第3話
「ちょっと、女の子の足首なんて掴んで許されると思ってるの」
「それはお前が何度言っても膝を曲げるから......」
「曲げてないわよ」
「曲げてるんだって」
さもありなん、と言ったところである。白波瀬が溺れてから一週間。そして俺が水泳を教えると約束してから一週間。正直、教えることを決めたその時から、こうなることは若干予想していた。
午後の温い光が曇ったガラス窓から差し込んでいる。午後一時あたりに現地で待ち合わせ、そして現在時刻は四時である。一応ここは八時まで使用できるみたいだが、流石にそんな遅くまで続けるつもりはない。
あの後白波瀬は、動画サイトでレクチャー動画を漁り、”水泳のキホン”とやらを叩きこんだという。イメトレで磨いたというその腕前は、意外にも感心に値するものだった。
もともと飲み込みは速い方なのだろう。それにしたって、そもそも水そのものを恐れている状態がスタート位置なのだから、開始数時間でバタ足の練習にまで持ち込めたのは予想外だ。相当の根気を覚悟していたのだが。
プールサイドを両手で掴み、足は延ばしたまま交互に、上下に動かす。そのたびに白い飛沫が生まれる。顔は水につけ、息が苦しくなったらその都度息継ぎ。問題は息継ぎのたびに白波瀬が何かと俺に文句をつけてくるところだ。そうまでして俺と喧嘩したいのか。
なんて思っていると、絶え間なく動いていた白波瀬の両足の動きが少し鈍くなっていることに気づく。
「そろそろ休憩するか」
この数時間、白波瀬の休憩嫌いは嫌と言うほど実感した。彼女自身、自らの状況に対しての焦りが強いのだろう。しかし、水は自分が思っている以上に体力を奪う。倒れられちゃ困るのだ。
「そうね。少し休みましょう」
意外にも白波瀬はすんなり承諾した。疲労を自覚していたのだろうか。
彼女はプールの底を蹴り、腕の力で体を持ち上げる。プールサイドに上がる動作も早くも板についている。
俺たちは、端に設置してあるベンチに隣り合って腰かけた。水が体温を奪うからだろうか。陸上で動いた時のようなじんわりとした体の熱さはない。プールの中では流した汗の量も分からない。だからある意味、危険なスポーツでもあるのだ。俺はプールに入る前に買ったペットボトルのミネラルウォーターを口の中に流し込んだ。
横に座る白波瀬は、スポーツドリンクを飲んでいる。濡れた体のまま飲み物を飲むのって、プール以外じゃあんまりないことだよな。彼女の顎の先から水滴がぽたりと落ちるのが見えた。
少しの沈黙。二人の間を漂う気まずさに空気が固くなり始める。息を吸い、俺は先週から疑問に思っていたことを、えいや、と投げかけた。
「そういや、なんで学校の水泳の授業、参加しないの。泳げないんならむしろ積極的に参加した方がいいんじゃないか」
白波瀬の唇がむにと歪む。機嫌を損ねたか?ちょっと言い方悪かったかな。
「......私ほど泳げない人なんてそうそういない。きっと先生だって匙を投げるわ」
「今日の様子を見ている限り、そう悲観する必要はないよ。むしろ筋がいい。この調子だと25mもすぐだ」
「......さっきはあんなにダメ出ししてきたのに、なによ急に褒めだして」
不満げな様子の白波瀬に、俺は少し困る。指導している最中、少々熱が入りすぎてしまうのは自覚していた。バタ足中、突っかかってくる白波瀬に同じテンションで返した結果、喧嘩まがいのやり取りになってしまったのがつい数分前である。......いやなんで白波瀬はいちいち突っかかってくるんだ?
