第22話
俺たちの乗る電車は、見慣れた街を抜けて海へと向かっていた。
とはいっても。今のところ、窓から見える景色はうっそうとした森と、田んぼ、そしてときどき集落。視界に入る色のほとんどは緑だった。青くて広い海はまだ先だ。
少々古びた内装のローカル鉄道は、季節のわりに客が少ない。いつも乗っている私鉄よりもこじんまりとしたスケールが、心地よかった。
出不精な性格も手伝って、俺は自発的に旅にでたことはあまりない。意外、と言われることもあるが、俺はインドア派なのだ。家族や友人に連れ出してもらわないと、きっと地元のみで一生を過ごしてしまうだろう。
セミの声がノイローゼになりそうな八月初旬。冷房の効いた部屋でのんびりゲームでもしていたいこの季節に、俺と白波瀬がわざわざ炎天下の中海へ繰り出しているのは、無論俺と彼女が付き合っているからだった。
カップルと言うものは、まあ普通、海くらい行くだろう。そのくらいのノリでふんわりと始まったこの日帰りの旅は、今のところ結構いい感じだ。隣に座る白波瀬との距離は、以前よりも少し近づいたような気がする。物理的に。
彼女は今、物珍しそうに車窓を眺めている。森がそんなに面白いだろうか。
「そういや、白波瀬って海、行ったことあるの?」
昔交わした会話をふと思い出し、そんなことを聞いてみる。
白波瀬は景色から視線を外し、きっと俺を睨んだ。付き合い始めてもその鋭い眼光は健在だ。
「私のこと、舐めてる?」
「舐めてない、舐めてない。ほら、昔言ってたじゃないか、海見たことないって」
「いつの話よ!?いくらなんでも昔過ぎるわよ。大体、小学校も中学校も修学旅行で海の近く行ったじゃない」
そうだった。厳島神社、綺麗だったね。
「失念してた。でも、その頃からずっと思ってはいたんだよ」
「何を?」
「白波瀬と一緒に海、行ってみたいなあって」
白波瀬は小さく息をのんだ。そして肩をすぼめ、くすぐったそうにはにかむ。
「わ、私も、その、海を見るのは初めてではないけれど、でも、こういうのは初めてだから.....」
「こういうの?」
白波瀬はそれに答える代わりに、膝に置いていた俺の手を取って、軽く握る。互いの指を絡め合わせ、俗に言う恋人繋ぎとかってやつ。
「こ、こういうの.....」
彼女の手は小さく、指先の触れる手の甲はどきっとするほど滑らかだ。互いの手のひらの熱が溶け合って、どちらが照れているのか分からない。きっと二人ともだ。
顔をもちろん、露出した細い肩までも真っ赤に染まっている。目は潤みまくって、唇は変色するくらい強く噛んでいる。ここまで行くと心配にもなってくるが、彼女は恥を耐えて死ぬ気でデレてくれているのだ。
死ぬほど可愛かった。
「あっ、海!」
白波瀬の声に顔を上げると、向かいの車窓に、ちらりと青いものが映ったような気配。しかし木々ですぐに覆われてしまう。見間違いかと思ったその時、うっそうとした緑は突然途切れ、広大な海が視界に広がった。
「海だ.....」
電車は気付くと、海沿いを走っていた。
雲一つない青空と、同じくらい広くて青い。水平線を見るのなんて、いつぶりだろう。気が遠くなりそうなほどはるか遠くまで続く海に、俺は声を出すのも忘れて見入ってしまう。
並んだ白い波は、まるで筆で描いたようだ。はるか遠くに見える船は、ここからはミニチュアのよう。一秒でも目を離すのが惜しいくらい。視界に映る何もかもが澄み切っていた。
隣にいる白波瀬も、瞳をきらきらとさせて目の前の風景を焼き付けている。さっきまで手を繋いで照れていたというのに、すごい変わりようだ。でも仕方がない。内陸の民は海の魔力には抗えないのだ。
「綺麗.....」
「ああ.....!」
俺たちは顔を見合わせて、頷きあう。こんな風に鮮やかな感情を共有できただけでも、海に来て良かったと思う。
情けないことに、俺は人と付き合うということがまだよく分からない。交際経験があるにも関わらず、だ。初めての白波瀬に関しては、俺の比ではない。だから、俺たちは恋人っぽいことをなぞっては二人で笑いあって、そうやってゆっくりと歩いている。
友達でいる時間が長かったからだろうか。変わった関係性に馴染むのにはもう少し時間がかかりそうだ。でも、試行錯誤する時間も二人なら楽しい。つまりそういうのが付き合っているということなのだろう、多分。
電車を降りて、バスで数十分ほど揺られると、砂浜が見えた。
穴場だと聞いていたけれど、やはり今は絶賛夏休みシーズン。カラフルなテントがいくつか張られてある。浅瀬に浮いた浮き輪に、子供たちのはしゃぐ声。子供時代の家族旅行を思い出してノスタルジーに浸っていると、
「ねえ」
白波瀬がシャツの裾をちょいちょいと引っ張る。彼女はもう片方の手で、近くに立ててある地図を指さし、
「あっちの方が空いてそうだけど」
見ると、ここから少し歩いた先に、もう一か所砂浜に下りられる場所があるらしい。確かに、ここじゃあまりゆっくりはできなそうだ。向こうは遊泳禁止だそうだが、そもそも水着も持ってきていないので問題はない。
俺たちは地図に従い、木々に囲まれた薄暗い小道を抜ける。ひとたび海水浴場を離れると辺りはしんと静かになり、思わず不安がよぎる。ここって通っていい場所だよな?
