第18話
約二時間の映画が終わり、俺たちはすっかりぐったりしていた。水泳の後とはまた種類の異なるだるさが、重力の存在をことさらに感じさせる。恐怖を紛らわすために頻繁につまんでいたスナック菓子は、いつのまにか底をついていた。
結末は、結局よく分からなかった。後味は決して悪くないが、ハッピーエンドにしちゃあ人が死にすぎている。嫌な事件だったね。腕も何本もなくなってしまいました。
気づくと雨は小降りになっている。荒ぶっていた天の神も、発作が落ち着いたようだ。窓の外は随分と穏やかになっていた。電車が動いていなくとも、このくらいなら徒歩で帰れるだろう。
「そろそろ帰るよ」
俺が立ち上がると、白波瀬は何か言いたげにこちらを見る。しかし少し視線をさまよわせた後、ええ、と静かに頷いた。
正直、名残惜しさはある。悩んでいた昨日の夜がはるか昔に思えるほど、濃密な時間だった。それに、俺が帰れば白波瀬はまたここに一人残される。本人が平気でも、あまりその光景は想像していて気持ちの良いものではない。
だからだろうか。少しでもこの時間を引き延ばしたいという思いが、口から質問となってこぼれ出た。
「寂しくないのか?」
「え?」
白波瀬は動きを止める。
「子供のころから一人の時間が多かったって言ってただろ?今もほぼ一人暮らしみたいなものだし。寂しいとか、思ったりしなかったのか?」
ただもう少しこの場にいたかっただけ。そんな理由で尋ねるには、踏み込みすぎてしまったような気がする。後悔が苦く広がっていく中、白波瀬の顔を見ると、彼女は顎に手を当て考え込んでいた。
「寂しいと思ったことがない.....と言うと、きっと嘘になるわね」
「そうか」
「でも、そもそも小さい頃は疑問にも思っていなかったわね。これが普通なんだと思ってた。私、友達いなかったもの.....あなたに出会うまではね」
思っていたより真摯に答えてくれる白波瀬に、俺はほのかに罪悪感を覚える。でも嬉しかった。彼女はソファーの上で体育座りをし、両腕で膝を抱く。
「今坂、家族の話よくするから。当時はちょっと羨ましかったな。自分の家が普通ではないって知って.....別に落ち込みはしなかったけどね。ただ、両親が2人とも帰ってこない夜とかは、一人で色々考えちゃったりもしたかな」
そこで一息ついて、彼女は顔を上げた。
「でも、それでも良かったのよ、私。友達が少なくとも、お父さんもお母さんも帰ってこなくとも、今坂が私の隣にいてくれさえすれば、それでいいって思ってたの」
白波瀬は自嘲的に笑った。俺に聞かせようとしているわけではないのだろう。彼女の語りはいつの間にか独り言めいたものになっていた。
「昨日、私は何も知らないって、あなた言ってた。だから放っといてくれって。私、それ聞いて反省したの。今坂のこと、知ってるつもりだったから」
つい勢いで口から出てしまった言葉だ。心の底からそう思っている訳ではない。そこまで真剣に受け取らないで欲しいが、彼女はどこか遠くを見たまま話し続ける。
「私、中学三年間何もなかったの。空っぽの時間だった。学校と家の往復で、誰とも話さない日の方が多かった。何も語れる思い出なんてないの。でも、あなたはそうじゃないのよね。きっと友達もたくさんいたはずだし、部活で活躍して、恋愛だってしてきたでしょ。いろんな経験を経て、ここにいるんでしょ?私、それが分かってなかったのよ」
私は、あなたとの思い出以外空っぽだから。苦々しくそう言って、目を伏せた。
「何も知らないくせに、分かった気になってたの、私」
「でも」
何を言うかも決まらぬうちに、否定で割り込んでしまった。しかし、声を出さずにはいられなかった。何とかして、彼女の抱える鬱屈とした感情を払拭したかった。確かに俺は彼女より友達も多い。人並みの、それでも空っぽではない人生を送ってきたと自負している。
しかし、どうしても俯いている彼女に伝えたいことがある。
「俺は、白波瀬と過ごした時間が、今でも一番楽しかったと思っている」
「.....へ」
白波瀬はゆっくりと目を見開き、掠れた声を出す。俺の言ったことを理解したのか、頬はどんどん赤くなる。桃色の小さい唇がぷるぷると震えているのが見えた。
恥ずかしいことを言ってしまったと思う。でも本心だ。俺は照れているのを隠すために、白波瀬に背中を向ける。
「じゃ、じゃあそろそろ俺は.....」
「すき」
耳に届いた微かな声は、俺の体を硬直させる。反射的に振り向くとうるんだ瞳の彼女と目が合い、それが聞き間違いでないことを確信した。部屋はしんと静まり返り、さっきまで気にもならなかった掛け時計の秒針の音が耳につく。
卒業式の記憶が、鮮明に蘇る。まだ蕾だった桜の下の光景が、マンションのこの一室と一瞬ぼんやりと混ざりあう。
汗が噴き出す。何か返答を返さねばと脳がぎしぎし音を立てて動き出したそのとき、俺の顔面に柔らかいものがぶつかった。ごく鈍い衝撃とともに目の前が暗くなる。そしてそのまま俺の顔を離れて床に落ちたそれを見ると、ソファーに置いてあったクッションだ。
投げつけた張本人である白波瀬は、呆けた俺の顔をきっと睨む。赤い頬に涙が一筋流れた。
「帰って!」
「え、でも」
「お願い帰って、死んで!」
俺の話を聞き入れる気はないらしい。泣き叫ぶ白波瀬に追い出されるような形で、俺はマンションを後にした。
ビニール傘にぽつぽつと当たる雨粒の音を聞きながら、帰り路を歩く。整理できず悶々とした思考のなか、俺の頭に浮かんだのは除湿器にかけられたまま返してもらっていない服のことだった。




