえた野太い声。振り返らずとも分かる。彼は可愛がっている生徒を名前で呼ぶのだ。
「新田先生」
俺の出した掠れた声に、それでも満足げに頷いて彼は一歩近づいた。俺たちは既に二階についていた。彼もきっと職員室に向かう途中なのだろう。
「ああ、橘もいたのか」
新田はいつの間にか俺の横に並んでいた彼女をちらりと見て言った。
「今坂君がノート運んでて、それで重そうだったから手伝ってるんです」
「ああ、そうなのか」
新田は橘の言葉に軽く頷き、それから俺をじっと見つめる。彼は教師の中でも背丈がずば抜けているので見下ろされる形にはなるが、ジャージを着ていると華奢に見えるので不思議と圧迫感はない。
「佐って橘と仲良かったのか。でもクラスは違うよな?」
生徒のことをよく見ている。思えば俺と橘は、学校ではあまり接点を作らなかった。新田が俺たちの学年の体育を担当するようになったのは今年からだ。不思議に思うのも頷ける話ではある。
「去年、同じクラスだったんですよ」
俺が口を開く前に、橘が答える。
新田は俺を見下ろしたまま、そうかと頷いた。
「なあ佐、水泳のことなんだが」
「じゃあわたし、ノート置きに行ってきますね」
新田の言葉を遮るようにそう言い、橘は空き教室へ向かった。彼はその姿を一瞬目で追いかけた後、俺に向きなおる。
「あの、これ」
俺は手早くレポートを渡す。部活の話か、授業の話か、どちらにせよ早くここから去りたかった。俺の心情を察したのか、新田は真面目な話をするのは諦めたらしい。彼はふうと息をついた。
「少し顔色が良くなった気がするよ」
「え?」
「授業を見学している佐を見てると、そう思う。俺に退部届を出したときはもっとこう、ずどーんとした感じだった」
「そ、うですか」
新田はああ、と頷いて、口角を上げた。
「もう顧問じゃないけど、でも、なんでも相談していいんだからな」
にかっと笑うと本当に爽やかな好青年そのものだ。女子生徒にモテるのも頷ける。俺は顔を逸らすように深く礼をし、そのまま空き教室へ向かった。




