第1話
プールサイドに座り、妹である七海の泳ぐ姿を観察する。最近スイミングスクールで練習しているというバタフライは、少々ぎこちないながらもうむ、それなりに形になっているではないか。さすが我が妹。
端まで泳ぎ切り、プールサイドに手をついた七海は水面から顔を上げ、
「どうだった?」
と聞いた。
「まあいいんじゃないか。うん、それなりに」
俺がそう答えると、七海は不満げに頬を膨らませる。
「なあに、そのやる気のない返事。何のために自主練にお兄ちゃん連れてきてると思ってるの」
「保護者役だろ?」
「違うよ。あたしは水泳部のお兄ちゃんにごしどーごべんたつタマワリたいんだよ」
むつかしい言葉を知っているな。流石利発な我が妹。
「俺は母さんに頼まれてんだ。小学生を一人でプールに行かせるわけにはいかないから、ついていってやれって。そもそも俺は”元”水泳部だし、やってた泳法は平泳ぎだ。バタフライの腕前は期待しないでくれ」
「むう......」
七海は両腕に力を入れ、プールサイドへ上がる。
真面目な我が妹は通っているスイミングスクールの練習のみでは満足せず、月に一度ほどこの市民プールに来ては自主練に力を入れている。その際に保護者役として毎回抜擢されるのが俺な訳だ。
もっとも、水泳部に所属していたころは大会に向けての自主練という名目も設置できたが、今となってはそれもない。完全なる保護者である。
「ねえねえ、お兄ちゃん」
「はいよ」
うんしょ、と立ち上がった七海は、俺を見下ろして言う。
「お花摘みにいってくる」
上品な我が妹は、どこで覚えたのか最近こういう言い回しにハマっている。
「どうぞ、いってらっしゃい」
七海はこくりと頷いた。
「なんのお花がいい?」
......その質問は想定していなかった。
「えっと、えー、......マリーゴールド?」
先ほどからスピーカーで流れている数年前に流行ったポップスが影響した。ここでは常に何らかの音楽が流れているが、音がハチャメチャにぐわんぐわんと反響して正直よく聞き取れない。
「ふむ」
七海は頷いてトイレへ向かっていった。
残された俺は、一人座り込んでいるのも変なので、どうせならひと泳ぎするかとプールへざぶん。
室内プールなので日光に悩まされることはないが、水はいまいちぬるい。俺はもっとこう、少し躊躇してしまうくらいの冷たさの方が好きだ。学校のプールのような。
全身つかると、水面はちょうど顎の下あたり。確かこのレーンは1.5mだったはずだ。そこまで広い施設でもないが、プールの深さの種類には富んでいる。ひざ下までのものもあれば腹のあたりのものも。そして俺の隣のレーンは2mだ。これは俺でも足がつかない。いくら泳げても、足がつかないというのはやはりひやひやするものだ。
その隣のレーンの向こう岸に、一人の女の子が立っているのに俺は気付く。はっきりとは見えないが、シルエットをなぞる限りやたらスタイルが良い。
同世代だろうか。若いことは確かだ。俺は水にぷかぷかと浸かりながら、珍しいなと思う。
特段栄えているわけでもない、どこにでもあるような町のどこにでもあるような市民プールだ。少ない客層の大半はジジババ、周りを見回してもやたらゆったりとクロールを続けるガリガリの爺さんと、スイムウォークに勤しむ豊満なマダムが数人ほど。俺達兄妹だってこの空間じゃなかなか異質なのだ。
水とちゃぷちゃぷ戯れることを目的にしている若者は隣町の大型レジャープール施設に行くだろうし、こんなところに来ているということはやはり彼女も水泳の練習だろうか。2mプールで泳ぐつもりなら、ある程度自分の泳力に自信があるのだろう。
しかし不思議だ。プールサイドに立つ彼女は、先ほどから水面をじっと見つめたまま微動だにしない。その華奢ながらグラマラスな姿は遠目でもなかなか見張るものがあるが、それ以上に行動の異様さに意識が向く。
プールには入らないのだろうか。まさか虫でも浮いているとか?いやそんなまさか。
そんなことを考えていると、ふと彼女の体が微かに傾いたことに気づく。
そこからは一瞬だった。おや、と思う暇もなく、彼女は奇妙に体を斜めに傾け、妙にぎこちなく、なおかつダイナミックに真正面からプールに飛び込んでいった。飛び込んだ......と言うより、落ちていったと表現するのが正しいのかもしれない。
例えるならば、プールサイドに立たせたマネキンの背中を後ろから思いっきり突き飛ばしたような、そんなダイブ。少なくとも俺はそんな飛び込みの方法は習ったことがない。
そして響き渡る、水面を割る音。白い水しぶきが盛大に跳ね、そのあとに訪れる静寂。しかし、待てど待てど彼女は水面から顔を出さない。
もしや俺がさっきから見ていた一連の奇行は、幻覚か何かだったのかと疑い始めたその時、水面から突如白く細い腕が飛び出したかと思うと、
バシャバシャバシャバシャッ
と、飛び出した二本の腕は悪魔憑きのごとく暴れだし、そのたびに水面が白く泡立つ。時折頭が飛び出してはまた沈み、それが繰り返され、呆然と見ていた俺はようやっと彼女が溺れていることに気づいた。
