第2話
「まだ泳げないのか?」
そう聞いて数秒間、時が止まったような錯覚を感じた。しかしその後、徐々に紅潮していく白波瀬の頬を見て、時計の針はちゃんと動いていることを確信。
「な、何を根拠にそんなこと」
「いや根拠も何もさっき溺れてただろ」
「そ、それは......」
白波瀬は紅色の頬をさらに赤く染めて、しかし鋭い眼光は健在。眉を吊り上げてきっと俺を睨んだ。
「深さ、確認するの忘れてたのよ。まさか足がつかないだなんて思わなかったんだもの。普通びっくりするじゃない。そうでしょ?」
まあ、それは正直そうだと思う。どんなに泳ぎに自信があったとしても、パニックになったら藻掻くことしかできない。
とはいえ白波瀬の焦りっぷりは尋常じゃないし、飛び込み方も経験者のそれではなかった。それに、こうやって引き留めてしまった以上、はいそうですかと引き下がるのも後味が悪い。
「泳げるのなら悪かった。てっきり俺は泳げないから溺れたのかと。ほら、白波瀬はたしか、小二のときだったかな、学校のプールで足を滑らせて落ちて溺れただろ?」
幸いすぐに救出されたが、それ以来彼女は水泳の授業の季節になってもプールに寄り付かなくなってしまった。先生方も事情を考慮して彼女にとやかく言うことはなかった。
中学でも水泳の授業はあったけれど、それはどうしていたのだろうか。地元でも随一のマンモス校だったこともあり、彼女と同じクラスになることは遂になかったのだ。
「あれ以来、白波瀬がプールに入ってるとこ見てなかったからさ。先週も水泳の授業、全部見学してたろ?」
水泳の授業があるのは週に二回。彼女は初回の授業から休み続けている。
「うっさいわね。生理よ、生理。デリカシーのかけらもないわね、ほんと最低」
......それを持ち出されちゃ困る。正直今のは言わなきゃよかったと後悔している。
「じゃあ、来週からはちゃんと授業出るんだな?」
「ら、来週も生理.....」
「じゃあなんで今プールに来てるんだよ」
白波瀬はあっと口を押さえ、そっぽを向く。しまった、と顔に書いてある。
そういやこの人はこうだったな。こうやって話していると長らく開いていなかった思い出の蓋が緩くなる。見かけは冷酷な完璧超人。しかしその実頭のねじが少々緩く、肝心なところでへまをする。変なところで思い切りがいいが、思わず脱力してしまうようなミスを度々やらかし、しかし誰にも相談しないから誰もそれを知らないんだ。
「そ、そもそも授業に出てないのはあなただって同じじゃない」
「.....俺は見学でもいいんだよ。テストさえできりゃいいんだから」
「て、てすと」
聞きたくない言葉だったようだ。その場に座り込み、はあ、と大きくため息をつく。なんとも分かりやすいその姿を見ると、冷たい態度の腹いせも兼ねて少しいじめたくなってくる。
「白波瀬は泳げるんだろ?だったらテストも楽勝だよな?」
「うっ......」
「ちなみにテストは25mのタイムを計るそうだ」
「あばばっ......」
「タイムごとにA評価、B評価、C評価に分けられて......あでも、そもそもテストで25m泳げない奴は”論外”だと先生が言っていたな」
「ぐぎゃぎゃ」
プールサイドに手をつき四つん這いの姿勢になった白波瀬は、ゆっくりと顔を上げ涙のたまったうるうるの瞳で俺を睨んだ。
「......そうよ」
「え?」
俺が聞き返すと、白波瀬は濡れた髪を振り乱し叫んだ。
「そうよ、あなたが言う通り私は泳げないのよ!あのとき溺れてからいっぺんもプールに足を踏み入れたことはなかったわ。最初は水が怖かったから。でも学年が上がるごとに周りの皆が泳げるようになってきて、どんどん授業に参加しにくくなって!中学まではどうにかやり過ごせたわ、でも、」
「高校はそうもいかない、と」
「ええ、テストで合格しないと補修に呼び出されるんでしょ?どっちにしろ逃げ場がないじゃない!それで、それで......」
「練習しに来たのか。ここに」
「そうよ、そういうこと」
「じゃあなんでしょっぱなから飛び込んだんだよ。泳げないやつがとる行動じゃないだろ」
「だって怖かったんだもの。こうなったら荒療治しかないと思って......」
俺は腕を組んで天を仰いだ。ああ、やはりこいつは変わっていない。あの頃より言葉の棘が増しても、冷徹さに拍車がかかっても、その中身はどうしようもなくポンコツだ。意地悪なことを言う気にもなれない。
「プールで無茶をするのは絶対やめとけよ。陸上とは勝手が違うんだから」
そう言うと、珍しく白波瀬は素直にこくりと頷いた。さっきのでもう懲りたのだろう。
「で?目処はついているのか。テストは七月末だろ?あと一か月だけど」
「なんとか、やるわよ......」
彼女は弱弱しくそう言った、かと思えば、
「ごめん、それは嘘。正直絶望してる」
苦虫を噛みしめるような顔で即刻訂正。彼女が正直に自分の弱みを認めるなど、古い記憶を遡ってもそうそうない事態だ。ここにきて相当参っているらしい。
さてどうしよう。俺は無言で、へたり込む白波瀬を見つめる。ここから俺が言うべき言葉は一つだ。それを口にするための道が舗装されているとまで感じる。
頼れる友達がいるならそもそもこんなところに一人で来ないだろう。白波瀬が学校で誰かといる所なんて見たことがない。
そして俺は泳げる。自慢じゃないが水泳部ではかなりの好成績を残していたと思う。中学に入学するまで通っていたスイミングスクールでは選手クラスに誘われたことだってある。俺の唯一の取柄、大事にしてきたこと......。それをついこの間ぽいと捨てちゃったんだろ、というツッコミは一旦見ないふりをして。
これはチャンスかもしれない。そんな風にも思う。俺はこの数年間を思い出す。白波瀬との会話が消失した数年だ。俺は取り返えすことをあきらめていた。もう彼女と関わるつもりはなかった。でも、もう一度和やかに話せる日が来るかもしれないのだ。
彼女はこんなこと、きっと不本意なのだろうけれど。それでも。
「お、俺でよければ教えるけど」
若干の甘噛み。後悔。
そして白波瀬は俺の言葉を予想していたのだろう。意外そうな顔はしない。何か返そうと口を開いたようだが、なるほど、見たところプライドが邪魔をしているようだ。体は小刻みに震え、目つきの険しさは秒刻みに増していく。さしずめ、拷問にかけられる女騎士だ。くっころってやつ?......そんなに嫌なの?
それでも数秒後、かすれた声で、
「お願い、します」
俺はゆっくりと頷いた。
***
「いやあ、市民プールでナンパとは粋なことするねお兄ちゃん」
「ちげえって」
結局その日、白波瀬はそのまま家に帰っていった。あれだけ溺れれば体力気力ともども消耗するだろう。水泳の猛特訓は来週からだ。
そしてすっかり頭から抜けていた、トイレ帰りの我が妹のこと。
七海は幸いにも(?)白波瀬が溺れている所は目撃していないようだが、しかしその後二人がやんややんやと話している所はしっかりウォッチングしていたと言う。そんでもって、俺が何度ナンパじゃないと言い聞かせても聞く耳を持たない。