「偉そうにしてたなら、悪い」
「そういうわけじゃ、ないけど」
そもそも教えてもらってるのは私だし、と付け加える白波瀬。彼女がきゃんきゃん突っかかるだけの人間じゃないことも俺は知っている。
「俺はこういう風に誰かに泳ぎを教えるのは初めてだからさ。特にゼロからスタートの相手は。だから教え方も昔自分が習っていた頃を思い出して見様見真似でやってるだけなんだよ。うまくやれてるのかは分からない、悪いけど。もし俺が偉そうになってたら、言ってくれ」
教える立場に立つと、否が応でも己の驕りが滲みだす。喧嘩しながらやれる方がもしかしたら健全かもな。ふとそんな風にも思った。
白波瀬は無言のまま、膝の上で弄ぶ白く長い指を見つめている。静かな息遣いが聞こえていた。数秒ほどそうしていたかと思うと、突然に話を切り出す。
「その、私ってほら、冷たい人、とか怖い人って思われがちじゃない?」
急になんだ、とかそりゃそう思われるだろ、とかは置いといて。しかしそこで力強く頷く訳にもいかないので、うーんと濁しながら一応首を縦に振り、肯定の意は表しておく。
「だから、皆の前で泳げない姿は見せたくない......悪目立ちしたくないし」
ああなるほど、そこに繋がるのか。まあ納得はする。というかそんなとこだろうなとは思っていた。プライドが高いのは見りゃ分かるし、そうでなくたってカナヅチを知られるのは恥ずかしいだろう、普通。
ただ、俺が考えていたのは少し違うことで。
「でも、むしろプラスに働く可能性もある。みんな完璧超人より少しくらい欠点がある人の方が親しみやすいしさ。白波瀬が実際そこまで怖い人じゃないってこと俺知ってるし。できないことがあるって知ってもらった方が、話しかけてくれる人も増えると思うけど」
俺がそう言うと、白波瀬は形の良い眉を下げてゆっくりと言葉を紡いだ。
「別に、そういうことを、望んでいる訳ではなくて」
そうなの?俺はてっきり友達作りに悩んでいるのかと。
「むしろ冷たい人だと思われるの、気に入ってるとか」
白波瀬は俺のことをきっと睨む。こんな風に鋭い視線を向けられることも、ここ数時間で随分と慣れた。
「気に入ってる訳ないじゃない。そんな風に思われて嬉しい人なんていないわ。そうじゃないの、そうじゃないんだけど、でも、事実冷たい人だってみんなに思われている訳じゃない?だから私が泳げないことに対して、みんなに意外性を見出されるのが何だか、癪、というか......」
面倒くさい性格してるなあ。
「それに、私別に友達が大勢欲しいとは思っていないの。もちろん私に社会性がないのは自覚してるし、それは欠点よ。認めてる。でも、沢山の人に囲まれて過ごすのが向いてる人間でもないと思うわ、多分ね」
あと偉そうな水泳部員に教わるなんて絶対に嫌、そう付け加えた白波瀬の声は今日一番感情がこもっている。結局それが最たる理由なのか。俺の脳内に、水泳部部長に怒りの火を滾らせていた友人の顔が浮かぶ。
「近藤みたいなこと言いやがって」
「近藤?」
白波瀬は首を傾げる。クラスメイトの名前を覚えていないのか?もうクラス替えから二か月以上経ってるぞ。
「俺とよく一緒にいる......ほら、白波瀬の顔に水かけたやつだよ」
その情報から顔と名前が一致したようで、白波瀬の顔に納得の二文字が浮かぶ。そして何を思ったか、その綺麗な目を意地悪く細めたかと思うと、
「ねえあなた、失恋したんだって?」
予想だにしていなかった会話の転換に一瞬思考が止まる。
失恋?いや、確かにしたけど。そういやこの数時間水泳を教えるのに夢中で、今の今まで忘れていた。あの日から毎日苛まれてきたはずなのになんだか不思議だ。
でもその話は近藤にしか。ああいや、そうか。
プールサイドでの近藤との会話が、おぼろげながら再生される。その時確か彼女は隣に。
「聞いていたのか」
そう言うと、
「言っとくけど、盗み聞きじゃないから。あの声量で話しときながら内緒話でした、なんて言わせないわよ」
つん、とそっぽを向いてそう言う白波瀬に、俺は苦笑する。
「別に責めるつもりはないよ。聞こえてて当然だ」
「ええそうよ。......で?」
「で?とは」
白波瀬はわざとらしいほど双眼を爛々と輝かせて、こちらにぐいと詰め寄る。
「そんなのきまってるでしょ。誰に振られたのか教えなさい」
野次馬精神を隠す気がない。普段そんな素振りをおくびにも出さない分、意外な一面かもしれなかった。そんなの興味あるの?
