第21話
白波瀬のマンションを訪れたあの日、帰ってきた兄の着ている服を見て、七海は目を丸くしていた。なにしろ、朝着ていたものと全く違うのだから。電車が止まっていたからしばらく友達の家に寄っていたと説明しても、妙な勘の良さを発揮して、やいのやいのと質問攻めの嵐。
「ねえその友達って誰?」
「ねえほんとにその友達って男の人なのかな?」
「ねえ水泳の練習に付き合ってる女の子はほんとうに関係ないのかな?」
と、まあこんな感じだ。
正直こちら側にも後ろ暗い部分があるので、強気で反論できないのは弱点だ。そこを突いて、七海はますます執拗に問いただしてくる。
母さんが窘めてくれたから良かったものの、うざったいことありゃしない。
「あんたが着てった服、あちらで乾かしてもらってるんでしょ?」
服を返しに行くと言うとちょっとしたクッキーの詰め合わせを渡された。ご家族で食べることを想定しているのかもしれないが、向こうはあいにく白波瀬一人だ。
俺は紙袋を二つ抱えて、待ち合わせの場所に来ていた。
大雨のとき以来、初めて白波瀬に会う日だった。
俺が指定したのは、市民プールの近くにある公園だ。夕方の入り口に近づいて、太陽もてっぺんから落ちてきた。遠くにある木々の方から、セミの声が聞こえる。アニメなんかじゃセミと言ったらミンミンゼミだが、実際耳にするのはもっぱらクマゼミの方だ。
クマゼミのシャカシャカとした鳴き声は、正直風情よりも騒々しさが勝ってしまう。それでも夏が終わればノスタルジーに負けて恋しくもなるのだろうか。
真夏に足を踏み入れた今日この頃、体の内側に入り込むような熱気に体中からべたべたとした汗が染みだしてくる。この暑さが引くなんて今は想像できなかった。
待ち合わせ場所を外に指定してしまったことを猛烈に後悔しつつ、せめて白波瀬を待たせないよう俺は予定の時間より早めに電車に乗った。そして、時刻はもうすぐ四時。白波瀬はそろそろ姿を見せる頃だろう。
熱を持ったベンチに腰掛けながら、 俺は浮かび上がる言葉を吟味しては捨て、吟味しては捨て、ただそれをひたすら繰り返している。この期に及んで、俺はまだ言うべき言葉を選びかねていた。
気持ちは固まっている。痛いほどに自覚している。でも、言葉にしたくて向き合うと、どこから形にすればいいか分からない。素直な感情をそのまま伝えようとしたって、一言だけじゃ済まないのだ。
俺はベンチの背もたれに体重を預け、空を見上げる。気持ちの良い青空だ。青色の絵の具でベタ塗りしたような広い空に、立体的な雲がいくつか浮かんでいる。思い出の中のような、夏の空だった。
「.....今坂」
空にいきなり白波瀬の顔が浮かび、俺はぎょっとする。慌てて姿勢を戻すと、ベンチの裏に立って俺を覗き込んでいた白波瀬は、わ、と言って後ずさった。
「ご、ごめん。もう来てたのか」
「今、ついたところよ。ついたら、あなたが変な姿勢取ってたから」
びっくりしたじゃない。いつものような強気な口調に、少しだけ躊躇いが混じっている。あの電話以来初めての会話なのだから、そりゃそうだ、意識するだろう。俺もしている。
白波瀬は、透け感のあるフリルのシャツに、デニムのショートパンツを合わせていた。露出した白い脚が太陽の光に照らされて、映えている。緩く巻いた黒髪には、シンプルなヘアピンがよく似合う。水泳の練習とは明らかに種類の異なる華やかさに、少したじろぐ自分がいた。
視線をさまよわせてると、ベンチに置いてある二つの紙袋が目に留まる。
「こ、これ。借りてた服と、一応、お礼のお菓子」
「お菓子?」
「うん。母さんに持たされてさ。多分中身はクッキーだと思う」
「ク、クッキー」
白波瀬はありがとう、と言いながらもひきつった顔で紙袋を受け取る。黒焦げ事件のことを思い出しているのだろうか。ちなみに、もらったクッキーはあの後一人で頂いた。ちょっと、甘かった。ちょっと。
白波瀬からも乾燥の終わった服を受け取り、二人の間に気まずい空気が流れる。
無論、これだけのためにここに呼んだわけじゃない。それは彼女も察しているようだった。
「少し、歩かないか。ここじゃ暑いし」
俺は公園の脇から続く小道を指し示す。重なった木々で自然のトンネルが形成されているそこは、日光で透き通った緑が適度な薄暗さを作り出し、遠くから見ると聖域めいていた。少なくとも、直射日光の当たるここよりは涼しそうだ。
あの道を抜けると、確か小さな池に着くはずだった。
俺が歩き始めると、白波瀬は隣に並ぶ。柔らかそうな黒髪から、ふわりと甘い香りがした。
「ねえ」
「ん?」
白波瀬は俺を見上げ、その透き通った瞳を意味ありげに揺らす。
「橘さんって、その.....」
「この間、新田先生と話をしたよ」
俺がそう言うと、白波瀬は軽く息をのんだ。彼女もプール横での一件以来、何か察してはいたのだろう。俺の言葉で確信を得たのか、彼女は静かに言った。
「じゃあ、あなたが橘さんのスマホで見たものって.....」
俺は頷いた。それで十分通じたのだろう。彼女は俯き、白い顔に影を落とす。
木々に囲まれた小道は、重なり合う葉の隙間を通り抜けた光がまだら模様を作っていた。相変わらず暑いが、穏やかな景色につられ、思考は凪いでいる。
