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プロローグ

 それはほんの出来心であった。そろそろ付き合って一年になる彼女、橘葉月との仲は若干停滞しつつも基本的には良好で、しかし最近、どこかぼうっとしている時間が多いのは少し気がかりだった。


 即座に浮気を疑うほど俺も安直ではないが、まあ一応確認......と思い彼女のスマホをこそっと拝見すると、まさかのビンゴ。


 相手の男との吐き気を催すねばっこいメッセージのやり取り、俺もまだお目にかかれていない葉月の淫猥な姿を写したツーショット写真。


 ひっくり返るほど見事な浮気である。


 これはなんだと問い詰める気力も湧かず、俺は


「ごめん、別れよう」


 と一言送り、彼女の連絡先をブロックした。


 これが一週間前のことである。


***


 水しぶきの飛び散る音と、鼻につく塩素の匂い。水泳の授業であった。


「いやあ、曇ってんね」


 今しがたプールから上がってきた友人、近藤は見学中の俺に言う。ツンと立った直毛も、今は水泳帽に隠されていた。眼鏡をはずすと意外と薄い顔立ちをしているのだな、と俺はぼんやり思う。


 近藤からぼたぼたと垂れる水滴を体をよじって避けながら、俺は空を見上げた。


「そうだな。でもこれくらい曇ってたほうが気温的にはちょうどいいんじゃないか。まだ六月といえど、今年は暑い」


「そっちじゃねえよ」


 首をかしげる俺に、近藤はあきれた顔を向ける。


「曇ってんのはおめーの顔だ」


 むっとする。俺はもともとこんな顔だ。


「もう一週間経つんだろ?いい加減立ち直れよ。部活もやめて、その上授業までサボりか。お前らしくもない」


「オタク君にゃ失恋の痛みは分からんだろうな。あと、今日は水着を忘れたんだ。別にさぼりではない」


「へいへい、言い訳乙」


 あと、と俺は手に持った紙をひらひらと見せる。


「授業レポートさえ書きゃ、授業は出席扱いにしてくれるんだ。最後のテストに合格できれば、成績は何の問題もない」


「ほう、授業に出なくともテストなんて楽勝だ、と」


 そうだとも、と言いたくなるがすんでのところで飲み込む。近藤は何も言わない俺を見て、大げさにため息をついた。


「ま、そうだろうな。楽勝ですわな。なんてったって、水泳部のエース......あ元エースか。まあ、なんにしろ学校でのテストなんか朝飯前よな」

 

はいそうです、とも言いにくいが、実際のところそうである。


「俺が授業に出ようが出まいが、近藤には関係ないだろう。放っといてくれよ」


 俺がそう言うと、近藤はきっと目をむき、


「あ、る、わ!」


勢いよくプールの向こう岸を指さした。その方向に見えるのは、ぴちっとした海パンに、鍛え上げられた肉体の男子生徒。俺が所属していた水泳部の部長である。彼の立ち回りを観察すると、ああなるほど、この授業では水泳部の生徒が講師役を務めているのか。


「あいつが俺らの班の担当講師なんだが、分かるか?あの高慢ちきっぷりが。普段そんなに賑やかな奴でもないのに、なんだこの時間だけいきりやがって。あいつわざとみんなの前で俺に泳がせて、見てくださいこれが悪い例です、なんてしたり顔でいうんだぞ許せねえ。ちょっっっと泳げるからって何が偉いんだこんちくしょう。どうせ教わるならお前が良かったのになんだお前はサボりやがって!」


 そう言うと、近藤は水面を右足で蹴り上げる。盛大に跳ねた水滴は俺の顔面にシャワーのごとく降りかかった。


「ちょ、おま」


 文句を言おうと口を開いた瞬間、


「きゃっ」


 隣から短い悲鳴が聞こえた。


 慌てて隣を見ると、制服姿の女子生徒が顔についた水滴を裾でしきりに拭っている。近藤が蹴り上げた水が彼女にもかかったのだ。


「ごめん」


 と声をかけると、女子生徒は俺のことをきっと睨んだ。いや、どちらかというと悪いの近藤のほうじゃね?


 近藤は顔面を蒼白にし、土下座をする勢いで頭を下げる。


「ほ、ほんとすみません白波瀬さん、悪いのはこいつ、全部こいつのせいなんです」


 そう叫んで俺を指さす。卑怯な。


「おうい、近藤お前何サボってんだ。お前がこの班で一番泳げないんだからな」


 無駄にでかく太い声が向こう岸から響く。例の粋がっているらしい水泳部部長が目を吊り上げてこちらを見ていた。


「は、はいただいま......」


 いかにもだるそうに声を張り上げた近藤は、顔を逸らしチッと舌打ちをすると、


「......ということで、ほんとすいあせんした」


 白波瀬にぺこりと頭を下げ、足早に向こう岸へ向かった。


「悪いな」


 隣の白波瀬にそう言うと、ふん、と鼻を鳴らすのみで、返事らしい返事はもらえそうもない。


 白波瀬澪。クラスメイトにして、一応俺の幼馴染でもある。もっとも、幼いころのような仲の良さは跡形も残っていないけれど。


 集団の中でも一際目を引く美形の持ち主だが、数分でも一緒にいれば嫌でも実感する、このツンとした態度に冷たい視線。圧倒的な近寄りがたさに皆からは少し距離を置かれている印象だ。