数分ほど歩くと木々は途絶え、踏みしめていた土はいつのまにか白い砂に変わっている。遠くまで続く砂浜には、座り込んで海を眺めている人、綺麗な貝殻をさがす子供たち、ゆっくりと歩くカップル.....。穏やかな時間が流れていた。
波打ち際に近づくと、鼻に慣れぬ潮の香りが、海に来たという実感をこれでもかというくらいに搔き立てる。正直、決して愉快な香りでもないなとは思う。ずっと嗅いでいたいわけでもない。でも、胸が苦しくなるほど夏の匂いだ。
俺は目を眇めて海を見つめる。眩かった。潮の香りを大きく吸って、吐いた。透き通ったさざ波は、重い音を立てる。プールでは聞かない音だなと思った。当たり前だけど。
「あ、あった」
後ろで白波瀬が声を上げる。振り向くと、彼女は桜色の貝殻を持ってにこにこしている。
「見て、綺麗でしょ」
つるりと透き通り、筆で塗ったように淡く色づいている。白波瀬の唇のような色だと思った。
海風が白波瀬のワンピースをふわりと揺らす。レースのあしらわれた白いキャミソールワンピースは、華奢な彼女によく似合う。肩回りの露出が激しいにも関わらずいやらしさは微塵もない。下手すれば野暮ったくなりそうなデザインだが、儚げに着こなせるのは彼女の才能だ。
「何?どうかしたの?」
白波瀬が、急に黙り込んだ俺の顔を覗き込む。
「.....可愛い彼女がいて、幸せだと思った」
第一回思っていることを素直に言ってみたらどうなるか大作戦。
「へ?え、な、え?.....狂った?」
結果、白波瀬は照れた。その赤い顔に背を向けて、俺は火照った頬を海風で冷やそうと試みる。俺も照れていた。海風は温かった。
少し歩こうか、と声を掛け、二人で海岸を歩く。さらさらとした砂がスニーカーに入り込んで、足の裏が熱い。じゃりじゃりして鬱陶しいので、いっそのこと靴を脱いで、裸足で歩くことにした。さらに熱い。砂浜は柔らかい。固いのは貝殻だ。踏みしめていると、なんだか大いなるものに触れているような感覚がする。都会の人間の感想だろうか。
振り向くと足跡ができていた。俺の裸足の跡の横に、白波瀬のサンダルの跡が並んでいる。スマホで写真を撮った。きっとこれも、すぐ波が均してしまうのだろう。
「ありがとね」
歩きながら、白波瀬がぼそりと言う。
「何が?」
「あのとき、保健室に来てくれて」
「昔の話だなあ」
「昔の話よ。でもずっと覚えてるの」
風で揺れる黒髪を、無造作に耳にかけた。
「あのときから、ずっと私の中にあなたがいるの。一人の時間はいつも、あなたと話したこと、思い出してた。あれから忘れようって頑張ってたけど結局無理で、やっぱり自分の気持ち、言っちゃった」
「うん」
「受け止めてくれてありがとう。今は、今坂が私の中だけじゃなくて、その、目の前にもいるから、えっと.....し、幸せ、だなあって」
思うのよ。そう言った声は掠れていた。隣にいる彼女はむずむずと唇を動かして、視線は下方に向いている。
俺の胸に、熱いものが広がっていた。照れている。でもそれ以上に、それ以上だ。
「多分ね、今坂はモテると思う」
「そうかな」
「そうよ。きっとそう。私より優しくて、気立ても良くて、器用で、素直な女の子がきっとあなたのこと好きになる。それでも.....それでも、私のこと選び続けてくれる?」
不安そうに俺を見つめる白波瀬に、俺は憤りさえ覚える。
白波瀬の好きなところを挙げることはできる。いくつでも。でも、だから好きになったのかと聞かれればそうじゃないと答えるだろう。ポイント制で好きになるものか。もっと、こう、根本的なアレなのだ。
