第19話
痛いほどの無音の中で、私は泣いていた。瞼も息も熱く、表情そのものがふやけてしまったみたいでもうぼろぼろだ。ソファーに寝転がって、湧き出る涙を何度も拭って、しまいには拭うことも諦めた。
ああ、私ってほんとばかだ。やっぱり衝動的に動く体を止めることができなかった。感情を押さえつけることができなかった。
今坂に怒られた昨日、それでも関係を途切れさせたくなくて慣れないお菓子作りに挑戦した。結局焦げちゃったけど。彼は怒っていないと言ってくれた。膝から崩れ落ちそうなほど安心した。
きっとあのまま、心地よい関係のままいられたはずなのに。後先考えず、気を抜くと感情は主導権を握り、言葉は口から転げ落ちる。部屋に招いてシャワーを浴びて一緒に映画を観て、きっとそのまま私たちは、これからもとても仲のいい友人として過ごせたはずなのに。
卒業式のあの日。彼のひきつった顔が教訓のように脳裏に刻み込まれている。調子に乗るとああなる、だから気を抜いちゃだめ。私はもう二度とあんな風に傷つくことはないと、だから大丈夫とあの日の私に約束したのだ。それなのに。
またこうなっちゃうんだ。
ばかばかばか。私はクッションに顔をうずめて悶える。
明後日は水泳のテストだ。コンディションは最悪。この一か月の、もう取り戻せない日々を想いながら泳ぐんだ。ゴーグルに涙が溜まって、目が開けられなくなって、それで溺れて先生に見学していたことを詰められるまでの一連の流れが、うんざりするほど想像できる。
「ううううううううう」
やるせなさが唸りになって、私は虚空に吠えた。
テーブルに置いていたスマホが震える。見ると、今坂からの電話だった。少し迷ってから、私は通話ボタンを押す。
「さっき言ったことは忘れて」
すぐさまそう言い、私は通話を切る。これでよし、そう頷いた直後、自分の行動の無礼さに気づいてまたもや頭を抱える。私はどうしていつもこう。
もう一回かけようか。逡巡が頭の中を巡っていると、またもや通話がかかってくる。見なくてもわかる。今坂だ。
内心感謝しながら、私は暴れる心臓に手を置いて通話に出た。
「.....ごめん」
「え?なにが?」
「なんでもないわよ」
「うん?分かった。あと、こんなこと聞いて悪いけど、さっきのって、俺に対してっていう解釈で合ってる?」
「さっきの」
「いやその、なんだ。白波瀬の、その、す.....」
「言わないで!?」
「あ、ごめん」
なんてことを聞くのかと憤るが、よく聞くと電話越しの彼の声も決していつも通りではない。普段の柔らかさは消えて、固さが増していた。緊張しているのだ。そう気づいて、耳が熱くなる。もうこうなったらやけくそだ。
「そうよ、その通りよ。今坂のことを言ったのよ。悪かったわね!?私はさっきあなたに告白したの、好きなの、なにか悪い!?」
なんで私、逆ギレしてるんだろう。もう自分でも何を言っているのかよく分からない。肩で息をついていると、電話越しに彼の微かな息遣いが聞こえる。ああ、これから振られるんだ。
痺れるほどの悲しさが、体の中心で疼く。胸の底に氷が触れたみたいだった。きん、としみるように痛い。また私は失敗したのか。
わざとらしく足の爪を弄ぶ。誰に見せるでもない強がりだった。心は恐怖で震えている。
彼が息を吸った。私は固く目を閉じる。
「少し、考えさせてくれないか」
.....地獄に落とされると思っていた私の体は宙に浮いたまま。だからと言って、天国に連れて行ってもらえるわけでもなかった。急に力が抜け、私の口からはあ、と間抜けな声が漏れる。
「今度はちゃんと、白波瀬に向き合いたいんだ」
ああ、と思う。なんだか、それは、私が聞きたかった言葉かもしれなかった。向き合ってそれで、断られるかもしれない。でもなにより。
私はいつの間にか落ち着いていた胸を撫で、息をゆっくりと吐いた。
ありがとう。私の初恋を一笑に付さないでいてくれて。
***
プールの底に書かれた五本の青い線に従って、テストは五人同時に受ける。プールの端から、端まで、25m。男女に分かれ、テストは男子が先、それから女子だ。
待っている生徒はプールサイドの端に固まって待機している。最初こそ応援や茶化しの声も聞こえていたものの、ものの数分で大半の人は飽き、それからはお喋りに興じている。
出席番号順だから、今坂は初手の一組の一人だった。流石に速い。競うものでないことは重々承知しているが、やはり五人の中ではぶっちぎりだった。傍から見ていればその差は歴然だが、それでいてせわしなさはないのだから不思議なものだ。あくまで優雅に、ひと掻きで驚くほど加速をつける。
完全に水中を掌握しているのだ。あんなに速かったんだ、と囁く周りの声に、私は内心でほくそ笑む。私は知っていたけどね。へへ。
飛び交うお喋りのなかで、私はじっと泳ぎを観察する。大体の人は、特に問題なく25m泳ぎ切るようだ。おそらくB評価に当たる人たち。私もその一人になれるかな。
あっという間に順番は回ってきて、次は私の番だった。
あいにくの曇りで、プールの揺れる水面も鮮やかさに欠ける。気温がそこまで上がらなかったのには感謝だけど。我に返ったように緊張が胸に立ちのぼる。喉の奥に鼓動が響いて、唾をごくりと飲んだ。
「がんばろうねっ、白波瀬さん」
声を掛けてきたのは、隣のレーンの須崎さんだった。ゴーグルを調節しながら、くりっとした目の彼女は私に笑いかけた。話したことのない人だ。土壇場で芽生えた仲間意識ゆえだったかもしれない。でも、私の緊張は、いつの間にか本番に対しての興奮に変わっていた。私は彼女に頷いた。
一か月みっちり練習したんだもの。私はすでに泳げる。ならできることをそのまますればいいだけだ。
市民プールとは違うひんやりした水に、ついにここまでたどり着いたことを実感する。先生が笛を咥えた。そして鳴り響く甲高い音は、水中でくぐもったものに変わる。私は思いっきり壁を蹴った。
「はい、お疲れ」
記録係の若い女性の体育教師は、目線を紙に落としたままそう言った。
終わってみればあっけないものだ。私は息を整えながら、軽く頭を下げた。
「そういや、白波瀬なんでずっと見学してたの?」
去ろうとする私に、その教師は問う。
「小さい頃に色々あって、ちょっとプールって苦手なんです」
「ふうん?ま、泳げるんならいいんだけどさ」
彼女は私への興味をなくしたらしく、持っていたボールペンで顎を自分の顎をつっつき始めた。