「まあ、話したと言っても、ちょっと説明を受けたくらいなんだけど。でも、言いたいことは言えたよ」
「言いたいこと?」
白波瀬は軽く眉根を寄せた。
「先生にブチ切れたの?」
「まさか」
俺は笑う。ただ、状況を客観的に見ると、俺が怒ったって許される場ではあったと思う。
「感謝を伝えただけだよ」
「感謝?」
「うん。お世話になった先生だから。別に皮肉とかではなくて、ただ自分の感情に向き合った結果、そうなったんだ」
白波瀬は曖昧に頷いた。理解はされなくてもいい。俺のしたことが正しかったかどうかは分からないが、ここに来るために必要なことだった。
「ちゃんと向き合おうって決めたんだ。今まで、俺はずっと逃げてたから。先生の件も、それに、卒業式でのことも」
隣で歩く体がびくりと震えた。目を白黒させた白波瀬がこちらを向く。
「あ、あれは悪かったわよ、勝手に逃げ出して。でも、逃げたのは私であってあなたじゃない。あなたは、別に悪くないじゃない。こ、断るのも、自由.....だし」
「それでも」
木々のトンネルが開けて、向こうに池が見える。俺は立ち止まって、白波瀬を見据えた。
「それでも、俺はずっと後悔してたんだよ。あれから話すこともなくなって、中学三年間ずっと後悔していた。悔やむくらいなら、さっさと話しかければいいのに、俺はそれをしなかったんだよ。もう終わったことにして、諦めてたんだ」
「そう.....だったの」
「ああ。今こうやって並んで歩けてるんだから、きっとすぐ友達に戻れたはずなのに。俺は逃げてたんだ。でも、今回は逃げたくない」
俺の緊張を感じ取ったのか、白波瀬の肩が固くなるのが分かる。
言いたいことの半分も伝えられていないような気がする。それでも、もう時間は巻き戻せない。最後まで、突っ走るしかない。
「だから、俺は白波瀬に真剣に向き合って、その、前みたいに逃げたくはなくて。あんな風に気まずくなって終わるのは嫌だから、いろいろちゃんと、逃げずに考えた結果、その。結果がだな?つまり、あーっと、その」
自分を殴りたくなってくる。ありえない。俺ってこんなにチキンだったのか?
直接的な言葉を、脳みそが全力で無視していた。輪郭はつかめているのに、音にならなくて空振り。俺はここにきてようやく理解する。そうか、人に告白するというのはこんなにも怖いものなのか。
白波瀬の顔をちらりと見る。俺の申し訳なさそうな顔に、彼女の表情がくしゃっと歪んだ。迫る痛みに耐えるように俺から目を背け、悲痛な顔で唇を噛む。
あまりの俺の情けなさ故に何か良くない誤解を与えていることに気づき、思わず俺は、
「あ、大丈夫、大丈夫。俺白波瀬のこと好きだから!」
ぶんぶん手を振ってそう言ってしまった。
「.....え?」
白波瀬は姿勢はそのまま、ぽかんと口を開けて俺を見る。
「そうなの?」
「.....はい。そう、です」
「好き、なんだ」
「好き、です」
沈黙が訪れる。失敗した。その自覚が、じんじんと鈍く胸に響く。
とてもじゃないが、好意を告げた後に流れる空気とは思えなかった。本当はもう少し、こう、力強く言うつもりだったのだ。ロマンチックを演出しようと思っていたわけではない。ただ、こんな行き当たりばったりの告白じゃなくて、もっと、こう.....。
「あはっ」
鈴の音のような、軽やかな笑い声が聞こえた。白波瀬が口を押さえ、目を細めている。
「なにそれ、告白のつもり?」
「ああ.....」
「あはっ、なにそれ。ありえないわよ。そんな告白、聞いたことない。私てっきり、振られるかと思ったじゃない。これからも友達でいようって言いだしそうな雰囲気だったじゃない。それがなによ、いきなり好きって。あははっ。ほんとありえない。ありえないわよ.....」
ありえない。そう繰り返しながら、声は徐々に滲んでくる。彼女は唇を震わせながら、目に溜まった涙を人差し指で拭った。
まずい。俺は焦る。明らかに俺が泣かせた。なぜだ。俺の告白があまりにもありえなかったからか。ダサすぎたからか。もしやこれは幻滅の涙か。だとしたら俺は世にも奇妙な形で玉砕を経験することになる。とにかく、今は。
もうこの際、情けなくても、不格好でもいい。ただ思っていることをそのままぶつけるまでだ。俺は一歩踏み出し、距離を詰める。
「好きなのは、本心なんだ!ほんとに俺は、白波瀬のことが好きで.....。小学生の頃も今も、変わらず白波瀬の隣にいるのが嬉しくて、楽しいんだ。些細な動きでも可愛いなって思うし、白波瀬にとっても俺が一番ならいいなって思ったし、そういうことを考えて、白波瀬のことが好きだって気づいて、だから、その、」
温かいものが俺にぶつかる。俺は後ろによろけて、何とか踏みとどまった。背中に彼女の手が伸びる。あの日マンションで嗅いだ落ち着いた香りが、鼻孔をくすぐる。俺は、白波瀬に抱きしめられていた。
「ばかぁ.....」
俺の胸のあたりにうずもれている白波瀬から、くぐもった声が聞こえる。
「白波瀬.....」
「ありがと。ありがとね」
白波瀬は顔を上げて俺と目を合わせた。頬も耳も目も赤く、目じりは涙で濡れて、きらりと光っている。嚙みしめるように何度も瞬きをし、長いまつ毛に涙の粒が乗った。いつものようにきゅっと唇を合わせた後、俺の目を見て微笑む。
「私も。私もあなたが好き」