「人生だから」
「は?」
「白波瀬は人生なんだ」
白波瀬は目を点にして口を半開いている。
「なんか、スケールでかすぎて逆に疑わしいんだけど.....」
「失礼な、本心だよ」
「んんん」
「だから、つまりなんだ、その」
俺は立ち止まって白波瀬に向き合う。人形のような顔を見据え、俺は息を吸った。
「俺は多分、白波瀬が思っているより、白波瀬のことが好きだよ」
そういうことだ、つまり。
「あ、りがとう.....」
頬を手のひらで押さえ、白波瀬は弱弱しくそう言った。
恥ずかしい会話をしているような気がする。歯の浮くようなセリフでも、案外本心ならすっと言えるものなんだな。新たな発見だった。とはいえ俺も十分照れている。
誤魔化すように伸びをした。目の前に海が広がっているこの光景も、大分慣れてきた。夏が終わっても思い出せるように、しっかり目に焼き付けておかないと。
寄せては返す波が、数えきれないほど寄せては返し、俺はふっと力を抜いて白波瀬に言った。
「そろそろ戻ろうか」
***
「あづがったあああ」
海辺のカフェは観光客で賑わっている。海に臨む窓際の席で、俺はコーヒーフロートを、白波瀬はオレンジフロートを頼んでいた。
「熱中症になるかと思ったわよ」
「ほんと、洒落にならん気温だな」
爽やかな景色に騙されそうになるが、さんさんと照る太陽は容赦をしてくれない。海風もぬるく、浜辺なんて熱射地獄だ。令和の夏は、思い出に浸る隙も与えてくれない。
俺は持ってきたタオルで首筋を拭う。こりゃ、室内プールの需要も増えるだろう。夏休み中は、俺たちの通っていた市民プールもいくらか賑わうのだろうか。
「わっ、おいしい.....!」
向かいに座る白波瀬が、オレンジアイスを一口食べて頬を緩めた。フロートなんて、こういう場所じゃないと食べる機会もない。アイスが溶けきる前に頂かないと。俺も慌ててスプーンを持った。
コーヒーフロートは、バニラアイスが浮かんでいる。コーヒーに白いアイスが溶けだして、上の方には不思議な模様ができていた。一口食べると、うむ、冷たさが体を生き返らせる。
「そういや、白波瀬ってオレンジ好きなの?」
25m泳げたときも、オレンジジュースを選んでいた気がする。
白波瀬はむっと唇を突き出した。
「昔、あなたも好きだったじゃない、オレンジジュース」
「そうだったけ?」
「そうよ!」
なぜ俺より覚えているのだ。
「一人だけ大人になっちゃって.....」
恨めしそうにコーヒーフロートを見る。
「いやでも、これ甘いよ?俺まだブラックは無理」
「そうなの?」
俺は目の前のグラスを、彼女の方に差し出す。
「食べてみる?」
少し考えて、俺は自分のスプーンですくって彼女の口に向けた。あーんという奴を、やってみようと思ったのだ。一応カップルだし。
「じじじ自分で食べられるわよ!?」
白波瀬は向けられたスプーンを強引にむしり取り、自分の口にぽいと突っ込む。間接キスだな、と俺は思う。それを気にしてしまう時点で、実際のところ俺もなかなかうぶなものだ。
「うん、甘い.....のかな。味もうよく分かんない。甘い気がするわ。多分おいしい」
「白波瀬のそういうところ、いいと思う」
「どういうところよ」
俺はそれには答えず、彼女から返してもらったスプーンでアイスを食べ進める。
窓の外を見ると、いつのまにか水平線から入道雲がもくもくと生えている。夏って感じだ。
「来年も、またどこかに行こう。ここじゃなくても、どこでも」
きっとどこでも楽しいはずだ。