プールの監視台をちらりと見ると、大学生バイトだろうか、Tシャツを着た若い男性も彼女の異様な様子に気づいたのか慌てて動き出しているのが見えた。
......しかし、この距離なら。
俺は即座に隣のレーンに移り、息を大きく吸って水中に潜る。
きっと俺の方が速い。
力の限り壁を蹴る。全身に水の抵抗を感じ、しかしそれを切り裂いていくような、滑らかで柔らかい一本の線になったような、そんな感覚。ほんの数週間前なのに、もはや懐かしい。場違いにそんなことを一瞬考えたりした。
藻掻く彼女の姿が見える。溺れたときに肝要なのはとにかく焦らないこと。暴れないこと。冷静に体が浮くのを待つこと。そうはいってもそうはいかないのが人間だ。息ができない環境で冷静さを保つなんてなかなかできることではない。
俺は彼女の体を抱え、足で水を掻いてプールサイドに向かう。
「頼む、落ち着け、大丈夫だから......痛ッ!?」
その間、どれだけ暴れる彼女に蹴られたか。
実のところ、彼女が溺れていた場所はプールサイドと目と鼻の先で、彼女の体を抱えてから岸に上がるまではそう時間がかからなかった。彼女をプールサイドに押し上げて、俺も隣で息をつく。
その場にへたり込んで肩で息をし、時折咳き込む彼女に、遅れてやってきた監視員が無事を問う。力なく頷いているのが見えた。
あまりにも濃密な時間だったもんで感覚がバグってしまうが、彼女が溺れだしてから今まで、おそらく30秒ちょっとしか経っていないのではないだろうか。何はともあれ、無事なら何よりだ。
「君が助けてくれたんだよね?」
監視員の声に顔を上げる。
「ええ......」
ん?
視界の中に、存じ上げている顔がある。監視員のお兄さん......ではなく、助けた彼女の方だ。スクール水着を着用した彼女は、束ねた髪も今はぐしゃぐしゃで、目には涙がたまっていて、いつものそれとは似ても似つかないけれど、それでもはっきり分かる。
だって幼馴染だもの。逆になぜさっきまで気づかなかったのか。
「し、白波瀬......」
俺の声に、さっきまで溺れていた俺の幼馴染、白波瀬澪は肩を大きく震わせる。恐る恐る顔を上げ俺の姿を認めると、目を見開いて絶句する。
「い、いま、さか......」
俺は頷いて肯定を示した。
数秒間動きを停止した後、白波瀬は勢いよく立ち上がると、その場からの脱走を試みる。
「ちょ、待ってくれ!」
俺は白波瀬の腕をつかみ、状況がよくわかっていない監視員のお兄さんも困惑した表情で、逃げようとする白波瀬を抑えている。男性二人の静止を振り切れる訳もなく、取り押さえられた白波瀬は再びその場にへたり込んだ。
「あのですね、このレーンは2mでして、足がつかない方は大変危険ですので、練習でしたら足の着く深さでやっていただくか、あと泳げる方が他にいるなら、そばで見守っていただくとかですね、飛び込みも慣れていない方は危険ですから......あ、あとプールサイドは走らないでくださいね、危ないですからね」
「ハイ......すみません......」
監視員は一通り注意をすると、再び監視台の方へ去っていった。
「その......大丈夫か」
項垂れたままの白波瀬に声をかけると、微動だにしなかった頭が微かに動く。
「えっと、その、白波瀬はなんでここに来たんだ?」
なんでもない世間話でこの重い空気を少しでも軽く、という魂胆は白波瀬には通用しなかったようだ。白波瀬はぎろりとこちらを見る。
「なんで、ですって?」
「あ、ああ」
「泳ぐ以外、何かすることがあるの?ここはプールよ」
ごもっとも。
「いやまあ、でもプールはほら、隣町にもあるし」
「......私はここの市民よ。市民プールに行く権利があるわ。何か悪い?」
悪くはないが、答えになっていない。別に行っちゃだめなんて言ってないぞ、俺は。
「あなたは?」
「え?」
「あなたはなぜここにいるのか聞いているのよ......絶対こんなところで知り合いに会わないと思っていたのに」
最後の方は独り言じみていた。
「俺は妹の付き添いだよ」
ああ、そういやあなた妹がいたわね、と小さい声が聞こえる。
白波瀬は立ち上がり、ため息をついてこちらを見た。
「その、助けてくれたことに関しては感謝するわ。ありがとう。じゃあ私はそろそろお暇するから、」
そう言って立ち去ろうとする。いやいや待て待て、お暇ってお前さっきここに来たばっかだろ。プールに落ちて終わりって何しに来たんだ、と言いたいところだがそんなことは口に出せない。しかし、
「ちょ、ちょっと」
気づいたら白波瀬を引き留めていた。
白波瀬は面倒くさそうに振り返る。まだ何かあるの、と言いたげに目を細めている。あれだけ豪快に溺れておいて、よくもそんな冷たい視線を向けられるな。
「白波瀬、お前......」
己の中の冷静な自分がその先の言葉を発するのを全力で止めている。やめろ、それだけはやめろ。それを言うと、本格的に嫌われる。おそらくもう嫌われているけれど、それ以上に。
しかし止められなかった。疎遠になったとはいえ俺は彼女の幼馴染で、そして彼女が今日ここに来た理由はなんとなく推察でき、事実彼女はさっき溺れた。
「もしかして、まだ泳げないのか......?」




