第20話
昔観たドラマのことを思い出していた。当時テレビに流れていたそれは既に再放送のもので、元はもっとずっと古い作品だったように思う。記憶が定かではないな。もしかすると両親が借りてきたビデオだったかもしれない。
少し不気味なタイトルに反して、それは恋愛ものだった。薄ぼんやりと覚えているその内容は、確か生徒と教師の恋を描いたものだ。割ときわどいシーンもあったはずなので、幼い子供に見せる内容としてはとてもじゃないが適さない。うちの両親は、そこらへんはあまり頓着していなかったらしい。
禁断の恋、という謳い文句が当時はあまり腑に落ちなかった。ドラマに出てくる女教師はとても美人だったし、高校生なんてもう大人同然だった。確かに年は離れているが、お互い好き同士なら結婚しちゃえばいいじゃん、と無邪気に思っていたのだ。
いざ知り合いがやらかしたら、たまったもんじゃないな。少し大人になった俺は、最悪の形で事の重大さを実感することになってしまった。退廃的な雰囲気漂うそのドラマは、今でも嫌いではないけれど。しばらくは観られそうにない。
部活をやめたのも授業に出席しなかったのも、今思えばあてつけでしかなかった。確かに感じたショックを俺は整理した気になって、その実なにも片付けてなどいなかったのだ。
このままなあなあで終わってくれと願っていたのは、ただ怖かったからだ。卒業式での告白も、橘との関係も、先生との対話も、ただ俺は受け身で、素直な感情を表明することをひたすらに避けていた。
行き先が分からなかったのだ。そんなことをして何になる。これが俺の世界の常套句だった。俺が黙っていれば、少なくとも自分が事態を悪化させることはない。だから、大丈夫だと。
しかし今、道は開けている。マンションからの帰り道。出来上がったばかりの水たまりを避けながら、俺は白波瀬のことを考えていた。保健室で顔を合わせてから今まで、変わったことと変わらないことを比べ合わせ、結局それで得たものは、俺が彼女のことを愛おしいと思っているという発見だった。
なら、もう、そうでいいんじゃないか。
彼女のことを考えて胸が熱くなるのであれば、彼女の体温をいつまでも肌が覚えているのであれば、俺の行く先は、彼女の隣でいいのではないか。
そう思った。から、俺は今喫茶店にいる。
店は、学校からほど遠く離れた位置にある。よほどの悪い偶然が起きない限り、知り合いに会うことはないだろう。
何やら落ち着いたクラシック音楽が流れている。夏休みは始まったばかりだが、店内には空いている席もちらほら。外は、今日も今日とて雨だった。
窓際の席で頬杖をつき、ガラスの上で追いかけっこをする水滴を目で追う。しとしと、という擬音の似合う、落ち着いた雨だった。天気が心象に反映したのか、はたまた、たまたまか。俺の心は状況に似合わずやけに静かだった。
先に注文したアイスココアを飲みながら、俺は呼びつけた相手を待つ。そういや、待ち合わせのときって先に飲み物頼んでてもいいんだっけ。いいよな?そこのところのマナーはよく知らないな。まあ、向こうは大人なのだから、ガキの少々の無礼は許してくれるだろう。
「.....佐」
低い声に顔を上げる。入学したてのとき、太い声とその容貌が若干釣り合っていないな、と思った記憶がある。ハンサム、なんて言葉も今日日聞かないだろうか。でも、そんな感じの容姿だ。
「待たせて悪い」
新田は俺の向かいの席に座り、アイスコーヒーを注文した。
「すみません、雨の中遠くまで」
「いや、いいんだ」
「電車ですか」
「うん。久々に乗ったよ」
そうですか、と返して、俺はアイスココアを一口飲んだ。そういや彼は毎日車で学校に来ていた。
向かい合う俺たちの姿を見て、周りの客はどう思うだろう。親子.....は流石にないか。兄弟が一番自然か?年の離れた友達でも、まあなくはない。まさか教師とその教え子だとは誰も思うまい。
教師が私的な用事で生徒と会うなんて、ばれたらヤバいですね。
そんな文句が頭に浮かんだが、あまりにも皮肉めいていて口に出すのはやめた。笑えない冗談が過ぎる。
「教師って、夏休みあるんですか」
「君らみたいに八月まるまる休めるわけではないけど.....まあ、何日かはね」
「へえ。授業ないのにやることあるんですか」
「そりゃあ。研修とか、授業の準備とか。あと、部活だってあるだろ」
部活。俺がその言葉に反応すると、新田はしまった、と言わんばかりに顔をしかめる。分かりやすいな、この人も。
「大人って大変だなあ」
俺はもう、そんなことで胸をざわつかせたりはしない。
純粋に思ったことを言ったまでだった。”大人”である新田を皮肉るつもりなど全くなかったのだが、向こうはそうフラットには受け取らなかったようだ。はは、と自嘲気味な笑い声が彼の口から漏れた。
「雨、最近多いですね」
「そうだな」
怪我の周辺をなぞるような、毒にも薬にもならない世間話を続ける。二人の間にあるわだかまりは、痛いほどにその場所を共有できているのに。