「なんで俺が振られた前提なの」
「失恋ってことは、そういうことでしょ?もしかして振ったの?」
「まあ、形式上はそうなる」
「形式上は?まどろっこしい言い方しないで。端的に説明するとどうなるの?」
「端的に?......端的にか、まあいいよ。端的に言うと、浮気をされたんだ。それを知ってしまったから俺から振った、というところだ」
白波瀬は目を大きく見開いたかと思うと、可哀想、滑稽ね、と呟いた。こ、滑稽?前者のみを呟くことは出来なかったのか?
「ねえ、誰と付き合ってたの?」
「そんなの知ってどうするんだよ」
「いいじゃない、知りたいのよ」
「多分白波瀬の知らない人だよ」
「それでもよ」
白波瀬の瞳から、好奇心の輝きは消えていた。じっと見つめるその目は深海の様に深く暗く、それでいて飲み込まれそうなほど美しく、俺の内側までをも覗き見られているような気さえする。
悩み事を親しい友人に話すと、胸のつかえがとれる。かつて彼女はまさにその相手であったことを思い出し、言ってもいいか、なんて思考がよぎる。彼女になら、全部吐き出してもいいのではないか。
すんでのところで冷静な自分がブレーキをかけるが、喉に湧きあがったその名前はすでに音を持ってしまっていた。
「橘葉月」
言ってからしまった、と思うが、まあ別にこれくらいなら近藤も知っているし、そもそも白波瀬が知ったところでどこに伝播するでもない。
「......っていう人と付き合って、ました」
「ふうん、知らない人」
案の定。
「なあに。その橘さん?のスマホでも覗いたわけ?」
言い当てられて悔しくなる。肯定しがたいが、事実なので頷くしかない。
「うわあ、プライバシー侵害よ。人のスマホ勝手に見るなんて最低」
その言い草に、少しむっとする。確かに正論だ。反論の余地はない。が、もう少しこちらに寄り添ってくれてもよいのではないか。
別にベタな恋愛ドラマのような展開を期待している訳でもないし、歯の浮くようなセリフをもらいたいわけでもない。彼女と別れたからと言って他の女の子に甘やかされようとするほど落ちぶれちゃいない。
しかし、目の前で人が落ち込んでいるのだから、何か気の利いた一言くらい欲しいものだ。
「白波瀬には失恋した奴の気持ちなんて分からないだろ。放っといてくれよ」
投げやりなその言葉を発して直後、まずいことを言ったと猛烈な後悔が胸を襲う。いくら苛立っていたからと言ってこれはよくなかった。俺たちはもう小学生のあのころとは違う。それなのに俺は自分が思う何倍も白波瀬に心を許していて、そして何十倍も無神経な奴だった。
恐る恐る隣の彼女の顔を見る。怒ってはいなかった。ただ驚きと気まずさが綯い交ぜになって何を言えばいいのか分からない、そんな顔だった。罪悪感が湧きあがり、ごめん、と口にしようとしたところで白波瀬は思い出したように眉を吊り上げた。
「謝らないで」
「え......」
「私がみじめになるじゃない。絶対に謝らないで」
その言葉にごめん、と返そうとして慌てて口をつぐむ。混乱して、謝罪以外の言葉が見つからない。沈黙を破ったのは白波瀬だった。
「まあ、私も悪かったわよ」
「え?」
「慰め方、よく分からないの。変に小説みたいな甘ったるいセリフ言って誤解されるのも嫌だし。でもこういうときにかけるべき適切な言葉も思いつかなかったの。ごめん」
「それは別に。......まあ、白波瀬に慰められるのも変な感じだし」
「そうかしらね」
白波瀬はスポーツドリンクを一口飲んで、立ち上がった。気づけばそれなりに時間が経っている。もうそろそろ練習を再開しても良いだろう。俺も腰を上げ、白波瀬に続く。先ほどまで漂っていたぎくしゃくした雰囲気は霧のようにどこかに消えていた。いやどうだろう。見ないふりをしているだけかな。
「ごめんなさい」
前を歩く白波瀬がぼそりと呟いた。俺に向けて言っているのは確実だが、何に対しての謝罪だろう。
「好きだったんでしょ、橘さんって娘のこと。ショックで部活辞めちゃうくらい」
どうだろう。あれから数週間経ち、絶えず燻り続けてきた灰色の感情を、それでもどこか俯瞰できるくらいには整理が済んでいた。感情とその由来を紐づけて、別にそれで何か解決できるわけでもないけれど。
そうだと頷くことも出来ず、俺は聞こえない振りをして白波瀬の背を追った。