 彼女も見たところ見学をしているようだ。怪我をしているようには見えないが、俺の様に水着を忘れた可能性もあり得る。なんにせよ、女子のプール見学の理由にあまり触れない方が良いことは流石に俺でも分かっている。


 しかし、水泳といえば、記憶が正しければ白波瀬は......。


 俺は隣の彼女をちらりと見る。


 流れるような黒髪と眩いほどの白い肌。ついその姿に目が吸い寄せられそうになるが、しかしあまりじっと見ていると、


「なに?」


 じろりと睨まれた。


「いんや、なんでも」


 俺は視線をレポート用紙に移し、さて、どんな適当なことを書いてこの紙を埋めようかと検討していると、


「お前ら、レポートは今日中に提出しろよ」


 野太い声が頭上から響いた。見ると、ラッシュガードを着用した体育教師だった。名を新田という。水泳部の顧問でもある。


 その声の太さに似合わず、なかなか爽やかな顔立ちをしている。年齢は確かまだ二十代半ばだったと思う。普段のジャージ姿だと華奢に見えるが、しかし彼は体育教師。薄着をしていると浮き出る筋肉が目立つ。女子人気は非常に高いと聞く......。


 せめて次の大会までは続けてくれないか。俺が退部の旨を申し出ると、この男はそう言って俺を引き留めた。お前はうちのエースなんだから、と。


 しかし、なおも首を横に振り続ける俺を無理やり説得しようとはしなかった。退部届を受け取ると寂しそうな顔で俺の肩にぽん、と手を置いた。


「お前はきっと水泳以外でも輝ける。でもなにか悩みがあるなら俺に言ってくれよ」


 それも一週間前のことだ。


「授業を観察して気づいたこととか、まあ何かしら書いてくれ」


 新田はそう言って俺たちににっと笑いかける。


 白波瀬は抑揚のない声ではい、と返答。俺は何か言おうとするもどうも言葉が見つからず、結局曖昧に頷くのみに終わった。なんとも愛想のない見学組である。


 新田は困ったように苦笑しながらその場を離れた。


***


「なあ、白波瀬さんキレてた?」


 近藤が俺に聞く。プールでの一件のことだろう。


「別に。そんなでもなかった。多分」


 どちらかと言うと俺にキレてた。何故?


 吹奏楽部の演奏が遠くから聞こえる。放課後、俺は近藤と並び校門に向かっていた。梅雨入りはまだのようだが、蒸し暑さにじんわりと汗がにじむ。


「お前ってさ、白波瀬さんと小中一緒なんだろ?あの人、昔っからあんななの?」


 あんな。例えばすぐに人を睨んだり、返事が極度にそっけなかったり、人に好かれようという気概が一ミリも感じられないような冷たい態度とか、そういうことだろうか。


「まあ昔から人付き合いが得意なタイプではなさそうだったが」


 それでも今ほどではなかったし、俺と白波瀬は何度か校外で遊んだこともある。ただ、ここら辺はあまり突っ込まれると面倒だな。


「俺も中学以降はめっきり会話しなくなったからな。詳しいことはよくわからん」


 なにか話題を変えようとグラウンドの方に視線を向ける。と、全身の筋肉が硬直するのを感じた。


 俺の異様な様子に気づいた近藤が、遅れてグラウンドを見る。


「どしたー?......ってああ、橘さん」


 肩の上で切りそろえられた茶髪とすらっとした長い脚。彼女はストップウォッチ片手に、何かを記録している。陸上部のマネージャーなのだ。


 幸い向こうは俺に気づいていない。俺は重い体を無理やり動かし、校門へ急いだ。


「ちょ、ちょ、置いてくなよ」


 駆け足で俺に追いついた近藤が非難の目を向ける。


「そもそも俺さあ、詳しいことなんも聞かされてないんだけど」


「......」


「浮気されたってことしか知らないんだけど」


「......」


「何?もしかして相手の男、陸上部の連中だったりする?」


「......」


 頑として口を開かない俺に、近藤はため息をついた。


「別に、言いたくないならいいけどさ」


 ありがとう、とため息交じりに呟く。近藤は静かに頷いた。


 我ながら、いい友達を持ったと思う。申し訳なさに胸を痛めながら、俺は校門前で近藤と別れた。橘と別れたことは、近藤にしか伝えていない。彼には感謝しているのだ、本当に。

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