「おまたせしました、アイスコーヒーです」
女性の店員がテーブルにグラスを置いた。俺が頼んだココアもそうだが、メニューの写真よりも倍はでかく見える。目の前に鎮座する、二の腕ほどの太さのアイスコーヒー。おお、と彼が小さく呟く声が聞こえた。その素直な反応に、俺の口角が緩む。
店員が頭を下げて去っていく。新田はブラックのまま、涼しい顔をして一口飲んだ。悔しいが大人なのだな、彼は。
「俺、橘と付き合ってたんです。今年の五月まで」
俺は覚悟を決めて、口火を切る。が、新田にとってはあまりに唐突だったらしい。彼は大きく咳き込み、おしぼりで口を押さえる。
「あ、ごめんなさい」
「い、いや、いいんだ。すまない」
彼は息を大きく吸い込み、何かを断ち切るようにふっと一息吐いた。
「そうか」
穏やかにそう言った。
大人の態度だった。その裏に確かにあるはずの情動はひとかけらも見えない。あの日、プールの横で見た彼の動揺が嘘ではないかと思うくらい。
「去年の五月、向こうから告白されて。それで、付き合い始めました」
静かに彼は頷いた。
「今年に入ってから、ちょっと橘の様子がおかしくなって。それで五月、俺は橘のスマホをこっそり覗きました。そこで、写真とやりとりを見つけたんです」
「それで別れた、ということか」
俺は頷いた。
新田が取り乱さないことが、救いで、ずるい。これじゃ、俺の弁解を彼に聞いてもらっているみたいだ。彼の背後にあるいやらしい事実と、目の前の冷静な顔がどうも結びつかない。
淫行教師、と詰るべきだろうか。きっと彼は逆上などしないだろう。でも、俺はそんなことをしにここに来たわけではない。
「去年の冬頃だったかな。橘から、相談を受けることが多くなった」
語り始めた彼の目は、不気味なほどに澄んでいる。視線はアイスコーヒーに浮く、透明な氷に注がれていた。口調はいつものように穏やかで、生徒の相談に乗るときの彼そのものだった。
「家庭のことについての相談だったよ。橘は両親のことで思い悩んでいた。自分が相談相手として適した人間なのか、それは分からなかったけど。言いにくいことを吐露してくれたのだから、少しでも力になりたいと思ったんだ」
そこで、唇を湿らす。彼は何かを思い出すように目を細めた。
「仕事帰りの夜、学校の近くの川で彼女を見つけたんだ。遅い時間だったもんで声を掛けたら、彼女は死にたい、と。俺は焦ったよ。とにかくどうにかしなければいけないと思って、今考えれば、あれがきっかけだったのかもしれない」
道を踏み外すきっかけ、ということか。
彼はそれ以上語らなかった。けれどその後の顛末は何となく想像できるし、第一聞きたくもない。視点さえ変えれば、彼と橘の物語も魅力あるインモラルになり得るだろうか。
ともかく、二人の間に何があったのかは分かった。
俺はスマホを取り出し、写真フォルダを開く。そして、当該の写真の右上のある、ごみ箱のマークを押した。
「写真、消しました」
新田は無言でおしぼりを弄ぶ。
「怒らないのか?」
「怒ってほしいですか?」
返事は返ってこなかった。
「謝らないんですか?」
「謝ってほしいなら、謝るよ」
「いえ、別に」
彼は愚かだが、感覚の鈍い人間ではない。自分の過ちの重さは、誰よりも彼自身が分かっているだろう。そのうえで俺に縋るようなことを言わないのは、彼なりの覚悟なのかもしれない。決して許されないことであるからこそ。
俺も別に、彼に倫理を説きたいわけではない。説教する義理はないし、湧かない怒りを無理やり絞り出しても体力の無駄だ。
「俺、高校では水泳やるつもりなかったんです」
「え?」
突然の話の転換に、新田は視線を上げる。
「中学の水泳部の顧問が、すっごいヤな奴で。すぐ怒鳴るような人だったんです。なんだかそれで疲れちゃって、水泳はもういいかなって思ってたんですけど。でも、高校に入学してから水泳部の見学に行って、それで顧問の先生がすごくいい人そうだったから、じゃあ続けてみてもいいかなって思ったんです」
「.....そうなのか」
「他の部活の奴、羨ましがってました。顧問が新田先生なの最高じゃんって。俺もそう思います。だから、」
だから?接続を間違えたような気がする。でも、だから、だ。
「ありがとうございました」
俺は頭を下げた。彼は嫌がるだろうけど。たとえ相手が誰であろうと、人の嫌がることはしたくない。でも、口に出したことは全部俺の本心だ。
優しかった先生の裏の顔を知ってしまったようで、嫌だった。しかし、その優しさは犯した罪とも地続きで、決して嘘なんかじゃないのだ。だから、水泳部で指導してもらったあの日々も汚れない、と思いたい。
「あと、授業もサボってごめんなさい」
「いいんだ」
もう一度、いいんだ、と繰り返し、コーヒーを口に含んだ。
沈黙が訪れ、俺たちは視線を窓の外に移す。相変わらず雨が降っていた。
この一か月続いた灰色の何かが、終わったような気がした。




